名のない森 2

 幾重もの枝葉が陽光を完全に遮る針葉樹の大森林は、ひどくじめついて息苦しかった。


 干上がった川に生き物はおらず、幸せ屋はそこに放り捨てられた獣骨の山を飛び越える。

 風景から窺えるこの森に住まう者たちの倫理観の欠如が、これでもまだ序の口だと思うと引き返してしまいたくなる。陰鬱さに立ち止まれど、深く息を吸う気にはなれなかった。


 重い足取りで進んでいると、頭上で枝葉が揺れた。

 一際大きかっただけに、異様なほどにしんとした静寂が流れる。かと思えば再び、さらに激しく、たしかに何かが縦横無尽に木々の中を動き回っていた。

 トランクケースを置き、せめてもの臨戦態勢に入る幸せ屋に、それはついに姿を見せた。

 深い葉の影の中でギラリと目を光らせ、飛び出してきたそれは。


 それは幼女だった。


 齢二桁も届いていないであろう、肩をむき出しにした薄手のワンピース一枚だけを纏い、銀の長髪と紫紺の大きな瞳をした子どもだった。

 幸せ屋は列車の如き猛速で飛来した幼女を真っ向から腹に受け、

「見つけたぁぁぁぁぁぁ——っ!」

 抱きつかれ、諸共倒れ込んだ。

 しかしその後、幸せ屋が地面に背を打つことはなかった。

 恐怖に閉じた瞼を恐る恐る開く。幸せ屋は幼女に腰から抱え上げられていた。

 正確には、宙に浮く幼女に抱え上げられて浮いていた。

 体格でいえば幸せ屋の胸下くらいの背丈しかない幼女が、しかし子どもを空高く掲げてあやす父親のように軽々と持ち上げている矛盾。

 眼下でにぱぁっと満面の笑みを浮かべる幼女に、

「ひっさしぶりだなぁ――妹よ!」

 幸せ屋が森に入って以来、常に強張っていた表情をついに破顔した。

「背伸びたな! 大人っぽくなったな……美人になったな!」

「姉さんは……相変わらずですね」

「もう老けないからな!」

 幼女、もとい幸せ屋の姉は重力を無きものにして喜びに物理的に舞い上がる。 

 貴族の舞踏会のような優美さはなく、けれどこの世の何事よりも楽しそうに。

 無論、幸せ屋も振り回される形で。

「あの……そろそろ、降ろしてもらってもいいですか」

 か細い声が聞こえ、姉はようやく幸せ屋が腕の中で息絶えそうなのに気づいた。

 太い木の幹に幸せ屋を凭れかけさせ、しゅんとした顔で覗き込む。

「すまない……飛べないんだったな」

「いえ、大丈夫です……なんとか」

 仕事に際して常日頃から列車に揺られ、田舎に行けば馬車や牛車にだって乗ることもある幸せ屋だ。三半規管は常人に比べて鍛えられているはずなのだが。


「天才すぎるのも困りものですね」


 この姉が異常なのだと、ウロウロと忙しなく動く姉に聞こえないようにこぼす。


「わたしの部屋は残っていますか?」


「ああ! ちゃんと守ってるぞ!」


「じゃあ荷物を置きに行きましょうか」


「おいらが持つぞ! 今日は泊まっていくよな? な!」


「そのつもりです」


「じゃあじゃあ、一緒に寝ような!」


 地面を歩く幸せ屋の横で、浮いたトランクケースに乗った姉が絶えずはしゃいでいる。


 しばらく歩くと、その一帯だけ大樹が切り取られた、陽光が差し込む広場に出た。


「それでな! 新しく——」


 広場に踏み入れた途端、姉の大声が失せた。

 微笑ましく聞いていた幸せ屋も、すぐ広場の異様さに気づいた。


 魔女はという種は概して、私的な交流を望まない。

 魔女は唯一を除いて、会話を必要としない。


 その唯一とは、魔法だ。


 人間が子を産み、種を繋いでいこうとするように。

 魔法の継承、それこそが魔女の存在意義であるがゆえに。


 理論作りに詰まれば有識者に相談し、試用のために防護魔法を張るように頼み。

 本日は晴天なりと聞けば、きっと雨乞いの魔法をするのだろう。


 ただの雑談も、ただの頼み事も、ただ天気の話をすることもあり得ない。


 だからこそ広場に魔女が集まるのは異様なことだった。


 二十歳以前の美貌と銀髪、紫紺の瞳を擁した魔女たち。

 幸せ屋と姉が光の下に出ると同時、二人に視線が集まる。


「おー、みんな! おいらの可愛い妹が帰ってきたぞ!」


 姉の呼びかけに誰も答えることはなかった。

 目を背け、薄く、陰から覗き見るような視線が幸せ屋を刺す。


「集まってるなんて珍しいなー。出迎えてくれてうれしいぞ!」


 尚も変わらず、姉は皆に声をかけるのをやめない。

 再びの沈黙が広場を覆った、そのとき。


「――えっ?」


 何の前触れもなく、幸せ屋の眼前の地面が抉れたのだった。

 幸せ屋は浅い穴の中に、まるで見えないなにかに押しつぶされたように粉々に砕かれた魔石の残骸を見た。


 それと寸分の狂いない、同時。

 広場にいた魔女の一人が、ぐちゃりと音を立てて肉塊と化した。


 同じく、何かに押しつぶされるように。


「無視しようが、忌避しようが、妹が目を瞑る限りおいらもそうしよう」


 そこに佇むのは最早、幼女ではなかった。


「だが、かすり傷でも付けてみろ。おいらはこの森を星の底の業火まで叩き落とし、世界に魔女という概念が残ると思うな」



 幼女の皮を被った、化け物だ。



 魔女は老い死なないがゆえに、生への執着が著しく乏しい。

 そんな彼女らが、今だけは死に怯えていた。


「妹に手を出すということは、おいらを敵に——」


「姉さん」


 恐ろしい剣幕で告げる姉が、たった一言でハッと我に帰る。

 怯えた顔で、幸せ屋が手を引いていた。


「わたしは大丈夫です」


「でも……」


「大丈夫ですから……ね?」

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魔女は一本の幸せ屋 猟虎戀太郎 @Mofuri_K

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