幸せ屋の知らない幸せの話(短編)
幸せ屋は山岳を歩いていた。
見えるのは一面に広がる岩石の足場と、そこを飄々と動き回る山羊ばかり。
日の出と同時に目覚めた幸せ屋は記憶がなかった。一昨日に探し物の依頼を受けた代わりに無くした荷物を必死になって見つけ出した後から、今朝までの記憶がぽっかりと抜け落ちている。
見覚えのない家屋の天井、外に出れば知らない景色ときた。
しかし、山上にいるとわかれば、人間は本能的に下ろうとするものだ。
斯くして、幸せ屋は下山していた。
「三十九、四十……いえ、あれはさっきの山羊さんですね」
整備されていると言えなくもない、それでも足場の悪い砂利道が続く。
途中、郵便配達人とすれ違い、「幸せ屋さんですか?」と訊かれた。どうしてわかったのか尋ねると、「配達人ですから」と返された。よくわからなかったが、認知が広がっているのは素直に嬉しい。
しばらくすると砂利に土が混じり始め、濃緑の森が見えてきた。
ここを抜ければおそらく、村か街に出られるだろう。
もう一息だと、もう見られなくなる山羊たちを振り返る。すると、とてつもない速さで、それこそ山羊より速く岩場を駆け降りてくる人影が一つ見えた。
村に急用だろうかと、ぶつかっても嫌なので立ち止まっていると、
「幸せ屋さん!」
まさか自分の名前が呼ばれた。
砂道を波乗りの如く滑り、幸せ屋の前でちょうどよく人影は止まる。
そばかす顔の、いかにも山羊使い然とした服装の若い青年だった。記憶がないのだから、当然彼のことも知らない。一方的に見知られているようなので、一応、お客様に対応するときの心に入れ替える。
「出て行くときは言ってくれたらよかったのに。急にいなくなって捜しましたよ……」
彼は目覚めた家の住人なのだろう。泊めてもらった経緯は不明だが。
「ええと、まあ……朝も早いですし?」
なぜ家を出たのか自分でもわからない幸せ屋は、思わず語尾に疑問符がつく。咳払いをして、こう言い直した。
「次の仕事があるので。ご無礼をお許しください」
過度に頭を下げる幸せ屋に、青年はわたわたと手を振った。
無礼なんかじゃないと頭を上げさせ、途端、喉にかかるような声になった。
「ぼくはただ、幸せ屋さんにお礼がしたくて……」
それが、彼が涙ぐんでいるからだった。
青年は伝う涙を拭い、はははと笑って誤魔化そうとする。
いきなり目の前で泣かれても、と幸せ屋は思う。けれどどうしてか、彼のことが他人事のようには思えなかった。
「起きたら、母の記憶が戻ってたんです。ほんの少しの間で、今はもう、またボケちゃったんですけど……ぼくのことを思い出してくれて、話すことができました」
幸せ屋は、ただ黙って彼の言葉を聞いた。
「今までのお礼も、これからのことも、ちゃんと伝えられました」
そのとき、山の上から女性の声が響いた。
おーい、と大きな呼び声。続けて聞こえたホイルとは、彼の名前だろう。
横に一匹の山羊を従えた小さな人影が手を振ってくる。ピンク色のワンピースが風に靡く。風邪がおさまっても、ちょうどお腹の辺りだけは膨らんだままだった。
ホイルが手を振り返すと、女性は幸せ屋に一礼を残して、ゆっくり姿を消した。
「呼び止めてごめんなさい。もう行かないと」
「いえ、お礼のためにわざわざありがとうございます」
「ぼくの方こそ、本当にありがとう。お気をつけて」
大きく手を振って女性の後を追う青年を、幸せ屋は見えなくなるまで見送った。
結局、何があったのか思い出すことはできなかった。
それでも、何があったのかは、わかった気がした。
一本の幸せが、今日も届いたようだ。
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