第11話 からりと

「ハッピー・ウィンター・クリストファーの、ウィンターもクリストファーも来ません。もちろんハッピーにもなりません……」


 道ばたの一軒家の庭先で、落ち葉の精霊ベリルは細長い体躯を折り曲げて俯いていた。


 リスがどんぐりを落としたら、クリストファーの赤い鯨はやってくる。


 不毛な口論の最中にも関わらず耳聡くその音を拾ったベリルは、大慌てで赤い鯨――幽霊船を迎える準備に取りかかった。

 家門に備え付けられた郵便受けの上には、聖グリフォンの置物がある。この家の前主ベルホルトが聖グリフォンの末裔であることに由来したもので、聖なる力を宿し”半島の門”のあらゆる役目を負っていた。

 幽霊船を呼ぶに際してもその力は必要で、置物の傍に祭壇をつくり、燭台に火を灯し続けている。からりと晴れた午後が茜色を差し、――――ついにあたりは暗くなってしまった。


「いったい、どうして幽霊船は来ないのでしょう?」

 祭壇の前に座り込んでいるベリルの後ろ姿は憔悴している。見かねたゴールデンがひょこひょこと芝生を蹴って近づき、その顔を覗き込むと――初めこそへこたれているだけだったベリルは気ぜわしくなっており、かっぴらいた瞼が揺れていた。

「お、おちつけようベリル……。幽霊船だって、まったり進むことだってあるだろうが? 例えば……なんかこう、帆が切れたとかよう」

 思わず悲鳴を上げそうになるのを堪え、ゴールデンはフォローせんとしたが、途端にベリルは蒼然とした。

「ほ、ほ、帆が切れた!?!?」

「あばばば……っ!! ものの例えでい!! 本気にすんなよう!!」

 落ち着かせようと気を遣ったつもりで、逆に油を注いだゴールデンの訂正も空しく、ベリルは「帆が切れ、帆が……」とブツブツ繰り返しながら頭を抱えてしまった。

「そんなことがあっては、幽霊船が航海できなくなってしまいます……! ああ恐ろしい……っ」

 自然の理の中に暮らす精霊にとって、幽霊船が休航するのは一大事である。方や道ばたの”塔”の番人として生を受けた錠前の精霊・ゴールデンには、ベリルほどの脅威には思えず、互いのギャップが悪循環を招いていた。ゴールデンはそっと短い脚の向きを変え、ひょこひょこと跳ねながらモイラの元へと逃げた。

「おおいベリルの奴よう、結構メンタルやられちまってるぜい? いったいどうなってんでい? 幽霊船のやつ、去年はすぐに来たじゃねぇかよう!」

 ゴールデンは庭先からダイニングの大窓に飛び込み、暖炉の前でロッキングチェアに揺られているモイラの膝に乗った。

「そんなこと言われても、アタシだってわかんないわよ」

 膝に乗った重みを感じ、モイラは読みふけっていた本に栞を挟んだ。言われてみればもう夕食時である。去年は祭壇を用意してからあっという間にやってきたというのに、今年は随分と時間が掛かっているようだ。

「船なんだし、遅れることだってあるんじゃない?」

 時間に正確な乗り物など、見たことがない。故に早々に見切りをつけて本の世界に没頭していたモイラだったが、ゴールデンが短い指でベリルを指した時、ことの異常さを知ることになった。

「まぁ――、たかが遅刻で済んだらベリルがあんなに取り乱してはいないのかぁ……」

「なんか、ヤバイみたいだぜい?」

「うーん……」

 ゴールデンとモイラは二人そろって眉を八の字にし、腕を組んで考え始めた。

 異常事態だ、と言われても、自然の理の中にあるものをどうにもできない。まして相手は冥府の災厄回収船である。

「はーぁ~、こういうときに魔法の書とか出てきて、幽霊船を助ける術がわかりましたーみたいな展開になれば、良いわよねぇ」

 モイラはたった今まで読んでいた本をサイドボードに置き、匙を投げるように頭の後ろで手を組んだ。

「おおい、なんでいその本は? 去年から翻訳してた本か?」

「違うよ、あの本は結局、翻訳するのを諦めてホッパーに買いとってもらったの。固有名詞? 名詞? がさぁ、もう何のこと指してるか分かんないんだもん。で、これもあの本と同じ言語で書かれてるから、ホッパーにあげるつもり。この前来たときに、渡し忘れちゃったのよね」

 サイドボードにひょいと飛び乗ったゴールデンは、本の表紙にすんすんと鼻を寄せている。モイラはそんな様子を横目に、「何かわかるんだろうか」と訝しげな顔をしていた。


 塔の書斎は、前主ベルホルトが作業していた軌跡を色濃く残している。読みかけの本、商人に卸す本の選定、解説の書き込み、そして異国の文字の翻訳――――。

 モイラも1年掛けて翻訳には挑戦したが、今のところ努力が実っていない。なんとなく意味が取れるようになったが、翻訳するほどの腕はないし、積ん読は増えていくので売ることにしてしまったのだ。

「ねぇゴールデン、幽霊船がこないと、どうなっちゃうの?」

 尻を突き上げながら表紙に鼻を擦り付けているゴールデンに尋ねると、ゴールデンは顔を上げた。

「そりゃぁおめぇよう、1年間野放しになった”厄災”が来年も残るんだから、災厄の数は増えていくってことだぜ」

「災厄って、そんなに身の回りにあるの?」

 モイラがくてりと首を傾げると、どこからともなく「はぁ?」と、甲高い声が響いた。

「アンタねぇ、調子乗ってんじゃぁないわよ! このカナカレデス様がどんだけ面倒臭い奴らを払ってあげてるか、わっかんないわけね!?」

 ゴールデンとモイラはぎくりと肩を揺らし、キッチンの壁面にかかる大きな鏡に視線をやった。そこには肘をついて口を尖らせた至極高慢な態度の――モイラが、睨みを利かせていた。

「ほんっとに、おめでたい。ほんっとに感謝が足りない。ああもう、信じられない!」

 ぶつくさと文句を垂れる鏡のモイラ――カナカレデスが話に割って入ってきたことで、モイラとゴールデンは「面倒な奴を起こしてしまった」と悟った。

 カナカレデスは鏡の付喪神であり、前主ベルホルトの遺品である。家具付き物件として放置してあったこの家に長いこと住み着いており、モイラの姿を借りて好き勝手に喋っている。

「ご、ごめんカナカレデス……。えっと、面倒臭い奴らを払うって、どういうこと?」

 モイラは鏡の機嫌を伺いながら尋ねたつもりだったが、カナカレデスは青筋を浮かべた。

「あのね、山ン中は魔物もゴーストも蔓延ってるのよ! あのグリフォン様が敷地内を守っているから、表から入ってくることはないけど、――鏡の中っていうのはね、ゴーストの通り道なわけ!」

 つまりカナカレデスが鏡の中を通ってくるゴーストを払いのけているという。

 それだけ言い終わると、カナカレデスはツンとそっぽを向いてしまった。

「おおう、そりゃぁ一タイヘンご苦労様だぜい……」

 カナカレデスの機嫌がこれ以上悪化しないように、ゴールデンは棒読みではあるが労った。モイラといえば、今更ながら家の立地の悪さに恐怖を感じ、青ざめながら事態の整理を始めていた。

「つまり、幽霊船が来ないと、蔓延っているゴーストも増えるから……」

「まぁ私が見逃したりして、この家にゴーストが入ってくる確率が上がるわね」

「イヤー――――――!!!」

 カナカレデスのふてくされた合いの手を絶叫でつんざき、モイラはロッキングチェアから飛び降りた。



 やばいやばい! ゴースト怖い! 思った以上に平和ぼけしているアタシもヤバイけど、幽霊船がこないのはもっとヤバイ!!


 

 今更事態を重く見たモイラは頭を抱えたまま大窓飛び出し、庭先で空を見上げた。しかしどこにもあの巨影は見当たらない。


「クリストファーを待ってるとかロマンティックに浸ってる場合じゃないわよ! 1年に1回彼に会わないと、アタシのスローライフが存続の危機だわ!!」


スローライフになりきれない原因その3、ゴーストが大嫌いなこと!



「こうしちゃいられないわ! ゴールデン! 塔の屋上に上るわよ! 幽霊船を見つけなくちゃ! 違う航路でどこかにいったりしてたら大問題よ!!」

「そ、そいつはヤベぇ!」

 慌てて付いてくるゴールデンと共に、モイラは裏庭に回り込み、開けっぱなしの塔の中へと駆け込んだ。埃とインクの香りが充満している塔の中、柱に巻き付くような螺旋階段を駆け上がっていくと、ふわりと白い靄がモイラの後を付いてきた。



あれ、これは前にもあったような――?



「あれ、”無月”が付いてきてるぜい?」

 階段に備え付けのランプの灯りが白い靄を煌めかせている。

 ”無月”――その正体はモイラにはよく分からない。ただ、無月は稀に”塔の記憶”を見せてくる。そんな不思議な靄も、ここ最近は姿を見せなかったのに、久しぶりの出現であった。

 とはいえ今はそれどころではない。モイラは汗だくになりながら最上階の小部屋に到達し、慌てて窓を開け放った。

「うおおお!?」

 冷たい夜風に吹かれて転がっていくゴールデンを余所に、モイラは窓から身を乗り出して目を凝らす。すると大陸側の空が青白く光っているのが見えた。あまりに遠く小さな光だけれど、それだけで異変だと理解することができた。

「どういうこと……?」

 十重二十重と続く山脈の向こうで、何かが起こっている。モイラが唖然としていると、転がりから返ってきたゴールデンがモイラの肩によじ登り、飛び上がって驚いた。

「ありゃぁ、エストスの方角じゃねえかよう!!」

「エストス!?」

 モイラは耳を疑った。エストスと言われてまっさきに脳裏に浮かんだのはホッパーの姿だった。

「エストスって、ベリルが心配していたことが現実に起こっているんじゃ……」


 魔族に奪われた国、エストスと、厄災を回収する幽霊船――、ベリルが按じていた通り、一筋縄では通過できなかったのかもしれない。

 そうであればいったい何があの国で起こっているのだろうか?


「どうしよう……ホッパー、大丈夫かしら??」

 通常あり得ないことが起こっているのに、2つ下の昔なじみがあの国にいる。そう思うと途端に気ぜわしくなり、いてもたってもいられなかった。


「モイラちゃん!!」


 慌てふためくモイラの耳に、唐突に名を呼ぶ声がした。びくりと驚いて塔の下に視線をやると、ランプを片手に掲げたホルトス村の村長が、立っていた。

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