第5話 東上野の公園で
仁は、いわゆる「いい子」として育った。
手のかからない子だった、と母は言ったし、中学の時は何も言われなくても受験勉強に励んだ。父が中学教師ということもあり、模範的とまではいかなくても問題を起こしてはいけない。はっきり意識したわけではないが、頭の隅にそんな意識があった。仁は、進学校として知られる隣市の高校に進んだ。
中学、高校では、周囲にはちらほらカップルがいた。恋愛は受験の邪魔、が世間の常識だし、仁もそう思っていた。
誰かにときめくこともなく高校二年になったある日。突然、仁は同じクラスの村上
「仁のこと、ずっと好きだった」
熱く見つめられても、どう答えていいかわからない。
男が男を好き?
そんなの普通じゃない!
親や周囲の価値観から、それは大きく外れていた。
「困るよ」
他に応えようがなかった。
「俺のこと、嫌い?」
「そんなことないけど」
どちらかといえば好感を持てるタイプだ、もちろん友人として見てのことだが。長身で整った顔、さっぱりした性格で、クラスでは目立つ存在だった。おとなしいだけが取り柄の自分の、どこがいいのだろうと仁は不思議だった。
嫌いじゃないなら付き合って、と何度も言われ、仁は友達としてなら、と受け入れた。
一緒に映画に行ったり、買い物をしたり好きなゲームの話をしたり。普通の友人同士がするような付き合いは、昭にキスされたことで新たな段階に入った。
初めてのキスは、同性が相手でも、たとえようもなく甘美だった。拒絶されなかったことで、昭は次第に大胆になった。
昭のことを好き、とは断言できない。でも、なぜかキスは拒めない。
気づいたら、昭の熱い思いに流されるように、仁は昭に友人以上の気持ちを抱いていたが。これ以上、関係が進むのは怖い。
来年は受験だし、勉強が手に着かなくなったらダメだから。どっちも合格したら、その時は必ず。
そう約束して、学校以外で会うのはやめよう、と決めたのが高三の夏だった。
怖い、怖いって。俺はいつまで待てばいいんだよ。
昭のいら立つ声がよみがえる。
お前は東京の大学。おれは地元。今ダメなら、次は夏休みまでお預けか?
合格したらお前を抱ける、それを励みに頑張ってきたんだけどな。
それは仁も同じだった。相当な難関だが、昭のことが好きだから力を出し切れたのだ。
だが、どうしても、どうしても、どうしても昭の求めに応じられない自分がいる。
「キスだけで満足できる奴を探すんだな、東京で」
そんな捨て台詞を吐いて、昭は去っていった。
ちゃんと結婚して子供をつくらなければならない。
桜屋敷家の一人息子として、それは当然の義務だった。
大学では、洗練された感じのいい同級生や先輩と数多く出会ったが、絶対に妙な関係になってはいけない、と身構えた。
大学一年の秋。サークルの先輩女性に誘われ、彼女の部屋で童貞を捨てた。女と出来るのかとびくびくしたが、問題なく行為は終わり、仁はほっとした。
以来、なんとなく女性に抱いていた恐れは消え、視線に接することができた。
三年生になり、バイト先で夏美と知り合った。同じ町の出身と知って親しくなり、やがて結婚を考えるように。卒業後、しばらくは東京にいたいが、その先は田舎に帰りたいという夏美。仁も、両親に孫の顔を見せなければならない。夏美はうってつけの相手に思われた。
二人は互いの実家に赴いて交際の報告をし、将来は結婚するつもりだと告げた。どちらの親も子供たちの相手に満足し、順調に交際を続けた。仁が二十六、夏美が二十四になった頃、二人は結婚した。
桜が咲き始める季節。
仁は学生時代のゼミ仲間と四人で飲んでいた。
近況報告、お決まりの仕事の愚痴、上司の悪口などで盛り上がった所で、話題が途切れた。
そこへ、小太りの山上が、
「この間、残業の帰りに近くの公園の前を通ったら。若い男が二人、もめてんだよ。片方の男が別のにしがみついて、『捨てないでえ!』」
仁はギクッとした。他の三人は、どっと笑った。
山上はにやにやしながら、
「それがまた、二人ともいい男なんだよ」
「もったいねえ」
田川が応えた。
見てくれがいいなら女にもてるだろうに、なんで野郎同士で。田川はそう言いたかったのか。
今度は大島が、
「山上の会社って、新宿二丁目?」
「いや、東上野。二丁目ほどじゃないけど、そのテの店が多いんだ」
「へえー」
仁は胸が苦しくなった。三人の声が遠くに聞こえる。
シリアスな別れ話なのに、男同士というだけで笑い話にされるんだ。捨てられた悲しみなんか、こいつらは想像もつかないんだ。
俺は、昭に捨てられたのかな。少なくとも、呆れられ、見限られたのは確かだ。
数日後の夜。
仁は自宅と逆方面の電車に乗った。
金曜の夜で、車内はけっこう混んでいた。
上野で仁を含む大勢が下車し、あらかたは公園口に向かう。夜桜見物に行くのだろう。
仁は、人影もまばらな別の出口に向かった。
今まで、公園口しか利用したことがない。美術館や動物園があるあちらと違い、駅前を出ると、賑わいとは無縁な街並み。ビルもなく、スナック風の店が続き、ちらほら歩いているのは男だけだ。
裏道に入り、あたりを見回す。
何の変哲もない小さな公園が眼に入った。
ここだろうか、例の場所は。
中には一本だけ桜の木があり、八分咲きといったところだ。
ぼんやりと入り口に立っていると、左の肩口に、なにか熱いものが当たった。
缶コーヒーだった。
「どうぞ」
見知らぬ青年が、仁を見つめていた。
薄暗い街灯の元でも、きらきら輝く目が印象的だ。
「ありがとう」
不意を突かれ逃げることもできず、なんとなくベンチに腰掛けた。隣に青年も腰を下ろす。
甘いコーヒーは苦手だが、幸い、仁の好きなブラックだった。
無言で何口か飲み、仁は戸惑っていた。
どうやってこの場を切り抜けるか。この青年は、お仲間を探しに来て、自分に声をかけたのか。無理もない。だって、ここは。
「僕は、由宇。理由の由に、宇宙の宇です。あなたは?」
「仁だ。仁義の仁」
バカ正直に名乗ってしまった。
「仁さんっていうんだ。いい名前ですね」
「そうかな」
再び缶コーヒーを口に運んだところで、仁ははっと我に返った。
何やってんだ、俺は。ここは山上の職場の近所。
万が一、山上に見られたらどうする。
立ち上がろうとして、仁は左手を握られた。
由宇と名乗った青年は、仁の結婚指輪に触れて、
「結婚してるんですよねえ」
そのまま抱き付いてきて、仁の唇を奪った。
全身に、電流が走った。
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