1-3. 温室のなかの夫
午後の勤務が終わるころ、副官ハダルクが戻ってきた。訓練のあとで身支度を整えたとみえ、髪は簡単に結わえて
グウィナは多少気まずさをおぼえながら、自分も夜会に出席することを告げた。「なにかあれば、〈呼ばい〉で報告してちょうだい」
「承知しました」
ハダルクは書類をそろえて彼女の机に置いた。重要なものから順に整理してあり、判を押すだけのものは別によけてある。……こんなふうに有能な副官ぶりを見せることもできるのに、なぜ悪ぶってみせるのか、グウィナにはわからない。彼女は昼間のセリフが気になっていた。自分がこの部下と理解しあうのは難しいのだろうか。
「あの……あなたは、夜会に行かなくてかまわないの?」
グウィナが尋ねると、ハダルクは片方の眉をあげてみせた。
「別に。おかげさまで、お得意さまがついていますので」
「例の姉妹ね」
「いけませんか? 二人いれば、婚資は二倍になる。……私の家には金が必要なんですよ。閣下がたとは違うんです」
ハダルクは
「『繁殖は竜騎手の義務』と誇りをもってやっていることなら、わたくしに反発する必要はないでしょう。堂々と、竜騎手らしく勤めに出ればいいだけよ。本当に、自分の意志でやっていることなの? お金というのは――」
だが、続くはずの言葉は「ダンッ」という固い音で破られた。ハダルクがオークの一枚机にこぶしを落としたのだ。
「あなたに関係がありますか?」
危険なほど顔を近づけ、ハダルクは冷たくささやいた。上官を脅そうというつもりなら――もちろん、そんなものは通用しないと怒鳴りつけるべきだろう。だが、触れられたくない話題にむやみに触れたのだとしたら、非はこちらにあった。
「……わかったわ。この話はやめましょう」
グウィナは軽く両手をあげて話を止めた。譲歩のつもりだったが、ハダルクのほうは、話をやめるつもりはないようだった。机に両手をつき、威嚇するような笑みを浮かべてこう言った。
「俺の不品行をとがめるくらいだから、あなたはさぞ身ぎれいでいらっしゃるんでしょうね? 夜会には、あなたもお相手を選びに行かれるのでは?」
「そういうわけでは……」グウィナはなんとなく後ろめたくなり、言葉をにごした。「繁殖期のパートナーは探していないわ。今は団のことで精いっぱいよ」
「別に、ごまかすようなことじゃない」
ハダルクの声には悪意の棘があった。「あなたのような立場なら、男は選び放題でしょう。俺みたいに、婚資めあてに女性に
副官が立ち去ったあとも、グウィナはしばらく机についたまま考えこんでいた。この美貌の副官と自分はたしかに、理解するには立場が違いすぎるのだろう。
だがこの男の言葉が胸に刺さったのは、グウィナ自身、自分のことを好きになれずにいるせいかもしれなかった。
♢♦♢
夕方。夜会のしたくのため、グウィナは王都の東にある自宅へと戻った。エクハリトス家の所有だった別邸を結婚祝いとして受領したもので、宝石のような湖を抱く美しい館だ。家格を考えればこぢんまりとしているが、夫は使用人を増やすのを嫌がるし……。
夫ゲーリーのお気に入りは、イティージエンから取り寄せたガラスを使った豪奢な温室だった。だいたいいつもここにいるので、夫を探す手間がはぶけるのは良い点だろうか。
もっとも、この温室が夫婦の時間を奪っているとも言えるのだが。
「あなた」
扉を押してなかに入った。手前は居心地のよいサンルームで、ふつうの応接室のように二人掛けの椅子や小卓が置かれている。そこからさらに数室にわかれていて、奥に行くほど温度も湿度も高くなっていた。
どうやら最奥まで行かなければいけないようだ。……王都とは思えない、じっとりと汗ばみそうなほどの熱気がグウィナをつつんだ。オンブリアの植生とは違う、あおあおと巨大な植物たち。肉厚な葉に、極彩色の花。これほどの温室は、エンガス卿の館にすらないという。惜しみない財の出所は、グウィナの実家なわけだが……。
「あっ、気をつけて」
夫の声に、グウィナは思わず身をこわばらせる。「きみの足もと。シダを踏んでいるよ」
「まあ、ごめんなさい」
慌てて足をどけた。声の主は大きな葉の陰で、手袋をはめてなにやら作業をしているところだった。
ダークブロンドの髪を邪魔にならないよう軽く結わえ、部屋着の上にガウンを羽織っている。夫ゲーリーは美しく、優しい男だった。おのずからバラを摘んできてくれた彼を、娘時代のグウィナは妖精の王子さまのようだと思ったものだ。その幻影はいまも消えておらず、あいかわらず夫は妖精のままだった。美しく、優しく……この温室の外で起きていることになにひとつ関心を持たず。
ゲーリーはシダについて嬉々として説明した。
「植え替えたばかりでまだ弱いんだ。本来はイティージエンのさらに南に生えるそうだよ。とても柔らかくて、レースのようで。美しいだろう?」
「そうね」
東部そだちのグウィナには、ここにある植物はどれも緑の宝石のように見える。だが、彼女は本物のレース編みを恋しく思った。乳児の首まわりにつけてやる小さなケープ。指先ほどの靴下やミトン……。最初に編んでやったのは姉の子たちだった。それからは親族や友人の子どもたちに。甥たちがすでに成人してもなお、グウィナは編み物を贈るのをやめられずにいる。自分の子どもに編んでやれる見とおしもないまま。
旧友が王都に戻ってきているので、夜会に行って顔を見てきてもよいか、とグウィナは尋ねた。
「イベロニア卿か。懐かしいね。昔は君とドリューと、よく三人でいるのを見かけたものだ」
夫は手もとから顔をあげずにそう言った。「よろしく伝えておいてくれ。次はぜひ、うちにも来るようにと」
ぱちん。なにかを切ったのだろうか、鋏の音がした。
「あなたはいらっしゃらないの?」
答えはなかばわかっていたが、グウィナはいちおう尋ねた。
ぱちん、ぱちん。また、なにかが切り落とされたらしい。
「注文した苗が夕方に届くことになっているんだよ。自分の目で状態を確認したいんだ。新しい業者に変なものをつかまされたくないからね」
「そう……じゃ、わたくしだけで行ってくるわね。あまり遅くならないようにするわ」
ことり。鋏を置いた音がした。
「楽しんでおいで」
ゲーリーはようやくこちらを向いて、腰をあげた。汚れた手袋をとり、額にキスをしてくれた。
触れるだけの唇を額に感じながら、グウィナはまぶたをぎゅっと閉じた。スカートのすそを少女のように握りこむ。剣をふるうことにはなんのためらいもないのに、夫に話を切りだすだけでこれほど緊張していることを、彼女は恥ずかしく思った。
「あの……待っていてくださるなら、ふたりの寝室で夜のワインをご一緒できると思うわ。あなたの好きな西部産の……」
それはぎこちないながら、彼女には精いっぱいの誘いだった。夫にプレッシャーを与えないように、ひどく遠まわしではあったが、床をともにしたいという彼女の願いだった。
だが、夫の返事はグウィナを打ちのめした。
「いや……、苗が定着するまでは、こちらで寝起きするつもりだよ」
それは、ずっと放置されている夫婦のいとなみが、当面のあいだそのままであるという夫の宣言もおなじだった。
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