名のない森 1
その森に名前はない。
何処にあるのかも。
何が住み着いているのかも。
何があったのかも。
それらを知る者はもういない。
□
「人避けの結界が簡単に通り抜けられたと思えば、そんな時期でしたね」
気配もなく突然と、幾つも聳え立つ大樹の影の一つから女性がぬるりと姿を現した。歳は二十歳半ばくらいの、腰まで伸びた銀髪と生気のない紫紺の瞳をした美女だった。
歓迎していない様子の出迎えに、幸せ屋もまた白地な不快を示す。嫌悪、敵意、たとえ記憶を失ったとしても、きっと本能で拒絶するであろうくらいの。
「帰ってくるなら、事前に猫か鴉をよこしなさいと何回言えばいいのですか」
「使役魔法が使えないので」
「なら覚えればいいのです」
「嫌です」
「しかしですね、」
「い・や・で・す」
一音一音はっきりと、子どものように歯茎を見せて幸せ屋は言う。
女は呆れのため息をこぼし、踵を返した。
「時間の無駄のようですね……どうせまた、すぐ出ていくのでしょう。皆の邪魔をしない程度に勝手にしていきなさい」
そう言い残すと大樹の影に潜み、気配は消えていた。
その後、木々の間を木霊するように、女の声が響いて届いた。
「お帰りなさい、我が娘」
どうせ聞こえていないであろう返事を、幸せ屋は忌々しく呟いた。
「ええ、お母様」
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