第9,10話 神隠し・水中花

 夜風がカーテンを払い上げ、埃を浚う代わりに街の香りを残していった。

 夜半だというのに香ばしいスープの香りが届くのは、宿の一階が食堂になっているからだ。

 エストスの夜は長い。一番星が出たら家の中に引っ込むホルトス村とは違い、この国の民は日が暮れてからも家に帰ろうとせず、街はいつまでも明るく賑やかだ。そんな街の喧騒に紛れて遊んでみたいという好奇心がないわけでもないが、ホッパーには遊ぶ金もないし、遊び方も解らなかった。何より『子供は部屋にもどんな』と食堂のおばさんに厄介払いされてしまったので、おとなしく宿のベッドに転がっていた。

 エストスに入って2日目の夜である。持ってきた品もすべて捌けたし、帰路につく為の必需品も買いそろえた。ホルトス村に帰るまでにはなんといっても歩いて2日以上かかるので、夜が明ける前に宿を出ないとならない。ホッパーは売上金の入った袋をぽんぽんと手のひらで跳ねさせながら、この交通の不便さをどうしたら良いか考えていた。

「……早く到着するなら馬、でも牛のほう重いものを引ける。牛はミルクもとれる……でも野犬とかに襲われたら、戦えない……トナカイとか……」

 いや、山羊という手もあるだろうか。思考が右往左往している。

 荷が運べて、ついでに自分も乗れるならこんなに良いことはない。すると体格があって、餌を勝手に調達してくれる草食動物がいい。足腰が強く長距離を移動できる偶蹄類、足が速ければ尚のこと。

「でも需要がある生き物は高いかな……」

 聖魔が混同するエストスは、牛車1つとっても見たことがない種類の牛を使っていたりする。大陸側は文化がまるで違うので好奇心をくすぐるが、今後の商売に関わるのできちんと選ばなければならない。

「明日、やっぱり昼ごろに出発しよう」

 足になる動物を売っている店を物色してから帰ろう。うまく調達できれば帰宅までかなり早くなる。到着時間がどれだけ早まるだろうか、うつらうつらと船を漕ぎ始めた頭で計算するのも億劫だと思い始めていた頃、一陣の突風が部屋中を巻き上げていった。


ごぉん――……


 眠気も吹き飛ぶほどの轟音だった。まるで逃げ込んできたかのように騒ぎたてた風が再び窓から抜けていった後、ホッパーは鳥の巣のようにかき回された髪を手櫛で確かめた。

 

 一体、いまのはなに?


 状況がつかめずぽかんとしたまま、カーテンがはためく窓の外を覗いてみると、一段と暗い宵闇が広がっていた。


「は……?」

 街はこんなに暗かっただろうか。あんなに賑いでいた街の灯りがまるで蝋燭の火のように吹き消されてしまったみたいだ。

 見上げても星空がどこにもない。一面の漆黒が拡がっている。街の家屋や城郭の稜線と同化したかのような、いっそ真っ黒な天井が降りてきたかのような違和感すら感じる。ホッパーは街の異常さに蒼然として佇んでいた。


 真っ暗だった世界がゆらゆらと揺れる。まるで揺り籠の陰影に紛れているような漆黒の揺らぎは、もちろん地震ではない。ホッパーはとにかく気味が悪い街の様子にたじろいだ時、ゆらぎが止まり、変わりに本物の地震が襲った。


 ゴオオオオ――……!!


「ぎゃ……!」

 それは大地が突き上げるものではなく、爆音によって地面が轟いた揺れだった。鼓膜を突き破るような爆音は長く低くしばらく続き、ホッパーは耳を塞ぎながらベットに倒れ込んだ。

 まるで怪物の鳴き声のようだ。巨大な怪物が咆哮するならきっとこんな風に鳴く。長い長い筒のような喉から、憤怒を放つような。


 爆音が少しずつ止み、鼓膜がじんじんと痺れる中、ホッパーは眉をひそめながらもう一度窓の外を覗いた。耳が麻痺して聞こえづらかったが、外ではようやく他の住人たちが騒ぎ始めている。

 皆がこぞって天を指さしており、ホッパーも吊られて天を仰いだ。そのとき確かに『ガチャン』と鍵が閉まる音を聞いたのである。






「捕まえたわ」

 城郭を見渡す丘の上、突風に煽られる紫のベールを押さえながら、メルは口端を歪めていた。

 エストスという国は城郭に囲まれた閉鎖的な――大陸と半島の繋ぎ目であり、半島への物流をせき止めるかのように存在している。その城郭の真上に、黒く巨大な影が留まっていた。

「クリストファーの赤い鯨って言うんだから、鯨が泳いでくるんだと思っていましたけど、実際は船でしたのね! まさに幽霊船と言ったところかしら……」

 荒波の中、座礁でもしたかのように、ふらふらと船艇を揺らしながらエストスの真上に”嵌まって”しまった幽霊船は、その巨大さ故に国土に大きな影を落としている。抜け出すために足掻くように爆音で吠えたその姿は、メルの嘲笑を誘っていた。

「ああ! ああ、無様……! のろのろとやってきたかと思えば、わざわざ捕まりにやってきた!」

 メルは左手に持っていた金木犀を振り回しながら、自ら紫のベールを剥ぎ取った。”幽霊船”がもがくたびに巻き上がる突風に飴色の巻き毛が踊る。くわりと見開いた青い瞼は、狂気に満ちていた。

「あの幽霊船にはクリストファーも乗っているのかしら……?! きっと乗っているのよね、そうでなければ伝承されない。”災厄”を連れ去る冥府の航海士、神の使い……」

 メルは右手にベール、左手に金木犀を握ったまま、両手を合わせた。その手首からは血が滴っており、足下に描いた禁断の魔術がメルの血を吸って青く光っていた。


 やがてエストスの城郭の至るところから、青い触手が伸びていき、幽霊船の碇や網に絡みついていく。まるで巨大な軟体動物のようなそれは、幽霊船を雁字搦めに捕まえてしまった。

 再び轟音が鳴った。どうやら船の汽笛のようだ。この爆音はまるで巨鯨の咆哮とも言える。

「さぁ、鍵を掛けましょう……。大事なものは”檻”の中に押し込めて。絶対に開かない鍵を閉めなくちゃ……」


 そして、ジークを取り戻さなくてはいけない。幽霊船を捕まえているうちに、クリストファーを締め上げなければ。


 メルが狂気を携えて呪文を叫ぶと、エストス全域を青い光が覆った。そして幽霊船ごと青い光に包まれた一国に――そこに住む誰もが、そのとき鍵の閉まる音を聞いたのだった。



『なぁメル、俺たちはよく神隠しをすると恐れられてきた。昔は神が弱い奴を浚うことがあったらしいが、今はそんな時代じゃないだろ?

 逆だよ――弱い奴らが神を浚うのさ。自分たちの欲望のためにさ。

 すごい時代だと思わないか? でも、それでいいと思うんだ。

 だからな、メル。

 お前も神とやらに祈ってないで、”神を神隠しする”くらいの気持ちで生きてみようぜ。

 水底に沈んだ花がいきなり咲くような、奇跡が起こるかもしれない』

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