誰かを不幸にするなんて 6

 離れた裏路地に入って、ようやく少女は走る足を止めた。上がった息を整え、誰もいないことを改めて確認し、深く安堵の息を吐き出す。


 少女の脳裏に浮かぶのは、驚く妙齢の女性の姿だ。舞台女優として一世を風靡した彼女だが、静かな生活がしたいと故郷に戻り、しかし噂を聞き訪れる者が絶えなかった。平穏に暮らしたい、それが以前受けた依頼だった。


 果たして、二人が見たのは、彼女の家の前にできた人集りだった。それも舞台女優たる彼女を一目見に来たのではなく、皆が皆、幸せ屋に依頼したいという客だった。


 幸せの魔法の代償がいつ訪れるか、それは使用者である少女にさえ関知できない。先の一件のように、ともすれば幸福が届いたその瞬間にさえ。ゆえにこそ、少女は魔法の効果を見届け次第、すぐにその場を離れるようにしている。


 たとえ幸福を享受したとして、それが他人の不幸と引き換えに成り立っているものだと知れば、得た幸せに価値など感じられないだろうから。


 幸せの魔法。まだ、わからないことばかりである。


「会社のオープンの成功……仕事がうまくいく幸せと解釈すれば、代償は私の仕事がうまくいかないこと、でしょうか。失敗する以前に、そもそも仕事がないんですけどね、はは」


 死活問題ゆえに、笑みとも言えない掠れた声が出るばかりであった。

 それでも、今回の仕事でだいぶ懐が暖かくなった。報酬を勢みに勢んでくれたトラッドに申し訳なさを感じつつも、やはり喜びは隠せないものだ。


 路地を行く少女はまっすぐ駅に向かわず、さらに工業区域へと踏み入れた。かなり遠回りにはなるけれど、代償を警戒し過ぎているけれど。


 進むごとに風景は寂れ、足裏に静かな騒音が響く。


 ふと、少女は思った。


「受けられない不幸は、どうなるんでしょうか」


 そのとき、工業区域に爆音が響いた。

 少女が聞いたそれは、爆音というほどではない、鼓膜をかすかに揺らすような。けれどずっと奥に見え出した、工場排煙よりもはるかに濃い黒煙が爆発音だと確信させた。


 嫌な予感がした。『それ』だという根拠は何もないけれど、『それ』ではないと言い切れる根拠もない。拭いきれない最悪の想像に、少女は走り出していた。


 あのとき車窓から見た砂塵が、今は目に入って痛い。

 あのとき遠ざけようとした汚臭は、今は逃れようがない。

 息が上がって、大きく吸い込むたびに咳き込んで、吐きそうになる。

 走るのには慣れないブーツで何度も転びかけ、結局、転んで膝を擦りむいた。痛くて、立ち止まりたくて仕方なかったけれど、少女は靴を放り捨てて走り続けた。

 

 □


 少女が着いたときには、すべて終わっていた。

 いや、最初から、できることなどなかったのかもしれない。


 爆発の現場に着いたときには、すでに火の手は鎮まっていた。残っていたのは、爆発で吹き飛んだのだろう半壊したガレージと、車の形をした真っ黒な何かだった。


「……何かの、事故」


 だと、思いたかった。

 そうではない、人為的で悪意的な爆発だったと、すぐに思い知った。

 ガレージの中から、見覚えのあるスーツ姿の二人が出てきた。まさかと周囲を見回せば、離れた場所に黒塗りの自動車が止まっている。ちょうど、飛び散った石片やガラス片の被害を免れる位置に。

 ああ、と少女は悟った。


 工業区域。

 区画整備。

 過激派。


 それだけならよかった。

 全て綺麗なんてありえない。遅かれ早かれ、多かれ少なかれ起こっていた事態だ。


 けど。

 

 わたしが、自動車会社のオープンを成功させたから。

 わたしが、不幸になれなかったから。


 この場所が標的にされたのは。


 幸せの魔法の。


「…………」


 呆然と立ち尽くしていた脚が力無く前に出る。

 赤子のように左右に頭を揺らし、幾度と膝から崩れ落ちそうになりながら。

 果たして、黒焦げた残骸にそっと手を触れた。


「こんなとこで何してんだ」


 そんな少女に声が掛かる。前にもいた、金髪でガラの悪そうな男だった。


「んなゴミ触んな汚ねぇから。さっさとおうちに帰んな」


 少女は顔を上げも、気づいたそぶりさえ見せない。


「おい聞いてんのか? 大人の話は無視すんじゃ」


 痺れを切らしたスーツの男が少女の腕を掴みにかかる。

 腕を掴もうとした寸前、少女の唇が震えた。


「……ですか」


「あ?」


 男が眉を顰める。

 不機嫌に凄んでくるのを前に、少女は深く深く息を吸い込んだ。 


「なぜこんなことをしたんですかッ!」


 声を張り上げた少女は泣いていた。

 食いしばった歯からはぎりぎりと音が聞こえそうで、頬を大粒の涙が流れ落ちていく。


「ここにいた方が何をしたというんですか! 何か悪いことをしたんですか!? 消し炭にされるほどの悪事を働いたとでもいうんですか! これがどれだけ——うぁっ!?」


 少女の激昂は、男の手で無慈悲に遮られた。


「喚くなガキ。こちとら仕事で掃除しただけだ」


 赤く腫らすほどに頬を叩かれ、少女は地面に倒れ込む。

 それでも、身体を地面から剥がし、男を睨み返すのをやめなかった。


「大事なものを諸共爆破しておいて、どこが掃除だと……」


「何をしているんですか」


 そう言って割って入ってきたのは、眼鏡をした、もう一人のスーツの男だった。


「同僚が無礼を。立てますか?」


 丁重に差し出した手への少女の返答は、警戒と敵意の眼差しだった。

 男に気を悪くした様子はなく、手を引っ込め、ズレてもいないネクタイを整える。


「子どもが一人でいると思えば、見覚えがあるような気が……ああ、以前ここを訪れた際、助手席から見ていましたね」


「……なんで、知ってるんですか」


「こんなゴミ溜めを自家用車が走るのが普通だと? 工場に向かう輸送車か、街の入り口とを繋ぐ送迎車が精々、その中で小綺麗な車は嫌でも目につきます。しかも運転手が元同僚ともなれば、なおさらでしょう」


 嫌味をふんだんに込めた言い草に、少女は遅れて察する。彼らが役人であるならば、トラッドのことを見知っていても何らおかしくない。むしろ彼と相反する派閥の人間なら、悪い意味で覚えられていても。


「彼と一緒にいたことを思えば、ここにきた理由はある程度察しがつきます。凄惨な現場をまだ子どもの貴女に見てほしくはなかったのですが、どうか役に立たない善意に突き動かされたご自身を恨んでください」


 一体、どの口が。


 今まで、本気で暴力など振るったことのない人生だった。退屈と興味、それから悲しみはあっても、少女は心から怒ったことはなかった。


 初めて、人を殴りたいと思った。


 たとえそれが、本当は彼らに向けるべきではないものだとしても。

 彼らの言葉をこれ以上聞き続けたら、もう、


「君、大丈夫かい!」


「…………ぁ」


 その声は、ほんの一瞬で、少女の怒りを悲しみへと変えた。


 心が締め付けられるように痛んで、心細くなって、忘れていた涙が流れ落ちた。


「トラッド、様ぁ……っ」

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