一本の幸せを海の街に 5


 朝起きて一番に覚えたのは、相反する期待と不安だった。

 窓に目を向けるのが怖くて、ざわざわとした雑音が脳から離れない。


「おはようございます。朝ごはんですよ」


 二度のノックから、幸せ屋が顔を覗かせた。

 当然のように入ってくるのを条件反射で追い出しそうになって、言葉を止める。手元の盆に乗った朝食が見慣れない料理だったからだ。


 もてなすために母が変えたのかと思ったが、そうではなかった。


「一宿一飯の恩と、とある国では言うらしいです。泊めてもらった恩返しです」


 嗅いだことのない香り。どこの国のかは察しようがないが、不思議と唆られる。


「食べられますか? 嫌であればお母様に作ってもらいますが」


「ま、まあ、作ってもらって要らないは無礼だし……」


 盆を膝の上に受け取って、一掬い。お粥のようなものに、謎の茶色と緑色。恐る恐る口に運んで、覚悟を決めて咀嚼した。


「ん、美味しい……けど、なにこれ」


 魚ではない、ほろほろと崩れる食感。鼻を抜ける薬のような味。


「獣の干し肉と香草のお粥です。塩漬けにされたものを水に晒して、香草と一緒に炒めてから煮るんです。塩気も抜けて食べやすいですし、わたしの故郷では病人食でもあったんですよ」


 幸せ屋は得意げに語る。料理ができるのは意外だった。


「さあ、食べ終えたら準備してください」


「は? なんの」


「もちろん、」


 幸せ屋は窓辺に寄って、勢いよくカーテンを開けた。


「外に出る準備を、です」


 そこには、視界の霞むような大雨が広がっていた。


 □


「メリー」


 玄関に降りると、母親が待っていた。

 メリーは心配そうな母親の視線から目を逸らして、自分の靴を探した。

 ない。当然だ。最後に外に出たのは、何年前のことか。

 幸せ屋は外で待っていると先に行ってしまった。早く追わないといけない。


「……」


 早く出て行きたいのに、出て行けない。それを靴のせいにしている自分がいた。

 この場から逃げ出したいのなら、裸足で出ればいいのに。


 なのに。


「メリー」


「……」


 引かれる後ろ髪を振り切れない。けど、振り返る勇気もなかった。

 母がすぐそばまで歩み寄ってきて、横に膝を下ろした。


「これ、ちょうどいいかしら」


 随分と皺の増えた手で、足元に水色のサンダルを置いた。

 土汚れも、積もった埃もない、大きくなった自分の足と同じ大きさの。


 メリーは思わず母に振り返った。優しい微笑みが迎えてくれた。


「幸せ屋さんに頼んだとき、こうなるかもって買っておいたの」


 言いながら、履かせてくれる。ふらついた身体をそっと支えられて立ち上がった。

 温かい手に、背中を押してもらった。


「……あの、お母さん」


「いってらっしゃい。気をつけるのよ」


 振り返れないまま言いかけた言葉を、メリーは飲み込んだ。


「いってきます」


 扉を開くと、傘をさした幸せ屋が待っていた。

 後腐れなく出てくると予期していた、それを確かに見たと、頬を緩ませる。


「狭いかもしれませんが、どうぞお入りください」


「仕方ないわよ。この街の人は雨の日は外に出ないから、傘なんて持たないもの」

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