2-2. 砕けたカップ(ハダルク視点)
空
初めてその姿を見たときには、まだ他人の
♢♦♢
自分は欲が深い男なのだろうなと、ハダルク・コフィンは考えることがある。悪いことではないはずだ。騎手団では同輩たちより早く出世しているし、女性たちからの誘いは引きもきらない。婚資は貴重な収入源だし、高貴な女性を屈服させるのは楽しい。自分はそれに見合う努力をしてきたのだ、見返りを受け取る価値があるはずだ。
この日はグウィナが上になった。最初の夜はずいぶんとまどって、声を漏らさないように堪えていたが、じきに慣れたようだ。
「もっと腰を使わないと、あなたは
くびれをつかんで中にぐっと押しいれると、ひときわ高い嬌声が聞こえた。氷色の目が熱にうるんでいるのを見るといじめてやりたくなる。
「もっと優しく抱いてほしいですか?」
問いかけると、荒い息の下から抗議が返ってきた。
「剣の意趣返しのつもり? ずいぶん子どもっぽい負けず嫌いなのね」
「あなたもおなじくせに」
ハダルクは笑った。「今度はこっちでも、俺を負かそうとしている」
グウィナも笑って身を起こした。汗にまみれた白い身体ははつらつとして、美しい。柔らかく弾力があって、でもバネのような筋肉もそなえている。
最初の夜、グウィナは夫への負い目からかくよくよと思い悩んでいた風だった。その葛藤をハダルクは冷たく観察していた――彼自身がもう感じることのなくなった罪の意識を、彼女はこれまで知らずにこれたのだ。それは、恵まれた高貴な女性の特権ではないだろうか?
自分にはないものを持っている者は、ねたましい。それがハダルクの、野心のはじまりだったかもしれない。最初は、そう、自分だけ持つことができなかった古竜の子どもで……。
気を散らしていたところを急に動かれて、思わぬ快感にハダルクはうめいた。包みこまれるような、絞られるような感覚は背筋が粟立つほど気持ちいい。
「あなたのことがわかってきたようだわ」
「この程度で、俺を暴いた気になるつもりですか?」
彼女はこの行為を、剣の稽古のようなものと割り切ることにしたようだ。必要以上にうちとけることはないが、こちらに任せきりではなく、新しいことをどん欲に試そうとしてくる。その距離感がハダルクには心地よかった。この熱からそれ以上のものが生まれるとは、この時はまだ考えていなかった。
♢♦♢
事が済むと、ハダルクは屋敷を出て帰宅の途に就いた。従僕からは竜車を用意すると言われたが断り、歩いて帰っているところ。
(車の音は、サーレンを起こしてしまうからな)
城下の、中級貴族むけの小さなタウンハウスが、ハダルクとその妻が暮らす場所だった。
出迎えた妻は「おかえりなさい」とほほえんだ。
「サーレン。眠っていなかったのか」
竜騎手になったとき、ハダルクは上流階級の妻を迎えるつもりでいた。大貴族の娘に取り入って、出世の道筋をつけてもらうつもりだった。だが、ある年に実家に帰省したとき、そこに療養に来ていた親戚の娘と出会ってしまった……。彼は
「お食事はすんだ?」
「ああ、すまない」
「じゃあ、お茶だけでも
「ありがとう。もらうよ」
妻はなじみの茶器を出し、茶の準備をはじめた。身体が弱くて家事ができなかった頃から、これだけは自分がやるとゆずらなかったものだ。
ハダルクは居間の定位置にある椅子に腰を落ちつけ、家の中を見わたした。自分が不在のあいだになにか変化は起こっていないか、注意ぶかく確認する。狭いが清潔にととのえられた家はいつもどおりに見える。飾り棚には贈り物が増えた。すべて、相手の女性たちからの慰労の品だ。
茶を運んできた妻は、真新しい品を指さした。
「今日もすてきな贈り物が届いたわ。きれいな絹のハンカチ」
ハダルクは妻から
「でも、わたしのものばっかりね。たまには子どもたちのものも来るといいな」
サーレンはハンカチを手にして、暖炉の前の人形を抱きかかえた。人形用の小さな椅子と、その上に子どもの人形がふたつ。洋服を着せるようにハンカチを当て、くるりと巻きつける。
「アンには祝日用のワンピースを買ってあげたいわ。デインの靴も、すっかりきつくなってしまったの」
ハダルクは椅子から立ち上がり、妻の手からそっと人形をはずした。「俺が買ってくるよ」
「ほんとう?」
「ああ。なにも心配いらない」
「嬉しいわ」
ハダルクは正面から妻を抱きしめた。華奢な背に手をはわせ、骨ではなく肉を感じられるとほっとする。だが、サーレンは落ちつかないそぶりで身じろぎをした。
「ハーディ、あなた、女の人のにおいがする」
その低い声に、ハダルクは身動きをとめる。
妻のなかで、なにかが急に切り替わったのがわかった。山の天気のような、あっという間の変化だった。
がしゃんと音をたて、カップが割れたのが聞こえた。彼の手をふり払った妻の身体が、テーブルにぶつかったのだろう。彼女は金切り声で叫んだ。
「どうして!! どうしてなの?!」
「落ち着いて。破片を踏んでしまうよ」
ハダルクはもはや驚くことも動転することもなく、つとめて穏やかに声をかけた。サーレンの変貌は、もう何度も経験していたからだ。
「うちにはちゃんと子どもがいる。あなたは繁殖の務めになんか出る必要ないのよ!!」
「カップを片付けるから、じっとして」
「子どもはいる!! ちゃんといるのよ!! あああああ!!」
「わかっている、サーレン、すまない」
だが、妻の
〔レクサ。おまえも心配はいらないよ〕
竜を落ち着かせながら、自分もまた、竜の気配に助けられている、と思う。レクサがいなければ、自分はこの生活に耐えられるまい。だが……
だが、そもそもレクサがいなければ、妻は心を病むこともなかったかもしれない。そのことを、ハダルクはあえて考えないようにしなければならなかった。自分の野心と、それが生んだ結果のことを。
自分の竜を持ち、出世したいという野心は、妻の後ろ盾で叶えることはできなかった。だから彼は自分の力で階段を上らねばならなかった――それは、体が弱く子をなせない彼女のためでもあるはずだった。
彼が繁殖のパートナーとして出ていくようになると、相手の女性からは婚資とともにたっぷりと贈り物が届けられる。たとえ子どもがいなくても、社交の場に堂々と出られるようになる。夫であるハダルクが繁殖の義務を果たしているあいだ、寛大に待つ妻として
サーレンの家は豊かになったし、高価な薬も栄養剤も惜しみなく使わせることができた。そのおかげで、妻の持病はしだいに快復してきた。痩せこけた手足もふっくらしてきて、笑顔も見られるようになってきていた。すべてがうまくいっていたはずだったのに。
どこかで止めるべきだったのだろうか、とハダルクは毎日考える。竜を手に入れ、妻が快復できるだけの金を稼ぎ、なおかつ、彼女の心が病まないだけの時間で。だが、それはどこなんだ? 何人目の女のところで?
そしてもう、今となっては、ハダルクにとってさえこの別離は必要だった。妻の空想の世界のなかでだけ生きていくには、彼は外の世を知りすぎていたからだ。彼には妻以外のものも必要だった。力強い竜も、同輩たちとの競争も、竜騎手としての
ハダルクは妻が落ち着くまで背をなでて話しかけ続けた。新しいカップを出し、そこに安定剤と湯をそそいで彼女に飲ませ、寝室に抱いて運んでいった。
居間に戻ると割れたカップのかけらを拾いあげ、それを窓の外に捨てた。
『わたしはこのティーセットだけを持っていくわ、住む場所はどこでもいいの、あなたがいてくれればいいの』
あのころの妻の言葉を思い出し、ハダルクは目の端ににじんだ涙をこすった。
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