第二話 熱のゆくすえ

2-1. 今度は、俺のレッスンですね

 自宅の客用室は、指示どおりに清潔に整えてあった。ひさしぶりに入室したグウィナは、きょろきょろと中を見わたし、なんとか気持ちを落ち着けようとした。準備はこれでいいのかしら。……あちらの奥さまへの見舞いの品は手配したし、ゲーリーにも時間を伝えてある。手抜かりはなかった。


 暖炉の上には、もう一人の甥がおみやげにとくれた貝殻が集めて置いてある。そういえば、夫婦の寝室に置くのをゲーリーが嫌がったので、ここに置いていたのだった。手持ちぶさたに貝を撫でてみる――今夜は、夫以外の男性と過ごす初めての夜になる。本当に、後悔しないといえるのかしら。


「奥様。ハダルク卿がお見えです」

 侍女に告げられ、グウィナは大きく息をついた。「……お通しして」


 案内されてはいってきたハダルクは、ふだんのままの格好だった。髪は軽く結い、長衣ルクヴァの前も留めてはあったが。

「ご主人にご挨拶は?」

 と尋ねられ、グウィナは首を振った。「ゲーリーは、他人と会うのは好きじゃないの。よろしく伝えてくれと言われているわ」

 ハダルクは細く整った眉を片方、器用にあげてみせた。「さようで」


 それから侍女が夕食を運んできて、備えつけの小さなダイニングテーブルに向かい合う形になった。この食事は、「一夜の夫婦」を意味する形式的なものだ。だから無理に食べる必要はないのだが、彼はさっさと食べはじめた。

 この家の料理人は実家から連れてきていて、出すものも東部風だ。しっかりとマリネされた羊肉のグリル、レモンソースの魚、鶏肉とスパイスで炊いた米……。

 青年は緊張した様子もなく、目の前の料理を優雅に平らげていく。その食べっぷりは、甥たちを思わせてグウィナには不思議と好ましく映った。


 ハダルクは「立派な牡蛎カキだな」とひとり言のようにつぶやき、ナイフで開けたものをグウィナの皿に置いた。

「どうぞ」

「……本当に、慣れているのね」

 牡蛎を一気にすすってから、グウィナはそう言った。

「うぶな男のほうがお好みで?」

 牡蛎とナイフを持ったまま、男が尋ねる。

「……別に、そういうわけでは」

 歯切れの悪いグウィナの答えを予想していたかのように、にやりと笑って牡蛎を開け、口を大きくあけて流しこんだ。ちろりと赤い舌を出し、「この家の料理人は、俺のに期待してくれているみたいですね」と言った。

 グウィナはしばらく、ナイフをあつかう彼の指や、咀嚼で動く口もとに気を取られていたが、はっと気づいてようやく食事を口に運んだ。


「さて」

 食べ終わったハダルクは、ナプキンで口をぬぐった。そして椅子に腰かけたまま腕をさし伸ばした。「はじめましょうか」


 ♢♦♢


 この男に関するうわさがすべて真実とは限らないだろうが、すくなくとも手馴れているということについては認めなければいけなかった。

 ハダルクはまず、椅子に座った自分の膝にグウィナをかけさせた。手の甲をさすり、背中をなでて彼女の反応を確かめ、自分の感触に慣れさせているようだった。まるで飛竜を馴れさせる飼育人のように……。観察されているのがわかったグウィナは頬が熱くなるのを感じた。

 手を置いている彼の肩の、長衣ルクヴァのごわついた手触り。制服の匂いにまじって彼自身の匂いがする。香油で手入れした肌が、温められて立ちのぼる男の匂い。

 自分の使ったナプキンでグウィナの口をぬぐい、その流れのまま口づける。さぐるように唇が食まれ、だが深追いすることなく、首筋を確かめていく。抵抗したくはないが、体によけいな力が入ってしまい、手をかけていた椅子の背がきしんだ。


「『力が入りすぎている……もっと力を抜いて』」

 ハダルクは思いだしたようにそう言い、胸もとに唇をつけたまま笑った。「今度は、俺のレッスンですね」

 グウィナには、笑っている余裕はなかった。

 椅子の上から、男の銀髪ごしに窓のほうを見る。そこからは屋敷の東翼が見え、ちょうど温室に灯りがともったところだった。

 グウィナは言葉にならなかった。こうやって求められるのが夫だったら、なにひとつ悩むこともなかったのに。……だが、ゲーリーはこんなふうに彼女に触れたりはしない。そもそも、寝台ベッドの上以外で肌に触れられたことすら、ないかもしれない。

 そう思うと、さらに落ち着かない気分になってきた。

寝台ベッドへは……」

「慣れてきたらね」

 ハダルクはなんでもないことのように答えた。「好きでもない男にベッドでのしかかられるのは、けっこう怖いものですよ」


 怖い? ――そうだろうか、とグウィナは思った。もうずいぶん長いこと、怖いなどと感じた記憶がない。自分はずっと竜騎手で、一族の長であり、弱い者の庇護者だった。

 怖いと思った記憶はない。だが、むなしいと思うことはある。あったはずだ。自分がそれを、意識しないようにしていただけで。

 そうだ。グウィナは自分の感情にようやく気がついた。何百もの穏やかな夜に感じていたのは、むなしさと恥ずかしさだった。自分は愛される価値がないのだという幾百回もの確認だった。


 指を差し入れた銀髪は冷たそうに見えるのに、頭皮のぬくもりは熱いほどだ。肌に触れる指も舌も熱くて、その奥にはたしかに、おそれに近い感覚がある。この先になにがあるのか知っているはずなのに、まるで知らなかったころとおなじくらい、あらゆる感覚が彼の与えるものに反応していた。

「たしかめてみたくなったわ、自分が怖いと感じるかどうか」

 

「よろしい」ハダルクはドレスの腰をぐっと抱えてささやいた。「では、ベッドへ」


 ♢♦♢


 ♢♦♢


 ……翌日。

「また、団員が落ちたですって?」

 騎竜訓練を部下にまかせて書類をさばいていたグウィナは、その報告に驚いた。「今月に入って、もう四度目じゃないの」


「若いもんは竜にも満足に乗れんのかと叱りつけてきましたが、どうも気になりますな」

 報告者のアラスター副長が、あごひげをしごきながら首をひねった。「剣術訓練でもふらついていた者がいたようだ」


 ちょうど折よく扉が開いて、「失礼します」と入ってきたのはハダルクだった。ちらりと目が合うが、グウィナはあわててそらした。

「おお、ハダルク卿。調査のほうはどうだった?」と、アラスターが尋ねる。


「騎竜用の道具は、すべて確認しました」

 と、ハダルクが答えた。「とくに作為のあとは見られませんでした」


「〈グリッド〉のほうはどう?」

 グウィナが尋ねたのは、竜のテリトリーをライダーが感知することができる能力のこと。騎手団の一番竜アルファメイルはハダルクの竜なので、そう尋ねた。

「とくに不審な信号は感知しませんでしたが、今は繁殖期ですからね。飼い主であるライダーたちが王都に集まっているので、竜たちの数も増える」


「診察したドリューの見解はどうかしら?」

「ドレイモア卿のお話では、健康状態に特別、変わった点はなかったようです」と、ハダルクがまた答える。

「団員はなにか言っていた?」

「『団長の訓練がきついせいだ』と言う者もいましたね」

「そう……」

 グウィナはため息をついた。「総合すると、団員たちの不調は、わたくしの訓練が原因という説がいちばん有力なようね」


 アラスターとハダルクが顔を見合わせるのが、椅子に座るグウィナの位置からでもわかった。

「しかし、たしかに軟弱な話ではある」

 アラスターが珍しくグウィナに同調するようなことを言った。「繁殖、繁殖と団員たちを甘やかしてきたツケかもしれませんな」

「もう少し日課を減らすべきなのかしら……」

 グウィナは弱気になった。「だけれど、エリサ殿下はわたくし以上に厳しいおかたよ。このままでは、殿下が戻っていらっしゃったときになんと言われるかしら」


 三人はおなじ一人の女性を思い描き、黙りこんだ。


「基礎訓練でを上げる団員がいるのは事実ですが、今回事故を起こしたのは頑健な団員です。どうも気にかかるので、もう少し調べてみてもよろしいでしょうか」

 ハダルクがそう言うので、グウィナはほっとしてうなずいた。「ぜひお願い」


「それとですな、下等竜の討伐依頼が来ておりますが、どうしましょうか?」

 アラスターがうかがいをたてた。「本来なら、若手の団員のちょうどいい実地訓練になると思っておったんだが」


「そんな時期ね。……出先でふらついていては、団の評判にもかかわります。残念だけど、わたくしが行くしかないわね」





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