一本の幸せを海の街に 7
「メリー、起きてる? 入るわよ」
部屋を訪ねた母の声は、いつもより沈んでいた。
昨日、帰ってきたメリーは倒れ込むように眠って、夜に起きることもなかった。幸せ屋の魔法を疑うつもりはない。けれど、信じるに足りる根拠のない魔法より、愛娘への心配が勝るのは仕方のないことだ。
「メリー?」
しかし、ベッドの上にメリーの姿はなかった。
丁寧に畳まれたシーツが、差し込む陽光で純白に光って見える。
「おはよう、お母さん」
その声がしたのは、カーテンの奥。
窓の棧に腕を置き、靡く長髪を抑えるシルエットが、振り向いた。
「メリー……っ」
「いきなり泣かないでよ、もう」
こっちまで気恥ずかしいと、メリーは再び外に目を向けた。
少しでも長く見ていたい、そう思えた。
四角い景色が自分を惨めにさせることはない。
いつか、また飛んでいける、光に満ちた世界の景色だ。
「そうだ、幸せ屋は?」
「幸せ屋さんなら、ちょうどさっき出て行ってしまったの。メリーにもう一度会ってからでもって止めたんだけど、すぐ出なきゃいけないって」
「そうなんだ……あ」
□
港まで続く白い石畳の、うねりを持った緩やかな坂を一人の女性が走っていた。
朝一番の船に乗るべく急ぐ幸せ屋だが、その足取りはどこか覚束ない。短い呼吸を繰り返し、トランクケースに振られる彼女を、次の瞬間、不運が襲った。
緩い道のうねりだが、荷物の重さと力ない足取りに体が傾く。昨日の雨で蓋が外れてしまったのだろうドブの流れる側溝に、勢い余って踏み込んだのだった。
雨で洗われたブーツを容赦なく泥色に汚し、ワンピースドレス、果てには少し赤らんだ頬にまで飛び散った。
無言で足を引き抜き、爪先で地面を蹴っては泥を落とす。
昨日の豪雨が嘘のように思える晴天を見上げて、笑った。
「メリーさん、風邪を引かなかったようですね……へくちっ」
彼女は幸せ屋。
辛さを幸せに変える一本を届ける、幸せ屋。
自らの『幸』せから抜き取った一本で『辛』さを『幸』せに変える。
自らの『辛』さと引き換えに『幸』せを届ける。
それが彼女の、幸せ屋の仕事だ。
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