第6話 幽霊船と赤い鯨――どんぐり
「そろそろだと思うんですけどねぇ……今年はいつになるのでしょうか……」
「一体何の話?」
秋晴れのとある午後、庭先に生えた大きな紅葉樹は、ゆらゆらと木漏れ日を散らしている。まだらな日差しの下にそそくさとやってきたモイラは、樹の笠を見上げる長躯な青年に問いかけた。
モイラよりも頭2つ分も細長い男――ベリルは、腰を折り曲げてモイラの表情を覗いた。
「そろそろリス様がどんぐりを落とす時期かと思いまして。夜の気温も下がってきましたから、冬精霊様が近づいている証拠です。ともすれば”幽霊船”がいらっしゃる頃でしょう?」
ベリルは小枝のように筋張って細長い指を立て、細い瞼を嬉しそうに笑わせた。ピンと尖った耳がゆらゆら揺れるのも、彼が喜んでいる証拠であった。モイラは思い出したように手のひらを打った。
「たしかにそろそろ来る頃よねぇ! 鯨のリーフも色づいてるし。そろそろリースを作って家中飾らなくっちゃ」
ハッピー・ウィンター・クリストファーは冬の始まりから年明けまで続く長い長い祭りである。モイラが育ったホルトス村近郊では鯨のリーフと呼ばれる赤い葉で家中を飾って奉るのが慣わしである。他人との接触が少ない道ばたの家に住んでいると、うっかりすることも多い。
「去年はいきなりでびっくりするばかりだったから、今年はちゃんと”クリストファーの赤い鯨”をお迎えするわ!」
モイラは改めて樹を見上げた。大きな枝の上ではリスの夫婦が一生懸命どんぐりを囓っている。あのどんぐりがぽとりと落ちれば、”クリストファーの赤い鯨”――自然の理でいうところの『幽霊船』がやってくる。
昨年のこの時期、モイラがこの家に引っ越してきて一ヶ月もしない頃から、この土地・この家の”訳ありぶり”には振り回されていた。
スローライフになりきれない原因その2、道ばたの一軒家が”半島の門”にあること。
大陸から半島に抜ける一本道の途中、”半島の門”と呼ばれるこの地には役割がある。それは聖グリフォンの血を引く前家主ベルホルト・クリオールから引き継いだ厄介な遺産である。その1つが『幽霊船を半島に迎え入れること』。それはこの地に住む代償でもあった。
「この家に住むまで”クリストファーの赤い鯨”なんて見た事なかったもんなぁ。ずっと迷信だと思ってたけど、実際に見るとすごかったわ」
モイラは昨年の記憶を思い出しながら、いつも腰かけている青銅製のテーブルをどうにか持ち上げ、家門の傍まで運んだ。
昨年、初めてこの目で見た”クリストファーの赤い鯨”はベリルが言った通り『幽霊船』――茜色の空を航海する巨大な船であった。
幾重も飛び出たオールに、巨大な船艇、そして長く巨大な尾ひれのような網や碇――橙の空と紫の影、そのコントラストはまるで表層を泳ぐ巨鯨の幻影を下から仰いでいるようだった。
モイラはそのとき直感した。
”幽霊船”を見上げた人はきっとこう思ったのだ、あの茜色と紫のコントラストに浮かぶ影を見て――”赤い鯨”が泳いでいると。
そしてモイラは、去りゆく幽霊船の船舶に人影を見た。あれはきっと”クリストファー”その人に違いない。
ハッピー・ウィンター・クリストファーの祭が国や地域によって違うように、自然界に生きるものと文明の中で生きる人間にも隔たりがある。
精霊であるベリルやゴールデンはあれを“幽霊船”と呼び、
その役目が『厄災となる悪い魔、神の国に行けなかったゴースト達を年の終わりに回収するために、神の国からやってくる厄災回収船である』と知っていた。
しかしモイラたちは”クリストファーの赤い鯨”と呼び、『冬の訪れと1年の厄災を回収する、春の都に連れて行く』と伝えられてきた。
同じものを指さしてあれこれと違う認識をする。種族が、文明が、国が違うからこそその土地に寄り添った存在となる。幽霊船が持つ本来の役割は1つであるはずなのに――。
モイラはそんなクリストファーの荘厳さに魅せられていた。
あの日見た幽霊船の人影に、もう一度会ってみたい。
よっこいせと年寄り臭い台詞を交えてテーブルを家門の前に下ろし、テーブルが郵便受けの前にくるように調整した。郵便受けの上には、”聖グリフォンの像”が置いてあり、聖性が強いこの像によって道ばたの一軒家には”悪いものは入れない”ようになっている――と、ベリルが言っていた。
幽霊船――クリストファーの赤い鯨を迎えるためには儀式がいる。お供え物をしたり、鯨のリーフを燃やした灯火を燭台に灯したりしなければならず、それはこの聖グリフォンの力を借りねばならない。実際のところはベリル任せになるので、モイラは事前準備をいそいそと進めるだけなのだが。
「ふー。あとは燭台を持ってくるだけね! ベリル、お供え物の準備は任せてもいいのかしら?」
モイラは手のひらに張り付いた錆をパンパンと払いながら、まだリスを見上げているベリルに尋ねた。ベリルはくるりと振り返り、「はい、もちろんです」と明るく答えた。
「今年は肥やした畑がよく実っていますから、美味しいものを召し上がっていただきましょう。エストスを通過するだけでお疲れかもしれませんから」
ベリルはどこからともなく根菜や木の実を取り出して掲げて見せた後、一抹の不安を吐露して萎んでいく。
ベリルは落ち葉の精霊であり、人々の信仰を糧に生き、信仰ある地に豊穣をもたらす聖なる種族である。
昨年までは大国エストスで土地を豊饒する役割を担っていたが、エストスの王政が変わったことで亡命せざるを得なかった。曰く、聖なるものから魔のものへと王が替わってしまったことで、信仰がなくなってしまったのだとか。エストスの情勢についてモイラが知ることはほとんどないが、魔族が支配する国に転じたと聞くと按じる部分は多い。ホッパーが何食わぬ顔で商売を続けているので、民間レベルで危険なことはないと思ってはいるが、規制が厳しくなっていることは耳に届いていた。
「エストスの悪い悪魔たちも、クリストファーが連れて行ってくれるのかしら?」
幽霊船の役割を考えれば、悪魔も災厄に含まれるだろう。事実として、聖魔調和が進んでいる半島の端――大国リビアでは、”クリストファーの赤い鯨に悪魔の友人が見つからないように”鯨のリーフを隠す習慣が生まれている。
モイラが何気なく首を傾げたことに、ベリルは真剣に悩み始めた。眉間に皺を寄せて腕を組み、ううむと唸り始める。
「……悪魔だからといって、幽霊船が連れて行くとは限らないのです。そうであれば、エストスの王政が変わることはなかったのですから」
ともすれば、幽霊船が”災厄”と判ずるには何か条件があるに違いない。
その編み目をすり抜ければ、災厄はいつまでもその地に留まってしまうのだ。
「私としては、ぜひ昔のエストスに戻ってほしいものです。エストスを出て1年経ちましたが、自分で豊饒した地はやはり恋しいので……」
考えても答えが見いだせなかったのか、話を濁すようにベリルは苦笑した。この1年、聖グリフォンの力に頼ってモイラの傍に身を置いているベリルは、次の住み処を探しきれずにいる。
「そっか……、そうだよね。ベリルもいつまでもヒモ男ではいられないわね」
にっちもさっちもいかないベリルの意気消沈ぶりを思うと心苦しくなり、モイラはベリルの背をぽんぽんと撫でてやった。慰められて悪い気がしないのか、されるがままだったベリルは、突如何かに気付いたように顔を上げた。
「モイラ様、信仰の地に豊饒をもたらす精霊族をヒモ男などと!? わたくしはこの地にお邪魔させていただく変わりにモイラ様の畑を豊饒するという任を負っております! 決してていたらくな存在では……!」
「じゃぁ難民って言い換える?」
「難m……!!」
いよいよぐうの音も出なくなったのか、あんぐりと口を開けたベリルはへなへなと長い体を折り曲げて萎れていった。
ベリルは難民なのか、ヒモなのか。その不毛な議論を眺めていたリスたちが、ぽとりとどんぐりを落としたのだった。
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