一本の幸せを海の街に 4
「……なんでいるのよ」
「寝るからです。ベッドで横になる理由が他にありますか?」
「あんたって、つくづく人を怒らせる天才よね」
一人で寝るには寂しさの残る、けれど二人で寝るには少し狭苦しいベッドの中。
メリーは向いた外方で顔を歪め、幸せ屋は久々のふかふかにご満悦だった。
「お優しいお母様ですね。夕食のみならず、泊まらせていただけるなんて助かりました」
「あたしは困ってるんだけど」
「こういうときって、好きな殿方の話をするのが定番なんでしたっけ?」
ウキウキとした、夜には、いや夜でなくとも耳障りな声に眉間の皺が一層深くなる。
「いきなり泊まるなんて、遠慮なんてものはないの?」
「人の優しさは遠慮するものではなく、素直に受け取るものです。優しさを受け取った者は幸せに、善意を受け取ってもらえた者もまた嬉しく思うものです。その分、受け取った者は恩返しをするのです」
「泊まれなかったらどうするつもりだったの? 宿なんてないわよ」
「心配してくれているのですか?」
メリーは黙った。だがそれは、肯定しているも同然だった。
何を言っても都合よく受け取られる、もう何も言うまい。メリーの脳裏にありありと浮かぶニヤケ顔は、しかし、続いた囁くような声音に溶けて消えた。
「ありがとうございます。ですが、心配ご無用です」
夜の静寂に揺蕩うような、やけに大人びて聞こえる声だ。
「野宿には慣れています。木の一本でもあれば獣に襲われる心配はありませんし、雨を凌げる岩陰なんて大喜びです。この街は獣も見ませんでしたし、雨も降らないと聞きました。ああ、港で星を見ながら一夜を過ごすのもいいかもしれません」
叶うならあの白猫を膝に乗せて、一緒に。
「あんた、今までどういう生活をしてきたのよ……」
「仕事の都合上、列車や船で寝ることのほうが多いので、こうして床に就いて身体を休めるのは違和感がありますね」
くすくすと笑う幸せ屋だが、メリーには全く笑えなかった。
性格はさておき、容姿は貴族か富裕層の娘と言われて疑いすらしないものだ。木だの獣だの野宿だの、その口から聞くとは微塵も想像できなかった。
それでいて、少し、妬ましい。
屋外なんて論外、慣れない自分の部屋以外で寝ればまず体調を崩す。
無理言って街の外に連れ出してもらったときは、行きの船で吐いて帰った。
どこにも行けないと知った。部屋に囚われている現実を灼きつけられた。
なのに、こいつは。
「メリーさん」
「なによ」
「幸せは見つかりましたか?」
「……」
幸せ屋が出ている間、自分にとっての幸せを嫌でも考えさせられた。思えば長い間、幸せという言葉の、その表面だけを見て考えず嫌いしていた。何を願って、何が叶わなくて塞ぎ込むようになったのか、理由なんて忘れてしまっていた。
それで、考えた。自分だけしかいないのに嘘をつくのは子供らしいから。
メリーにとって、幸せとは外で、世界で、人生に等しいものだった。
なのに、与えられたちっぽけな時間が長く感じた。答えがすぐに出てしまったのだ。
自分の幸せは単純だった。
「……ないって言ったでしょ」
でも、叶わないことに変わりはない。
「いいえ、あります」
「ないって」
「あります。本当にない人間は、そんな苦しそうな声を出しません」
幸せ屋が上半身を起こして、シーツが引かれる。メリーの足先が少しはみ出した。
「願う幸せがあるということは、自分自身か、それとも周囲の環境にか、今に不満があるということです。不満のない人間は怒りません。眉間に皺を寄せることもしません。他人を拒みません。太陽から目を背けません」
シーツをうまく戻せない震える手を、随分と温かい手に包まれる。
「本当に満足している人間は、笑顔を浮かべるか、感情がないんです」
幸せ屋の声が、メリーには、どこか寂しそうに聞こえた。見えないけれど、寂しそうに笑っている姿が瞼の裏に映った。
「それと、メリーさん。貴女は一つ勘違いをしています」
「……なに」
「幸せを願うのはメリーさんですが、叶えるのはわたしです」
勝手に決めないでください、にこやかに言うのだった。
片眉を上げ、メリーも強気に言い返す。
「なら、なんでも叶えられるって言うの?」
「魔女ですから」
「じゃあ、一生引きこもって暮らせるくらいのお金持ちにして」
「それは無理です。禁則事項ですので」
メリーは無言で幸せ屋の脚を蹴った。
「それと、心からの願いでないと叶えられません」
「無能じゃない」
「本心から願っていたとしても、健康によろしくないのでお断りします」
「じゃあこんなあたしにでも毎日会いに来てくれる彼氏」
「邪念の塊ですね、却下です。ちなみにどのような方をお望みですか?」
「断るなら教えない」
「そ、それは……しかし不可能な願いを受理するのは……!」
「残念だったわね」
下らない言い合いに、少し震えているメリーの背を見て、幸せ屋は微笑む。
ベッドを降りて、幸せ屋はカーテンに潜り込んだ。
「幸せって、自分だけのものではないと思うんです」
流れ込んでくるそよ風に、メリーも窓の方を見た。
「幸せそうな人を見ると、わたしも嬉しくなります。誰かを自分の力で幸せにできたら、もっと嬉しくなります。逆に不幸そうな人を見ると心が痛みます。自分の手で誰かを傷つけてしまったら、死んでしまいたくなります」
月明かりが作り出す少女のシルエット。靡くカーテンから亜麻色の髪が見え隠れする。
「わたしがこの仕事を続けているのは、誰かを幸せにしたいからです。わたしがいつも笑っているのは、誰も悲しませたくないからです」
そのとき、風が強く吹いた。
「どうせ二度と合わない相手です。それに免じて、教えてくれませんか?」
絶対なんてないでしょ。
何かと理由をつけて心を塞いできた言葉は、そのときばかりは出てこなかった。
「……あたし、外に出たい」
見えてしまった夜の景色は、悔しいほどに綺麗だった。
満天の星月夜。月に照らされて白光する波。どこまでも白い街並み。
吸い寄せられるようにベッドから降りて、窓の前に立った。
「けど、誰にも見られたくない。それでも外を歩きたい」
そんなの無理だ、俯いた自分が言ってくる。
「風邪を引きたくない、お母さんに心配をかけたくない。それでも海に行きたい」
そんなの無理だ、布団に潜り込んだ自分が言ってくる。
「わかりました」
彼女だけは違った。
「できるの?」
望んでいいの?
願って、現実を見せられて、絶望しないでいられるの?
本当に、叶うの?
「必ず、あなたの元に一本の幸せをお届けします」
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