誰かを不幸にするなんて 3

少女は車窓に張り付きたくなる気持ちを必死に抑えていた。


 流れゆく煉瓦建築の街並み、人々の華やかな生活、鼻を刺す油のにおい。

 初めての都会は、どれをとっても、どこを切り取っても、新鮮で刺激的だった。


「僕、少し前まで役所勤めだったんだ」


 トラッドは慣れた様子でハンドルを切り、路面電車と並走する。


「悪い職場じゃなかった、給料もよかったしね。ただ、僕には合わなかった」


 技術革命における急速な街の発展は、貧富と清濁の差を広げた。今こうして少女が見ている景色は、嘘ではないけれど、真実でもない。


 住民からの要望、被害届、苦情は止むことなく、日々増えるばかり。それを役所が受け、しかし現実問題、全て解決するのは不可能だった。

 だから理由をこじつけ、嘘を吐き、嘘を真実に捻じ曲げ、有耶無耶にした。


 それが、それも、彼らの仕事だった。


「だから自分で会社を作ろうと思ったんだ。自分の理念を掲げて、実現できる場所。まだ手が伸ばされていない事業があったのは、本当に運がよかったよ」


「自動車、ですか」


「今はまだ上流階級の乗り物ってイメージが強いし、事実そうだと思う。ただ最近、活発化してきた貿易のおかげで部品が安く手に入るようになったんだ。とても安いとは言えないけど、庶民でも手を伸ばせるものになるように……まあ、うん、色々努力した」


 揚々と話すトラッドが、そのときだけ苦い顔をしていた理由を、少女は察してしまった。


「さて、着いたよ」


 通りの街灯のそばにトラッドは車を停め、先に降りては助手席の扉を開けた。どこまでも紳士なエスコートに、不慣れな少女は急かされるように外に出る。


 最初は、視線の逃げ場のつもりだった。

 次の瞬間には、目を輝かせて見入る少女がいた。


「新市街だよ。ここなくして、クヤートはクヤートとは呼べない」


 煉瓦と薔薇の、深い赤色で飾られた通りは一層の賑わいを見せていた。


「調べ物をするにはうってつけだと思うよ。さ、行こうか」


 差し出そうとした手をポケットに突っ込んで歩き出す。


「毎日賑わっているけど、今はちょっとした祭典の時期でね。普段は手を伸ばせないものが安くなっていたり、逆に怪しい露店でぼったくられたりもする。ほらあれとか」


「ティーカップ、ですか。怪しくは見えませんが」


「色々と細工してるんだよ。幸運だの悪魔祓いの効果だの言って法外な値段つけて、大胆なやつは桁を一つ隠してることもある。なにより一度近づかれるとしつこい」


「詳しいのですね……よくいらっしゃるのですか?」


「まあ、そうだね」


 街のことに詳しくて、おまけにエスコートに手慣れていて。


「……」


 一人で旅立ち、仕事をしている身とはいえど、少女は少女である。翡翠の瞳は抑えきれない輝きを宿し、頬はほんのりと火照りを帯びる。


「もしかして酔った?」


「いえ、大丈夫です」


 少女は頭を振って、仕事中だと自分に言い聞かせる。


「それで、先ほどおっしゃっていた祭典とは?」


「あれだよ」


 そう言ってトラッドが指差す先には、否、街の至るところに同じ貼り紙があった。

 中年を過ぎた男性の、モノクロの顔写真。憎みたくても憎めない朗らかな笑みだ。


「つい先日、市長選があったんだ」


「では、この方が新市長様なのですね」


「暮らしが豊かじゃない層から大きな支持を受けてね。今までは発展を最優先にした政策だったけど、これからは皆の暮らし向きが良くなるはずさ」


 美しく汚していく世の中は、もう終わる。

 その訪れが喜ばしくて、少し、虚しくもあった。


 強欲だなとトラッドは嗤う。自分が掲げた理念だからこそ、自分で叶えるべきだと躍起になった。そして、ようやく、ほんの指先だけれど掴めようとしていた。

 そんなとき、こうも簡単に街は変われてしまった。

 自分が携われかった、力になれなかったことが、嫌だと思ってしまった。


「人間も世界と同じだ。全て綺麗だなんて夢物語なんだろうね」


「トラッド様?」


「我欲のない人なんていない、そう言ったんだ。どれだけ正しい人間でもね」


 トラッドは遠く、港で上がる黒煙を見上げた。その横で少女は、写真の中で笑い続ける新市長をじっと見つめていた。


「変なことを言ってしまったね。なにか見たいものはある?」


「いえ、特には」


「じゃあ、少し店を見て回ろうか」


 最初に入ったのは洋服屋だった。

 客と対面してやり取りをする仕事だ、それなりに身なりに気を遣う必要がある。少女自身そうしているつもりだった。子供っぽさを最大限消して、けれど変に背伸びしているようには見られないように。


 しかし、なるほど、都会は世界が違った。


「け、ケープ一着で三万……」


 以前の依頼先でダメにしてしまった代わりをと思っていたのだが、無理そうだ。


「何かいいものが見つかった?」


「いっ、いえ……お若い方々も、随分と大人びた装いをするのですね。わたしと同じくらいの年齢でも、一回り上に見えてしまいます」


「君も十分若いし、見た目だけが全てじゃないと思うけどね。どれだけ紳士服に身を包んでも、泥だらけじゃ意味ないさ。雰囲気ってのも大事だよ」


 それが、萎縮する少女への気遣いなのか本心なのかは、察することができなかった。

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