第5話 秋灯

 どうにもこうにも秋の夜は長くて、秋の灯を楽しむにも独りでは立ち行かない。

 夕暮れに染まる空も色づく樹木も、寒さに抗うように暖かな橙を身に着けるけれど、見せかけの温もりでは晩秋の夜風に太刀打ちできず、私を温めてくれない。


 寒い、寒い。

 あの露天商の少年と別れてから、一段と寒い。



 紙飛行機が右往左往する広場を抜けて街路を進んだ先、町外れに続く林をも抜けた奥には、役目を終えた白いテントがあった。

 革命の残滓を拭う為の診療所、――かつて革命に破れて行き場を失ったものたちを匿い、無償で治療を施した場所。

 今はもう誰もいない。

 もぬけの殻となった白いテントの中にはあの人の乾いた温もりとむなしさが充満している。

 私はテントを潜り、かつて使っていた医療台の傍に腰掛けた。少しだけアルコールが残っているランプに火を灯し、暗がりに私の居場所をこさえた。


 さきほど購入した本を膝に置き、表紙を捲る。

 露天商の少年は「文字が読めない」と明かしてくれた。彼はこの”異国の文字が読めない”らしい。この本が何について書かれているか知らないで売っていることに驚きはしたが、同時に私の手元にこうしてやってくることに筆舌に尽くしがたい歓びを感じていた。


 なんて偶然、いや、これはきっと運命なのだわ!


 1年前、まだあの露天商が小さかった頃にも私はこの本を買っている。彼は私がこの本を欲する絶妙なタイミングで現れて、私が求める本を買わせてくれる。彼が半島からやってくることも、文字が読めないことも、きっと神のお導き! 半島からやってくる年若い天使のお陰で、私の企みはあと少しのところまできている。



「ハッピー・ウィンター・クリストファー……」


 私は掌中の珠のようにそっと本を閉じ、強く抱きしめた。頬に触れる本の表紙からインクと埃の香りがするが、それすらも愛しい。

「もうそんな季節になりましたね。この1年、とても長かった……」



 栗鼠がクルミを落としたら、その家には冬が来る。クリストファーが、冬を連れてやってくる。冬を置き、代わりに厄災を引き上げて、春の都に連れて行く。

 


 大陸全体で行われる冬の行事の一つ、『ハッピー・ウィンター・クリストファー』は、エストスでもよく知られている。あの少年が言う通り、地域によってその扱いは違うけれど、一貫しているのは『クリストファーの赤い鯨は災厄を連れ去り、冬を連れてくる』こと。クリストファーは大陸を渡りながら災厄を回収し、春の都に連れて行く。


 私は本の隙間から一枚の葉が顔を出していることに気付き、腕を解いた。あの少年がくれた『鯨のリーフ』がするりと本の隙間を滑った。


 半島のハッピー・ウィンター・クリストファーは冬の訪れを歓び、来年の幸福を願う祭りなのだと言っていた。クリストファーが災厄を連れ去ってくれるから、来年は幸福に暮らせるという理屈でしょう。

 災厄を取り去る赤い鯨を模った一枚の葉。床に落ちたそれを摘まみ上げて眺めていると、ふつふつと腹の奥が熱くなるのを感じた。


 エストスは聖魔の抗争がいつまでも絶えない国。

 長いこと聖性の強い種族たちがエストスの主軸となり王政を支えていたけれど、反対勢力である魔族の官僚たちはあらゆる言葉で”悪しきもの”と罵られてきた。地位も人権も剥奪されて社会的な存在を認められなくなった者達は、白いテントに逃げ込み匿われて生きていた。

 

 

 『きっと俺は、魔族――”災厄に値する者”だから、赤い鯨に見つかったら連れ去られてしまうね』


 今も耳を澄ませば鼓膜を震わせる、あの人の声。

 秋の灯に浮かび上がる、寂しげに笑う横顔が苦しかった。

 あの人を悲しませるならクリストファーの赤い鯨なんて来なければいいと思った。


 鯨の鳴き声を聞かないように。

 栗鼠がどんぐりを食べないように。

 早く冬が過ぎれば良いと願っていた。

 あの人を連れて行かれたくなくて、毎晩怯えていた。


 ふつふつと湧き上がる苛烈な感情に整理がつけられないまま、私は握り潰してしまいそうな鯨のリーフを本の間に挟んで隠した。

 あの少年が悪いわけではない。純粋な想いで幸せを願ってくれた。それが”正反対のやり方”だったとしても、責めることではないのは解っている。彼はエストスの人間ではなくて、所詮は半島の商人なのだから。お門違いに憎んではいけない。

 落ち着こう。落ち着かなければいけない。この1年、自分の気持ちのコントロールできずにいる。これは治さなければならない。私はこんな女ではなかったのだから。


「……そうよ、クリストファーの赤い鯨なんて恐れている場合じゃない。だって結局、王政は魔族が奪ったんだから……」

 1年前の革命の末、聖性絶対主義の王政は打ち破られて魔族たちが国を奪った。時の王からすれば、昨年の赤い鯨は”災厄”を摘みきれなかったということでしょう? 聖の種族たちはこぞって国を出て行く羽目になったじゃない。これは彼らにとって”災厄”と言えるはず。なら赤い鯨は神なのではないのよ。付けいる隙があるということ。


「私ならできる……この1年、準備をしたもの……。あの人を取り返さなくちゃ。春の都に行ってしまう前に、赤い鯨を捕まえなくては……」


 ぎりりと親指の爪に歯を立てながら、見たこともない赤い鯨に満腔の憎悪を送る。

 腹の底から湧き上がる憎悪は憤怒の釜に熱されて、私の体は熱くなっていた。

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