誰かを不幸にするなんて 5
「ええと……僕、なにかしましたっけ?」
三日目、開所式当日の朝。
朝一番、誰よりも早く準備を進めようと、打ち合わせていた時間よりだいぶ早くエントランスに出向いた。にもかかわらず、そこには彼を除いた全社員が揃って作業していた。皆が彼以上に会社発足に尽力したがっていた、のではないと理解するのは容易かった。
彼が姿を見せた瞬間、一帯が呆れのため息で充満したのだから。
「……なんつーか」
と、ザダグが頭を掻きながら言い。
「熱心なのは、悪いことじゃないと思いますけど……」
と、少女がフロントガラスを拭いていた布巾を握って言い。
「さすがに早すぎます。空気読んでください、社長」
と、現場を仕切っていた秘書が言った。
「まあ、バレてしまっては仕方がありません。社長、スケジュールの最終確認をお願いします」
「あ、ああ……うん」
口裏合わせて隠していたくせに察しろと言われて。企てが失敗に終わったら、それはそれで自分が悪いかのように言われて。そのくせ何事もなかったかのように仕事をふられて。
目覚めきっていないトラッドの頭には、もうさっぱりであった。
書類を受け取ろうとしたとき、続け様に正面扉が開いた。
「すみません、まだ準備中で……」
言い止したトラッドは、その人物を見て、口を開けたまま固まった。秘書も、ザダグも僅かながら興味を覗かせ、雫を落とした湖のように驚きは騒めきと化して広がっていく。
中年を過ぎた男性の、憎みたくても憎めない朗らかな笑みを浮かべた男性。
「新市長!? どうしてこんなところに……!」
「少し、邪魔してもいいかね?」
「邪魔じゃない、っていうか、構いませんけど……でも完成していないので、市長さえよければ後日ゆっくりと見てもらえる時間をとらせてもらいますが……」
「ふむ……たしかに私は市長だが、半分は私個人として来たものでね。このとおり、散歩すると言って一人で出てきてしまった」
「はあ……じゃあ、どうしてここへ?」
目が覚めきってもなお、この状況はさっぱりだった。
新市長は内装を見上げ、社員を見回し、中に入ってフロントガラスから車内を覗く。
「トラッド・ベーヴェエムくん、君の話は聞いているよ。元々役人だったみたいだね」
「ええ……どこでご存知に?」
「穏健派の部下から聞いた話だよ。私が就任する以前に、下っ端のくせに辞めて社長になるつもりの阿呆がいた、とね」
はあ、とトラッドは曖昧な笑みを浮かべて新市長を見た。
「聞いていくうちに、この会社を教えてもらった。一からの開業はさぞ苦労しただろう」
役所勤めの頃に貯めた、決して多くはない給与を元手にして。
それでも足りない資金は銀行から借り入れて、初めての借金に先が暗くなって。
幸い人脈には恵まれて、ついてきてくれる仲間ができて。
融資と宣伝を願い入れるために寝る間を惜しんで街中を走り回って。
まだ若いつもりなのに、胃痛と抜け毛に悩まされる日々もあって。
ようやく、白線の前までたどり着いた。
「この街をよくするためなら、このくらいは苦労のうちには入りませんよ」
「まったくお人好しだな。よし」
新市長は息づき、果たして、大仰に腕を横に広げた。
「ここにある自動車、買わせてもらおう!」
全員が目を丸くする中、横暴とさえ呼べる大胆さは続く。
「そして、やってきた先着四名にプレゼントしてくれたまえ」
「いいんですか?」
「この場ですぐとはいかないが、支払いはしっかりさせてもらうよ」
「いや、そういう意味ではなくて」
何が言いたいかはわかっているというふうに新市長は頷いてみせる。
「肩入れをしたくなったのだよ。新市長としてではなく、ロール・ジェロントとして。君のような人がいてくれたことを、とても嬉しく思う」
脱いだシルクハットを胸に当て、一礼。
「長居しては悪いのでね。それに、仕事も山積みで出てきたからね。区画整備に反対する過激派のおかげでうまく進まんのだよ。トラッドくん、戻ってきて手伝ってくれんかね?」
「お気持ちだけ頂戴します」
「いつでも歓迎しよう。ああ、そこのお嬢さん、あとで私宛に請求書を送ってくれるかな」
「かしこまりました」
「うむ。……では、トラッドくん」
玄関扉に手をかけ、最後にと、新市長は振り返った。
「この街の未来、一緒により良くしていこうじゃないか」
言い残して、今度こそ去っていった。
しばらくの静寂。
ややあって隣に並んできた少女に、トラッドは車体に背を預けながら訊ねた。
「君のサプライズってことでいいのかな、幸せ屋さん」
「魔法がうまく機能したのであれば、はい……ご満足、いただけなかったでしょうか?」
トラッドの気の抜けたような声音が、少女にそう思わせたのだろう。首を横に振って返し、けれど、表情は晴れないままだった。
「魔法に頼ったのは僕だ。君が悪いわけじゃない。その上でちょっとだけ、ズルをしたんじゃないかって思っちゃってさ」
自動車がいきなり四台も売れた。
新市長に知ってもらえて、隣に並んで歩いていこうとさえ言ってもらえた。
魔法のおかげで。
「そんなことありません」
帰ってきたのは、確信めいた否定だった。
「幸せの魔法は、起こり得る偶然を手繰り寄せるものです。偶然ではあり得ない事象は、どうやっても引き起こせません。トラッド様が理想を掲げ、会社を立ち上げ、今日まで努力してきた全てがあったからこそ、起こり得たんです……ええと、だから、その」
言い終えて、一拍。少女の頬が見る見るうちに朱色に染まっていく。
「きょ、今日くらいは、自分を褒めてもいいと思います」
俯き、か細い声になって、それでも言わずにはいられなかった言葉を最後まで告げる。
「……そうだね。今日くらいは」
トラッドに優しく微笑まれ、少女は照れ笑いを返すのだった。
「社長。販売前日から売上があったのは喜ばしいことですが、準備のほうもお忘れなく。少し余裕がなくなりつつありますので」
「ああ、そうだったね。みんな、もうひと頑張り頼むよ!」
激励の声を張トラッドは、そうだ、と少女に嬉々と向き直る。
「よかったら、君も式典に出ていかないかな?」
「ありがとうございます。けど、わたしはここで失礼します」
その瞬間、目に見えてトラッドは気を沈ませた。
「ええと、その、次の仕事がありますので。それに、他にも色々と……」
「残念だけど、仕方がないか。駅に行くんだろう? 送っていくよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから……それでは、失礼します」
元から、先の一件を見届けた後すぐに出ていくつもりだったのだろう。壁際に置かれた装飾品の中に紛れた荷物を取り、改めてトラッドに頭を下げて出口へと向かっていく。
「あ、ちょっと待って。君に渡したいものが……あれ」
よほどの急ぎだったのだろう。ちょうど扉は閉まり、少女の姿はすでになかった。
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