一本の幸せを海の街に 2
「ごめんなさいね、失礼な態度を見せてしまって」
案内されたのは一階のリビング。父は遠い街に働きに出ているらしく、母と娘の二人暮らしだと話を聞いた。
「これでいいかしら?」
紙の右端に母のサインを確認し、幸せ屋は頷いた。
あの少女、メリーには大層怪しまれてはいたが、幸せを届ける幸せ屋、これも歴とした仕事である。
ゆえに今しがた目を通してもらったのは、いわゆる契約書だ。
書かれている内容は主に二つ。
一つは依頼不達成の場合の依頼料の返金対応。
一つは依頼内容に対する禁則事項。
前者は意味通り。あらゆる物事に対して抱く価値観が人それぞれで異なるのは言うまでもない。金銭のような多い少ないの二択しかないものですら富者と貧者で変わってくる世の中だ、幸せなんて抽象的で方向性もバラバラなものとなれば尚更のこと。それゆえ、魔女の魔法といえども絶対ではないのだ。
後者は簡単に言い直すと、叶えられない幸せもある、ということだ。
そして同時に、叶えてはならない幸せもある、という意味でもある。
「わたしの力は奇跡ではありません。あくまで起こり得る偶然を引き寄せるだけ、メリーさんのお身体がいきなり良くなるなどといったことは起こり得ないとどうかご理解を」
「ええ、わかっているわ」
改めて釘を刺す幸せ屋に、母親は重々しく頷いた。
「だからせめて、あの子にずっと暗いままでいてほしくないの。どんなことでもいいわ、諦めてしまっているようなメリーに幸せな想いをさしてあげて」
涙ぐむ母親の姿は否応なく幸せ屋の表情にまでも影を落とす。
だが落ち込んではいられない。
幸せを届ける側が辛そうにしているわけにはいかないのだ。
依頼を受けるにあたって、やるべきはこれからなのだから。
彼女は幸せ屋だが、その実、魔法の効果は起こり得る偶然を引き寄せるだけのもの。魔法を行使してはい終わりではない、メリーの幸せとなる偶然に目星を付ける必要がある。
そのためにも、
「メリーさんと二人でお話しさせていただけませんか?」
□
部屋の扉に鍵が欲しい。
幾度と母親に対して抱いてきた不満だったが、とうとう赤の他人にまで無遠慮に踏み入られては、病弱の身に鞭を打ってでも鍵屋に行こうかと本気でメリーを悩ませていた。
「いい街ですね。賑やかで人は優しくて、自然も多くて。わたしも自然に囲まれて育ちはしたんですけど、もっと暗く鬱蒼とした場所でしたから」
しかも、入るや否やひたすら独り言ときた。
メリーが意地で手元の本と睨めっこし続けているのもあるが、それでもしぶとい。
「そういえばこの部屋の窓、海岸向きにあるんですよね。丘の上からのウカイスの景色、毎日見れるなんて羨ましいです」
見せてもらってもいいですか、部屋の中を見回していた幸せ屋の視線がメリーに向く。
嘆息。このまま無視したら、勝手に肯定したと受け取られかねない気がした。
「……やめてって言ったよね」
低く、唸るようにメリーが口を開く。
幸せ屋はむしろ、嬉しそうにその反応を受け取ったようだった。
「ようやく口を聞いてくれました」
「というか、勝手に入ってこないでよ」
「貴女のような意地が強い人には、多少強引に行った方が効果的なので」
経験則です、幸せ屋は笑む。
「それで、なぜ開けてはいけないんですか?」
「……」
ぴくりと片眉が上がってしまう。本当に、無遠慮な。
「四角い空はあたしを惨めにさせるのよ」
どこを切り取っても、それは一面の晴れ渡った空にはなってくれないから。写真を見ているような、自分のいる世界とは別だと断絶されているような。
飛べなくなった海鳥と同じだ。
二度と望めない分かって空を見上げれば、自分のいる場所は籠ではなく檻となる。
「じゃあわたしだけ失礼しますね」
メリーの内心を知ってか知らないでか、幸せ屋はカーテンの裏に潜り込んだ。
わぁとかなんとか、無邪気な声は当然メリーの神経を逆立たせる。
「あたし、占いも幸運のティーカップも信じない人だから」
盲信的なオカルト信者に言えば怒りを買うか、夜を越してまで説得させられそうな物言いだったが、無視を貫き通せるほど寛容ではいられなかった。
つまるところ、何か嫌味を言ってやると、子供染みた嫌がらせの類だ。
「……分かったなら早く帰って」
カーテンが揺れる。この後一体何をされるのか、メリーは頬を強張らせて身構える。
悪意たっぷりの言葉、この部屋で聞こえていないことはないだろう。だが、警戒する猫のようなメリーに、出てきた幸せ屋はきょとんと首を傾げるだけだった。
数秒の沈黙の末、ようやく口を開いたのは幸せ屋だ。
「もしかして、わたしのことをご存知ないですか?」
それは、知っていて当然とでも言いたげな。
「ああ、いえ、驕ってはいけませんよわたし。常に謙虚でなければ」
戒めなのだろう、幸せ屋は自らの両頬をぺちんと叩く。
「なに、あんた有名人なの?」
「……まあ、これでも数年は続けている仕事なので、風の噂程度には」
有名人というほどではないですけどね、幸せ屋は言う。
結局、謙虚なのか不遜なのか。
幸せ屋は小さく咳払いをし、改めてメリーに面と向かう。
「わたし、魔女なんです」
なるほど頭がおかしい人だったか。
可哀想に、メリーの感情は怒りを通り越し、とうとう哀れみに達するのであった。
「信じてませんね?」
「いや、だって、」
それに、そんな言葉を疑わないで当たり前に受け入れている人がいるなんて。
自分が引きこもっている間に暗黙の了解でもできたのか。たかが女一人のために。
「本当に魔女なんですよ。魔法も使えます」
「どんな?」
「人を幸せにする魔法です」
「……」
「やっぱり信じてませんね?」
嘘じゃないですよ、幸せ屋は言う。
「きっと貴女のことも幸せにしてあげられます」
幸せ、幸せ。
何度と聞いた胡散臭い言葉は、自分のことになった途端、メリーを不快にさせる。
眉根に寄った皺をそのままに、ふいと顔を背けた。
「別にいい。あたしに幸せなんかない」
何も望まないでいられる、叶わない絶望に沈まないでいられる、それだけでいい。
「いいえ、ありますよ」
けれど、幸せ屋はそう言い切った。
絶対的な自信、いや、確信、ただ当たり前を言葉にしているようでさえあった。
「ありますし、なれます。幸せを届けるのがわたしの仕事ですから」
ただし、とメリーの眼前にピンと人差し指が立つ。
「幸せになりたいとメリーさん自身が願わなければ無理です」
幸せの形は人それぞれ。
願えばそれは幸せで、願わなければただの出来事。
願って初めて、ただの出来事は幸せになる。
「すぐにとは言いません。考える暇も必要でしょうから」
今までの熱意とは真逆に、幸せ屋は背を向けた。部屋を出ていくようだ。
「どこ行くの?」
「お伝えすべきことは一通り話したので。少し街を見てきます」
なんてウキウキと言う。こいつ、観光しに来たのか。
「夕方ごろにまた戻ります。よければその時に、貴女の幸せを教えてください」
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