一本の幸せを海の街に 6
深張りの一人用傘では、半分ずつ入るのがやっとだった。
手のひらに雨を打たせながら、メリーは緩やかな坂の先を見やる。
自分たち以外に人ひとり見当たらない。商店も全て閉まっている。この大振りの雨では船も出せないだろう。本当に、ウカイスの街は眠っているようだった。
だとしたら、これも夢?
昔と変わらない景色は夢だから?
覚めたらベッドの上に戻るの?
そんなの。
「大丈夫ですか?」
遠のいていた雨の音が鮮明に聞こえてくる。
濡れるのを厭わず差し出された傘がメリーの全身を覆っていた。
「風邪をひかないようにはしていますが、体力が戻っているわけではありません。雨で足元は滑りますし、辛くなったら引き返しましょう」
「いやだ。あたしはこの脚で海に行くの」
走馬灯を見ているようだった。
家の一軒先さえ見通せない豪雨の白んだ視界に、メリーは過去を見ていた。
記憶。昔の記憶。辛い記憶で、憧憬で、ずっと蓋をしていた子供の頃の思い出。
無茶を言って連れ出してもらって、夢中になって坂を駆けた思い出。海に着く頃には過呼吸を起こして、すぐに帰ることになったけれど。
サビが剥がれ落ちて、モノクロが色づいていく。
楽しかった。嬉しかった。どれだけ今の自分を惨めにさせても、あの高揚感だけは偽物だと言えなかった。だから、固く閉じ込めていた。
雨の中に、目の前に、少し先を行く幼い自分が見えた。
待って。
無邪気に跳ねて、はしゃいでいる。
置いていかないで。
早く早くと呼んでいる。
自分も、もう一度。
呼んでいるのに、どんどん離れていく。
あの海を。
「メリーさん!」
幸せ屋は傘を放り出して、堤防で頽れるメリーに駆け寄った。
何かに取り憑かれた様子で走り出したかと思えば、息を切らして咽せては咳き込んでいる。身体は冷え切っているのに、頬は風邪を引いたように真っ赤だ。
「体調を崩さないようにはしていても、怪我は関知していません。転べば擦り傷ができます。骨でも折るようなことがあれば……!」
「……前に」
「え?」
「死ぬ前に、見たかった……夢だったとしても、覚める前に、見たかった」
幸せ屋は息を飲んで、傘を拾う。
「大丈夫です。メリーさんは元気です。夢でもありません。ゆっくりで、大丈夫です」
「うん……うん、大丈夫」
強く、何度も、信じ込ませるように、声に出して頷く。
雨の冷たさを、硬い石の感触を、船を繋ぐ縄が軋む音を全身にすり込ませる。
生きている、夢じゃない、だから大丈夫。
これは、現実。
そして、メリーは海を見た。
「……ねえ」
「はい」
「何も感じない」
「……はい」
「楽しくない。嬉しくない。見たかったのに、やっと見れたのに……何も、感じない」
幼い自分は、もうどこにもいなかった。
自分と、幸せ屋と、眠った街と。
現実が残っていた。
「それが、寂しい」
これじゃあ、夢を見ているのと同じだ。時間が経つにつれて曖昧になって、自分と、自分の感情しか思い出せない記憶を見ているのと、変わらない。
それじゃあ、いつまで経っても、止まったままだ。
「ねえ、あたし」
「おねえちゃんたち、なにしてるの?」
聞こえた幼い声に、メリーは反射的に幸せ屋の背に隠れ、幸せ屋は声の主を振り返る。
「こんにちは、ニムナさん」
片手に傘を、もう一方の手に皿を持ったニムナがいた。
「こんにちは、シアワセヤ。うしろのひとはだあれ?」
「えっ、あたっ、しは……」
「メリーさんです」
「ちょっと!」
なぜ怒りが向けられているのか、幸せ屋はわからなかった。
それよりも、と幸せ屋はニムナを見る。皿に乗っているのは魚の切り身だ。
「猫ちゃんに会いにいくのですか?」
「うん。あめでおとうさんたちがおさかなとりにいってないから、ごはんあげにいくの」
「お父様やお母様は?」
途端にニムナは口を噤んで俯いた。黙って出てきたのだろう。
「子ども一人じゃ危ないでしょ……帰らせたほうが」
「そう思うなら、メリーさんがお伝えすればいいじゃないですか」
「それは……あんた、わかってて言うのはずるい」
「冗談です。ですが、猫ちゃんの空腹も放ってはおけませんので、こうしましょう」
メリーに傘を預けると、幸せ屋はニムナの前で膝を折って目線を合わせた。
「実は、わたしたちも猫ちゃんが心配で来たんです。居場所まで案内してくれますか?」
「うん、こっちだよ」
果たしてニムナが示したのは、陸に上げられた古びた一艘の漁船だった。乗り込んで座席下の収納場所を覗き込めば、なるほど身体を丸めた白猫がいた。
三人に気づいて白猫はピンと耳を立てる。ニムナが呼びかけて皿を置くと夢中で食べ出した。そして無防備なのをいいことに、幸せ屋はその毛並みを堪能する。
野良とはいえ、子どもたちに手入れしてもらっているのだろう。硬くて痛い獣らしさのない、ふわふわの白毛。日向ぼっこのあとであれば最高だった。
猫吸いは流石にメリーに止められ、白猫が眠りについたのを機に船を出た。
その後、ニムナを家まで送り届けた。家の前に心配顔の両親が待っていて、謝罪と感謝の言葉を何度も重ねられた。ニムナも頭を下げさせられていたが、最後まで不満げだった。
お湯を張ろう、スープを入れよう、せっかくだから上がっていってもらおう。慌ただしくなる両親の厚意を丁重にお断りして、二人はニムナに別れを告げた。
「じゃあね、シアワセヤ」
「はい、今度はご両親と行ってあげてくださいね」
「……うん」
しゅんと頷くニムナは、扉を閉める間際、思い出したように振り返った。
「メリーおねえちゃんも、またね」
今度こそ扉が閉まった。
肌に触れる家の温かさが消えて、雨の音が大きくなる。
「あの子と会うのも、あんたが仕組んだ偶然なの?」
「さあどうでしょう。偶然の偶然かもしれませんし、偶然じゃない偶然かもしれません。どっちなのかを決めるのは、メリーさんかもしれません」
ニムナと出会ったのは、幸せ屋の魔法か、雨の子だという子どもの気まぐれか。
「港に戻りましょうか」
「……ううん、今日は帰る」
家のあるずっと上に向けて、軽やかな一歩が跳ねた。
どうせ風邪を引かないからと、メリーの傘を抜け出して、次へ次へと。
帰って、それで。
お母さんに、ちゃんと謝ろう。謝って、もう大丈夫だよって言おう。
朝に起きて、ベッドから出るようにして、ご飯も食べて。
しっかり体力がついたら、まだ一人は怖いから、お母さんの買い物にでも付き合って。
「また、外に出てみるよ」
今度は、晴れた日に。
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