第7話 アメリカンとモンブラン
宙からの電話を思い出しては、千花はため息をつく。
「かあさんから聞いた?」
「ケンカして出ていったって、それだけだよ」
「そっか」
本当に、ただのケンカなのか。真の原因を、千花は知りたい。
「パパがなんで出ていったのか。お兄ちゃんは知ってるの?」
「うん。とうさんが出ていったのは、さ」
宙は、言いよどんだ。
沈黙が流れた。
「つまり、その。好きな人がいるんだって」
「は?」
好きな人が、いる。
いわゆる不倫、なのだろうか。あの父が、信じられない。
顔も見たくない、出てって!
母の激しい言葉は、裏切られたことへの怒りか。それならば合点がいく。
「父さんは、その人と暮らしたいんだと」
「えーーっ」
そのことも母に伝えたのか、だとしたら?
怒るのも当然だ、だけど。
「千花。言いにくいんだけど、その相手って」
またもや口ごもる宙。
「うん?」
「男性、なんだ」
千花は、耳がおかしくなったのかと思った。
不倫の相手は、当然、女性だと思っていた。まさか、そんな。
私はどうしてBLが好きなんだろう?
中学二年の時、ふとしたことで存在を知り、無性に惹かれた。キモイという人もいるが、千花はそうは思わない。男同士であるがゆえの苦悩を乗り越えて愛し合うカップルの話には胸が締め付けられそうになる。
だが、いざ自分の父親に、同棲したいほど好きな同性がいると聞かされて、平静ではいられない。
パパは、それほど彼が好き、なんだよね。パパはゲイなの、それともバイ?
そんなことを千花は考えたこともない。
呆然となる千花の耳に、宙の声が聞こえた。
「家族会議をしたらどうかな」
離婚は夫婦だけの問題ではない。
子供の頃より影響は小さいだろうが、自分たちも関わる権利がある、と宙は思うのだ。
「そうだね。パパの言い分も聞きたいし」
うつろな声で、千花は答えた。
中学の終わり頃。
書店のBLコーナーで新刊を手にしたとき、視線を感じた。同じクラスだった女子二人が、こっちを見ていた。
あんなもの読むのか、と、非難とも嘲笑ともつかない視線。
あわてて本を元に戻し、店を出た。
卒業式も終わっていたし、彼女たちとは別の高校で、それきり会うことはなかったが。
BL好きというだけで色眼鏡で見られることを、千花ははっきりと認識した。普通のラブコメ、つまり男女の恋愛ならば。漫画でもアニメでも大っぴらに話せるのに、BLは、そうではない。
同性愛を扱った作品が好き、というだけで奇異の眼で見られる。
LGBTという言葉が一般に広まった今も、性的マイノリティは差別されて当然、といった風潮を、千花でさえ感じていた。
その日、自室に戻ると千花は、本棚に並べていたBL関連の本やコミックを、チェストの引き出しにしまい込んだ、友人が遊びに来た時、目につかないように。
「仁さん、モンブランが好きだよね」
闇の中で、由宇がささやく。
「なんで知ってんの」
仁は慌てた。それがおかしいのか、由宇は笑いながら、
「僕、『喫茶室L』で働いてるんです」
と言った。
「仁さんは、必ずアメリカンとモンブランを注文する、ミルクも砂糖も入れないでしょ」
「ああ」
それで分かった、缶コーヒーがブラックだった理由。由宇は、自分の好みを知っていた。
まさか、あの店で働いていたとは。月に一度だが半年以上、通った。
「気づかなかった、ぜんぜん」
「仁さん、僕の顔を見ないから。いつも『アメリカンとモンブラン』て、ぶっきらぼうに言うだけ」
人の顔を見ないようにしているのだ。正確には男の顔を、だろうか。昭との時みたいにはなりたくない、二度と同性と面倒な関係には。そんな警戒心がいつもはたらいているようだ。
いきなりキスされ、かっと体が熱くなった。
だめだ、帰らなくては。
だが、立ち上がれない。
由宇に手を握られ、ふりほごくこともできず、気づけば上野の安ホテルで抱き合っていた。
嵐のような時間が過ぎ、少し呼吸が落ち着いた頃、由宇がまじめな声で言った。
「いつもこんなことしてるって思わないでね」
仁の手を取り、
「既婚者とはつきあわないんだ、結局、そのことでサヨナラされちゃうから。でも、仁さんの横顔にドキッとして、それから気づいた、指輪をしてることに。
仕方ないよね、好きになるのと、指輪に気づいたのと同時なんだから。それに、お客さんを好きになったってどうにもならない。見ているだけにしようって」
月に一度しか来店しない仁を待ちわびる日々。
仁が現れると、とんでいってオーダーを取った。
急に来なくなって寂しかった。もう二度と会えないのかと落ち込んでいた矢先。
「さっき帰りの電車で見かけて、後先考えずについてきちゃった。
上野で降りたから、夜桜見物かと思ったら、あっちの出口に行くからさ。もう、びっくりだよ」
由宇が語り続けるのを、仁は混乱のまま聞いていた。
「また会ってください」
別れ際、由宇は電話番号のメモをくれた。
まさか、もう二度と。手の中でメモを握り潰したが捨てるられず、丁寧に皴を伸ばして改めて眺めた。
園村由宇というフルネームと電話番号。メモを、財布の中に入れた。
罪悪感がなかったわけではない。
しかし、知ってしまった男の味は、あまりにも強烈だった。
一週間もたたず、仁は由宇に電話した。
その週末に、由宇の小さなワンルームマンションに出かけた。確かに狭かったがきちんと片づけられ、居心地がいい。
残業が長引いたとか、時には終電車に間に合わないからカプセルホテルに泊まる、とか。口実をつくって由宇との密会を重ねた。
夏美に疑われることはなかった。夏美の友人たちは多くが独身で、休みの日には彼女たちと出かけたがった。
夏美は、仁に興味を失っているように思われた。親が望んだとおりに早めに結婚した。無難な夫を確保して、いつまで続くか分からない東京暮らしをエンジョイしたい。そんな気持ちだったのだろうか。
結婚相手として、夏美は仁にとっても申し分ない相手だ。
夏美の両親も、いい人を見つけた、と喜んだ。父親は中学の教頭で、じき校長にもなる人材。固い家の息子、は夏美の両親には必須条件だったのだ。
「キスだけで満足できる相手を探すんだな」
あの言葉も
「おまえはさ、俺とヤるのが怖いんじゃない。俺とヤったら男が好きだと認めることになる。それが怖いんだよ」
あの言葉が、今更のように胸に突き刺さる。
俺は、ゲイなのか。夏美のことは好きだし、抱くこともできるからバイか。
分からない。本当に分からないんだ。
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