3-4. あなたが失ったのなら、俺も

「気がつきましたか?」


 目をあけると、気づかわしげに見下ろしてくる緑の目とぶつかった。

「ここは……」

 一瞬、自宅の部屋かと思ったのは、勤務用ではないゆったりした衣服のせいだろう。あたりを見まわしたグウィナは、すぐにそこがドリューの部屋だということを思いだした。こぽこぽというなじみのある音は、彼女が薬を煎じているときの音だった。

「わたくしは、たしか、この部屋で倒れて……」

「そのまま、ここで治療を受けたのですよ」

 ハダルクが説明してくれた。「お疲れになったのでしょう。いろいろなことがありましたから」


 腹部の痛みはなくなっていた。寝て起きて体調が快復するのなら、たしかに過労なのかもしれない。だが、グウィナはどこかに引っかかりを感じていた。あのとき、アラスターの手が落とされたときとおなじ匂いがした。なまぐさい血のにおい。

 ハダルクは――どこか妙な感じに見えた。丸椅子を寝台の近くに寄せ、ずいぶん彼女に近づいている。汗で貼りついていた彼女の前髪をそっと払う。愛情といたわりのこもった手つきだった。

 


「私がつきそうと言ったのに、追い払われたんだ。きみの副官は横暴だよ」

 部屋の奥からドリューの声が聞こえた。姿は見えないが、薬を調合しているのだろう音がする。かちゃかちゃした銀の薬匙や、湯をそそぎいれる音……。


「どちらが着替えさせるかでもめて、決闘ざたになりかけてたのよ。ばからしいったら」

 部屋の中央にある一人掛けのソファから、イブが言った。「もちろん、私がやったわよ。私はあなたにやましい気持ちを抱いていませんからね、そこの二人と違って」

「人聞きの悪い言い方をするな」ドリューの声はとげとげしかった。「私はそこの男みたいな卑劣漢じゃない」

「そして、俺はそういう気持ちを抱いてもいい立場ですよ。あなたと違って」

 ハダルクが背後を向き、皮肉げな口調で返した。


「無意味なマウンティングだわね」

 イブがソファを立ち、寝台のほうへ歩いてきた。「さて、あなたも目が覚めたことだし。私は予定どおり、エリサ殿下のところに行ってくるわ。たまにはあなた以外が、他人の尻ぬぐいにまわったっていいでしょう」

「ごめんなさい、イブ。出発するはずだったのに……それに、わたくしのせいで、ドリューにあんなことを……」

「同性の親友に愛情を向けられることがショックなのはわかるけど、落ちこみすぎるのも違うと思うわよ」

 イブが言った。「男性の幼なじみ、たとえばそうね、ジェーニイだったら、あなたもそんなに気に病まないでしょ?」

「そうかしら……?」

 グウィナは幼なじみのことを想像し、イブの言うとおりかもしれないと思った。愛の告白を断らなければならなかった経験が、これまでにゼロだったというわけでもない。自分はくよくよと考えすぎなのだろうか?

「でも、わたくしが鈍感なせいで、ドリューを苦しめてきたのかと思ったら……ほかの誰かに対してもそうだったのかと……」

 グウィナの頭に、愛する人びとの姿が浮かんだ。竜騎手にはけっしてなれない、かわいい甥。子どもを要求されるばかりの夫。自分に思いを寄せていた親友。そして、繁殖の義務に罪悪感を抱いている男……。


「あなたはだれかの感情の責任を取る必要なんかない」

 隣に陣取ったままのハダルクがそう擁護した。「愛情ぶかいところはあなたの美点でしょうが、だれもかれもをあなたの雛みたいに庇護したがるのは欠点ですよ」

「ハダルク……」


「自分ひとりが理解者みたいなツラしやがって。私はおまえみたいな男が一番きらいなんだ」

 心底イヤそうな顔をして、ドリューがやってきた。薬の載ったトレイを手に持っている。

「ねちっこくて独善的で、男のイヤな部分を煮詰めたような若造だ。結婚したら妻のつきあいにあれこれ口を出す男だぞ。私にはわかる」

「すばらしい男性観をお持ちですね、ドレイモア卿。理想は立って歩く生木みたいな男ですか?」

「材木くらい静かな男がいいね。私の前では口を閉じていろ、貧乏貴族が。……おっと、悪かったね、グウィナ」

 おろおろしているグウィナを見てドリューはころっと表情を変え、薬包につつまれた粉薬を取り出した。「さ、口をあけて」

 グウィナが言われたとおりに口をあけると、粉薬が舌にのせられた。ついで、ハダルクが水さしを差し出して彼女に飲みくださせる。ドリューは死んだ虫を見るような目でハダルクを見た。


 おだやかな薬草香が口のなかにひろがった。湯の温かさとその風味が、胃のなかに入っていくのを感じる。グウィナは無意識に腹部に手をあててさすった。

 温かさとともに、考えないようにと閉じていた心のフタが、しだいに開いてきた。

「うっすらとしか覚えていないけど……あのとき、血が出ていて……」

「そうだね。いくつか、確認したいことがある」

 ドリューはすでに、友人ではなく医師の顔つきになっていた。棚から帳面を取り出し、なにごとかをつぶやくと青い光とともにページが開錠された。そこには、団員たちの健康事情が記されているようだ。

 いくつかの定型的な質問のあとで、ドリューは「大きな問題はないだろう」と結論づけた。帳面にも文言を書きつけ、またまじないとともにページが閉じられた。

「経過は兄に引き継いでおくから、念のためまたせにくるんだよ。とくに、繁殖期シーズン中はね」

 ドリューはそこで診察を終わったつもりのようだったが、グウィナは開いたフタをそのままにしておくことができなかった。その奥になにがあるのか、疑念のもやの先を見なければという焦りに駆られる。

「思ったのだけど……」

 聞くのも内心では怖かったのだが、おそるおそる尋ねた。「もしかして、わたくしは……妊娠していたのではないかと」


 ハダルクがはっと息をのんだのがわかった。

 彼女の問いに、ドリューは医師の顔のままうなずいた。「可能性はある」

「そんな……では、あの流血は……」

「最初の妊娠ではとてもよく起こることだし、気づかない人も多いんだ。単なる月経不順や、体調不良の可能性もある。確かめようがないんだよ」

 周囲から閉ざされてしまったような、奇妙な感覚がした。優しく言い聞かせてくれているだろうドリューの声さえ、水の壁で隔てられたかのように遠く感じられた。

「そう……そうね……」

 なんとか自分を取り戻そうと、グウィナはシーツを強く握りこんだ。緊張にこわばる顔を笑顔の形にし、平静をよそおいながら続ける。

「わたくしは本当にまわりが見えていなかったわね。情けないわ……。夫の気持ちも聞かず、姉に流されて繁殖のことを進めて。ハダルクも機会を作ってくれたのに、無駄にしてしまって、そのあげく、こうやってあなたたちに心配をかけて」

「グウィナ……」

「そのくせ、あんなふうに鍛錬ばかりして身体に負担をかけていたのだもの。こんなふうになっても、自業自得だわ。わたくしには夫も、かわいい甥もいるのに、子どもが欲しいからと焦って……みっともない……」

 こんなふうに言えばよけいに心配をかけているのはわかったが、話をやめることができない。今のグウィナは、ひとつのことしか考えられなかった。

「あなたの責任じゃない!」

 ハダルクが強く言いきった。見たこともないほどの、怒りさえ感じさせる激しい口調だった。

「子どもを願ってなにが悪いんだ。浮薄な関係を嫌ったあなたが、それでもと望みをかけて俺を呼んだんでしょう。なぜ自分を恥じたり、さげすんだりする必要があるんです?!」

 熱く乾いた手が彼女の手首をつかんだ。ぎらぎらした緑の目も、手とおなじくらい熱をもっていた。


「あなたが失ったのなら、俺もおなじものを失っているはずだ。……いま泣いてください。夫がいる場所ではなく、俺がいる今、ここで」

 それは温かくもなければ優しくもない、熱量だけの激しい言葉だった。だがその言葉で、ついに限界がきた。

 最初の涙がほほをつたうのを感じる。嗚咽がもれて、もうとどめることはできなかった。

「赤ちゃんに会えたかもしれないって、お、思ってしまって……。自分の腕に抱けたかもって……思ったら……!!」

 どうしようもないことだとはわかっていたが、それでも、口に出さずにはいられなかった。そんなにも自分が切望していたのだということさえ、失ったこのときになってはじめてわかったのだった。


 ハダルクが自分の胸に彼女を抱き寄せ、厚い毛織ウールの生地に涙が濃いしみを作った。それでも止められず、グウィナはせきを切ったように泣き続けた。

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