誰かを不幸にするなんて 8

 例の一件は、偶発的な事故として処理された。

 黙殺された物議の一つや二つあったかもしれないし、なかったかもしれない。

 ただ、少なくとも、少女とトラッドたちの与り知るところではなかった。



 会社で数日を過ごし、少女の足の怪我もすっかり完治した。


 ブーツの踵を軽快に鳴らして応接室に向かうと、中で秘書が少女の分の朝食を並べているところだった。トラッドは先に来ていて、朝食を口に運びつつも、机に散らばった紙を見るとだいぶ忙しいようだ。


 ご飯を食べて、その後は会社の人たちと話をして、少し仕事を手伝う。午後からは街を見て回って、疲れと満足感をいっぱいに抱いてここに帰ってくるのだ。


 昨日までは、そうしていた。


 朝食に手をつけてしまうと、そんな日常を続けてしまいそうだった。


 だから、ナイフを置いた。


「……あの、トラッド様」


「ん? どうしたんだい」


 トラッドは優しい目をしていた。

 少女が何か頼み事をしてくれるのではないかと、嬉しそうに。


 彼が誰かの力になれることを心から嬉しく思える大人なのだと、十分に知った。

 喉の奥がぎゅっと潰されたみたいに、少女は苦しくなった。


「今日まで泊めていただいて、ありがとうございました」


 少女が頭を下げたのは、心からの感謝と、顔を真っ直ぐ見れなかったから。

 怯えながら少しずつ上げていく視界に見えたのは、優しくて、


「そっか」


 それでも、やっぱり、寂しそうな表情だった。


「すぐに行くのかい」


「荷物はまとめたので、朝食を終えたら駅に向かおうと思ってます」


「随分と早いな。みんな、別れを言いたいだろうに」


「できればわたしもそうしたかったです。けど、もう決めたことなので」


 トラッドの小さな頷きがもう一度応えて、しんと応接室が静まり返る。


 初めて会ったときと同じで、けれど空気が湿り気を帯びた静寂。

 渇いた他人行儀ではない、心の内を知り合っているからこその気不味さ。


「……本当に、いいのかい」


 だからこそ、トラッドは訊かずにはいられなかった。


「君の選択を尊重してあげたい。けど、それと同じ以上に心配なんだ。ここで送り出したら、また同じ目に遭うかもしれない。あれだけ憔悴し切った君を見たからこそ……心配、なんだ」


 装う平静から、隠しきれない必死さが滲むトラッドの言葉に、少女は頷いた。


「君はまだ若い。人生の選択肢はいくらでも探せる。何か見つかるまでここにいてくれてもいいんだ。そうしたらみんな……僕だって、嬉しい」


「ありがとうございます」


 その返答がどちらを意味するのかは、訊かずとも知れた。


「いつか、今日のこの選択を後悔する日が来ると思います。意地なんか張らずに、ぬるま湯でも浸かっていれば平穏な生活ができただろうに、って」


 もしかしたら、いやきっと、今日以上の絶望が訪れる。


「けど、それを選んだら、立ち止まったことを一生後悔しそうなので」


 後悔し続けるよりは、いつか然るべき時に後悔すればいい。


「だから、行きます」


 静かに、強く、少女は決意した。


「そっか」


 そこに、寂しげな表情はもうなかった。




 四半時も経っていないというのに、少女が出て行こうとしている裏口には、何処からか漏れ出した噂を聞き付けて大勢の社員が集まろうとした。途中までは丁寧に一人一人別れを告げていた少女だったが、列車の時間も近づき、多くの名残惜しさを置いてトラッドが走らせる車で駅に向かった。


 トラッドと秘書、ザダグに付き添われてホームに向かう。

 列車の車窓から顔を覗かせる少女に、そういえば、とトラッドは切り出した。


「ガレージにいた彼、うちで働くことになったんだ」


「ご無事だったんですか?」


「煙で軽く喉を火傷していたのと、切り傷が少しあったくらい。今はもうピンピンしてるよ」


「そうですか……」


 少女はほっと胸を撫で下ろした。


「一人で部品加工から作ろうとしていただけあって、自動車に対する知識も技術もだいぶあるみたいなんだ。今は工場のほうで働いているけど、いつか開発を手伝ってもらおうと考えてる」


 それから、躊躇いを振り払うように息を吸って、トラッドは続けた。


「嫌な想像かもしれないけど、もし今回の件がなくてあのままガレージにいたら、彼の才能は潰れていたかもしれない……君が彼の未来を救ったんだ」


 不幸中の幸いで、結果論で、未来なんて御大層かもしれないけれど。

 君が救った人もいることをどうか忘れないで、と。


「なぜ別れ際にまでその話をするのですか。彼女も思い出したくないでしょうに」


 秘書のぼそりとした呟きに、トラッドは頬を引き攣らせた。


「いやだって、感謝すべきは僕じゃなくて彼女なんだから、言われた礼は伝えないと……」


「無駄なことは言わずに、前を向いた姿で送り出すのが大人というものでしょう」


「だって……」


 子どもよろしく悄気るトラッドに、少女と秘書は顔を合わせて笑った。


「そうです、やらかしたとはいえ結果オーライだったんですから、わたしだけずっと落ち込んでるなんて時間がもったいないですよね」


 途端に自身を鼓舞し始めた少女には、さすがのトラッドも困惑していた。


 恥ずかしそうに、それでいて宣言するように。

 わたしはちゃんと前を向けていると、窓から彼らを見下ろした。


 三人の安心した表情が見える。

 やがて、汽笛が鳴った。先頭車両が大きく音を鳴らす。


「最後に、君にこれを渡したかったんだ」


 閉めようとした窓の隙間から、トラッドが大きな紙包みを差し入れてくる。

 頷きに促され、少女は十字に掛けられた紙紐を解いた。


「これ……」


 中に包まれていたのは、フードの付いたマントケープだった。

 どこかで諦めたような、見覚えのあるそれ。


「お別れにプレゼントを、っていうのじゃ、きっと受け取ってくれなそうだから」


 その通りだった。

 報酬金を勢みに勢んでもらって、その上で高価な服だなんて。

 だから、頬を掻いて、トラッドは言った。


「ちょっとした古参アピール、ってやつかな」


「古参、アピール……?」


「君はいつか人気者になる。そんな予感がするんだ。幸せ屋は、国中に知られる存在になる。だから、いつかそんな日が来たとき、彼女が着ているケープは昔に僕がプレゼントしたんだって自慢したいんだ」


 少女は、はあ、と曖昧な返事を返すばかりだった。


「君を好きなファンの一人として、受け取ってほしい、かな」


 舞台女優に花束が贈られるように。

 作家に読者からの手紙が届くように。

 幸せ屋にも、届くものがある。


「ありがとうございます。大事に、しますね」


「ああ」


 車掌の笛が鳴った。

 ゴウンゴウンと音を立てて列車が進み出す。


 幸せ屋は、皆が見えなくなるそのときまで手を振り続けた。

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