一本の幸せを海の街に 1
メリー・レグネットは病弱な少女だった。
二階の自室、カーテンに塞がれた硝子窓は、岩石海岸を切り崩し作られたという何処までも真っ白な街並みも、青く澄み切った空とそれを映す海も、メリーには見せない。
いつかみたいに坂を駆けていく自分の姿も、もう想像するのはやめた。
自分の中の思い出はずっと前に止まっている。なのに、身体だけは望まなくても大きくなる。腕や脚が伸びて、少し小ぶりだけど胸に膨らみが出てきて。けれど成長すればするほど、肉のない弱った身体はその痩せ細った醜さを浮き彫りにする。
今ではもう辛くなるだけの窓の外に広がる憧れも、窓に映った自分の醜い姿も見たくないから、カーテンは閉めた。
「メリー、起きてる?」
母の声だ。メリーは頭まで布団を被った。
「入るわよ。体調はどう?」
「……」
当然のように無視を決め込む。
「朝食持ってきたけど、今日は食べられそう?」
「……」
けれど、母は話しかけてくるのをやめない。
独り言が激しい人ではない。沈黙を恐れるように絶えず言葉が紡がれるのは気丈に振る舞おうとしているからだとメリーは知っている。それがいつも、一人で陰鬱になっている自分のためだとも理解している。
それでも、ありがた迷惑なのには変わりない。
放っておいてほしかった。
優しさに触れれば触れるほど、自分の惨めさが浮き出てきて耐えられなくなる。
顔を合わせたくない。声を聞きたくもない。
無意識に息を殺して、母が出て行くのをじっと待った。
最悪なことにその日だけは、上手くいかなかった。
「今日はとてもいい天気なのよ。ほら閉め切っていないで……」
「勝手に開けないで!」
布団を跳ね除けて、カーテンを開けようと伸びた母の腕をすんでのところで掴む。驚く母の顔に罪悪感が湧き出て止まない。だが咄嗟に謝れるほど素直にはなれなかった。
今まで溜め込んできた鬱憤が腹の奥から迫り上がってくる。
言ってやる。全部言ってやる。
真冬の凍えた風みたいに、吸い込んだ空気で胸が痛む。
構わないで、出て行って、放っておいて。
吐き出せば軽くなっただろう言葉を、胸を詰まらせてでも飲み込んでしまったのは、メリーが母以外の人を見たからだった。
「……誰?」
怒りの表情を一瞬で冷たい無表情に変え、低く響く声でメリーが言う。
「あなたの元へ、一本の幸せを届けに参りました。幸せ屋、と申します」
足元には大振りのトランクケース。裾の長いワンピースドレスの上からマントケープを羽織り、細い脚は膝下までのロングブーツに覆われている。脱いだフードの中から長い亜麻色の髪が溢れ、恭しい一礼の後に顔を上げれば、翡翠の瞳が明るみを帯びた。
顔の作りだけでいえば少女のような、しかし、纏う淑やかさと嫋やかさを混ぜた雰囲気を思うと女性と呼んでもいいような、不思議な女だ。
「幸せ屋さんよ」
メリーは思わず眉根を寄せてしまった。
なんだその、インチキ占い師にでもいそうな名前は。とうとうぼったくり商売に手を出してまで自分に何かする気の母には幻滅してしまう。この女が悪徳商売をする人間にはとても見えないが、如何にも性格の良さそうな様は金稼ぎのための仮面かもしれない。
「ほらメリー、ちゃんと挨拶しなさい。あなたのために呼んだのよ」
メリーは黙った。人間、沈黙が三秒以上続くと不安感を抱くという。母が首を傾げ、女が間をつなぐ笑みを湛え、メリーは心を決めた。
「出て行って」
話をする気はないと、言い終えるが早いか布団に包まった。
母が何か言っている。何か怒っている。
耳をきつく塞ぐ。聞かない。聞きたくない。
あたしの気を知ろうとしない人の言葉なんか。
幸せなんていらない。
幸せは苦しみだ。
幸せは願えば願うほど叶わなくて、叶わないほど現実を見せられる。
もし。
もし幸せがあるとしたら。
何もかもに絶望して、諦めて、独りでいられることだ。
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