第7.8話 引き潮・金木犀
もう引き潮だと思うんだよ――俺たち魔族も。
白いテントがはためいて、春の寝息がさざめく夜に、まるで似つかわしくない寂しげな表情で項垂れる。貴方がそんな姿を見せるのは初めだった。
『聖属の奴ら、魔族をとにかく憎んでいる。魔族だって同じだよ、革命が成功したとしても、また聖魔の溝は埋められない。互いを憎しみ合って殺し合うような、そんな時代の繰り返しだ。俺はちっとも革命に期待なんてしていない――』
真っ黒でざんばらな髪の隙間から、そそり立つ大きな角。魔族だけが持つ深紅の瞼を苦悶に歪めながら、その人は頭を抱えた。
『諦めてはいけません。貴方が諦めては、付き従う魔族の者達はどうなるのですか? どうか希望を持って、理想を思い出して、もう一度顔を上げて下さい』
私は彼の傍に腰を下ろし、そっと背中を撫でた。シャツ越しに伝わる包帯の感触は、背中のどこに触れても付いてきて、彼の身に起きたことを慮ると痛恨に堪えない。
『メル、お前の言葉はいつも暖かい。まるで天使みたいだ……』
あの人は身をよじって私の手を退けました。私は無理にその慰め続けることは出来ず、手を引きました。
『天使ではありません……私は何処にでもいる人間です。シスター崩れの平民ですから』
『看護師は、白衣の天使と言うじゃないか。お前みたいに分け隔て無く治療してくれる看護師をみていると、本当にその通りだと思うよ』
彼は自嘲していました。それもそのはずです。時代が時代ならば彼は王子と呼ばれるお立場ですから。こんな浮浪者を匿うテントの中で息を潜めるなど、自尊心が傷つくのでしょう。
『……貴方の力になれるなら、私は天使にでも魔女にでもなりますよ、ジーク』
顔を上げたジークの深紅の瞼はひどく動揺していました。同時にどこか恥ずかしそうに目元にも朱を乗せて、すぐに私から目を反らしました。
かわいらしいジーク――。貴方を見ていると、私の胸は温かくなる。
『どうせなるなら魔女にしてくれ――そうしたら娶り易くもなるからな』
黒髪をくしゃくしゃとかき混ぜながらフイとそっぽを向く。その横顔が可笑しくて、私はいつまでも笑っていた。
『王子の妃になるなんて、夢みたいですね』
『夢みたいな話だよ、エストスが聖魔調和の国になったらの話だ』
『夢物語になってしまうのですか?』
『そんなわけないだろ!』
貴方の理想を二人の夢にしよう。
今はたとえ辛くとも。
冬が去って夜が明けるように、暖かな陽光と共に春は訪れるのだから。
それから数ヶ月――大災害の夏に乗じて、革命は起こった。
「ジーク……」
紫色のベールが秋風に吹かれて巻き上がる。これはきっと今年最後の秋風だろう。
「ジーク、革命を終えて一年が過ぎるわ。魔族が覇権を取り返したのに、どうして貴方は、私の傍にいないの……」
私は左手の金木犀の枝をぎゅっと握り潰した。甘い香りと共に、夕暮れの残滓のような花びらが散っていく。
「これでは本当に、私と貴方の時間は夢で終わってしまうじゃない」
エストスの城郭を一望できる丘の上で、私は卑情なその国を見下ろしていた。
こんなはずじゃなかったのに。
こんなの誰も浮かばれない。
「こんなの、認めない」
怒り任せに奥歯を鳴らしながら、エストスの城郭の向こう――谷の果てからやってくる黒い影を睨め付けていた。
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