第14話 夜の王都、何としてでも逃げてやる ②

 夜の王都を、リィンは今まで見たことがなかった。

 

 生まれは王都のウィルコール男爵家で、幼い頃を過ごしたのも王都のグラフトン侯爵家だが、そもそも邸宅から殆ど外出することのない貴族子女、しかも令嬢であるから、夜間に外出したことなど過去にもなかったのだ。

 普通の貴族子女であれば、家族と共に親類の邸宅に訪問する機会もあったのだろうが、残念ながらリィンにはその経験もない。

 両親に、リィンを連れて外出する機会がなかったというのもあるが、それ以前にあの人たちは両家の親類から一切の交流を断たれている。訪問する先など、あろうはずもなかった。

 

 だから、初めて見た夜の王都はひどく不気味で、ひどく寂しい光景であるように見えた。

 

 貴族街に差し掛かったあたりで、馬車の振動が小さくなった。

 幌の隙間からそっと外を窺えば、明らかに速度が落ちているのが分かった。

 念の為に周囲を見渡して人気がないことを確認し、リィンはジェレミーに別れを告げると、そのままの勢いで馬車の荷台から飛び降りた。

 背後でジェレミーが微かに声を上げるのは聞こえたが、一度でも躊躇してしまったら飛び降りる勇気が出ないような気がしたから、迷わなかった。

 ウェズリーはひとり御者台にいたので、声を掛けることはなかった。走り去って行く馬車が、徐々に速度を上げ始めたので、きっとリィンが飛び降りたことには気付いているだろう。

 

 そして今、痛む右足を引きずりながら一心に歩いている。

 幾ら速度がかなり落ちていたとは言え、普段身体を動かしたりすることのない典型的貴族令嬢のリィンが馬車の荷台から飛び降りて、上手く着地が出来るはずもなかったのだ。

 石畳の上に転がり落ち、身体のあちこちをぶつけた挙げ句に、どうやら右足はしっかりと挫いたらしい。

 落ちた際に打ち付けた右肩はずくずくと痛むし、右足は一歩足を踏み出すために鋭い痛みが走る。

 

「痛い……」


 ぽつりと呟けば、ほろりと涙が零れ落ちそうになる。

 泣いている暇なんてないのだから、と乱暴に手の甲で目尻を拭い、リィンは足を引きずりながらも歩くのをやめなかった。

 

 目指す先は、ウィルコール男爵家ではなかった。

 この状況で男爵家に戻っても、ロクなことにはならないだろう、と率直に思えたからである。

 こっそりと邸に入って、真っ先に兄アルベルクのところに行ければ何とかなるだろう、とは思う。兄であれば、悪いようにはしないと信じられる。

 けれど、どうしたって先に他の使用人に遭遇するだろうし、そうなれば両親もしくは姉レリアに話が行ってしまう。

 その後の展開は、どうなるか想像も出来ないけれど、決して良いようにはならない、という逆の意味での信用が出来てしまった。

 

 だから、リィンが目指したのはドリューウェット伯爵家だった。

 頼れる先が、ララしか思い浮かばなかったのだ。

 

 懸命に頭の中で王都内の道を思い描き、現在の居場所とドリューウェット邸の位置を照らし合わせる。この道を行けば、辿り着くはずだ、と必死で考えながら。

 

 歩き慣れない石畳の継ぎ目に、低めではあるけれど少し高くなったヒールが引っ掛かる。

 

「きゃあ!」


 挫いた右足が引っ掛かり、踏ん張りも効かずに倒れ込んだ。

 その拍子に、ガツッと膝が石畳に叩き付けられ、鈍いけれどひどく響く痛みが走った。

 

「うぅ……」


 呻きながら、一旦靴を脱ぎ、引っ掛かったヒールを継ぎ目から外して履き直す。

 立ち上がろうとすると、足首も膝も、鋭いんだか鈍いんだか、もう良く分からなくなるぐらいに痛い。

 

 リィンは、たとえ末端であり、両親からは気に掛けられていないとは言え、それでも貴族令嬢だった。

 街を歩いたこともないから石畳の継ぎ目を避けて歩くなんてことは分からなかったし、足が痛くて歩けないなんて状況に陥ったこともない。

 

 心が折れそうになる。

 これ以上、歩けないと足が悲鳴を上げている。

 

 けれど、歩かなければならない。何とか辿り着かなければならない。

 そうじゃないと、下手をすればウェズリーやジェレミーに、リィンを誘拐して傷付けた罪が擦り付けられるかもしれない。その可能性は、きっとある。

 彼らのためにも、絶対にララのところまで辿り着かなければならなかった。

 

 心を奮い立たせて、立ち上がる。

 どこのどちらさまの邸宅かは分からないが、やたら高い塀に手を掛けて体重を支えながら。

 

 ずくずくと痛む足を引きずって、何とか一歩ずつ少しずつ夜の闇の中を歩き出したリィンは。

 

「―――お嬢様!!」


 他のどんな声よりも、聞きたくて聞きたくて仕方のなかった、そんな人の声を聞いた。

 

 

 ***

 

 

 そのしらせに、アルベルクは思わず大きく肩を揺らして息を吐いた。

 胸の奥、深いところに溜まっていた重苦しい空気が、一気に吐き出されていくように思えた。

 

「間違いなく、リィンだったんだな?」


 問いかけに、専属侍従のニークが頷く。

 

「はい。確認しましたが、リィンお嬢様でした。気を失われていたようで、マティスが客室へと抱き上げて連れて行きました」

「迅速な対応だな……」


 ぽつん、と呟いたのは、問いかけたアルベルクではなく、邸の住人であるアストリー・オールボート公爵令息だった。

 

「それで、リィンの状況は……?」

「詳しくは分かりませんが、学園の制服をお召しのままで、汚れてはいましたが目立った外傷などは見受けられませんでした」

「そうか……良かった……」


 もしも、本当にエヴァット侯爵夫人が関わっているのであれば、ウィルコール男爵家に戻るのは危険である。

 ブラットリー王子にそう断言され、アルベルクはその場にいたマティスと自らの侍従であるニークを連れ、保護を申し出たアストリーの言葉に甘えてオールボート公爵家へと身を寄せていた。

 専属執事のマルクは、まだウィルコール男爵家に残ってもらっている。何か起きた際には、速やかにオールボート公爵家へ駆け込むように言付けて。

 

 そして、もどかしい思いを必死で堪え、紛らわすようにアストリーと他愛のない会話を交わしていたところに、オールボート家の警備を担当し周辺を巡回していた兵の報告が上がってきたのである。

 

「敷地周辺を歩く、学園の制服姿の女子学生がいる」


 と。

 

 それを聞いた瞬間、アルベルクは咄嗟に立ち上がって駆け出そうとしたが、その時にはもう既に、彼の後ろに控えていたはずの妹の専属侍従は部屋を飛び出していた。思わずぽかんと口を開けて、その背中を見送るしかなかったアルベルクだった。

 

「リィンは、無事だったんだな……」


 何がどうしてオールボート公爵家の周辺をさまよい歩く羽目になったのかは分からないが、とにかく妹が無事だった、という一点に安堵が零れ落ちる。


 そこに「ただ……」と続けようとしたニークは、ハッと顔を上げたアルベルクの視線に気圧された様子で一瞬身を引いたが、そんなアルベルクの肩を軽く叩いて宥めるアストリーに促され、大きな身体を縮こまらせて丸めながら、小さく頷いた。


「ただ、お嬢様の靴が脱げかけてらっしゃいましたので回収しましたが、踵の部分が折れかけていました。足を引きずっていたとも聞いておりますし、恐らくどこかお怪我はされているのではないかと」


 その言葉に、アルベルクのペリドットの双眸に明らかに動揺の色が走る。

 アストリーは、その様子を見て苦笑を浮かべた。

 

「目立った外傷はないようだし先ほどまで歩いていたようだから、そこまで重症でもないだろう。すぐに医者を呼ぶから、安心してくれ」

「ありがとうございます、何から何まで……」

「構わないよ、ララからも殿下からも頼まれてるからね。あ、そうだ。ララにも伝えなければね。取り乱して大変だったから」


 自分がそばにいなかったからだと、ひとりにさせてしまったせいだと、ララは我を失うぐらいに取り乱していた。

 そんな彼女も安心させてあげたい、とアストリーは甘く笑う。


 リィン・ウィルコールが居なくなった。

 

 アストリーの婚約者であるララ・ドリューウェットが取り乱しながら駆け戻ってきた時、様々なことの手配をしながらもアストリーはどうしたものかと迷ってもいた。

 

 本来、貴族子女が学園内で居なくなったとなれば、まず確かめなければならないのは、それが自らの意思であったのか、それとも他者の介入があったのか、だ。

 時折あるのだ。使用人と恋に落ち、成就させるために駆け落ちするだとか。貴族の責務に耐えかねて、全てを放棄して家出するだとか。

 そういったケースが決して珍しくはないから、まずは“自らの意思で居なくなった相手を探す捜索”になるのか“他者によって連れ去られた相手を探す捜査”になるのか、そこを確かめなければならない。

 今回の場合、リィンが攫われたという根拠は他者を説得するには足りなかった。誰もその現場を目撃していないからだ。


 しかし、ブラットリー王子は最初からリィンは攫われたのだと断定した。

 彼女が自らいなくなるとは、まるで思っていないようだった。

 

「エヴァット侯爵家には念の為、監視を張り付けてある。今日はもう、安心して休んだ方が良い」

 

 かの家が関わっているのであれば、それもまた有り得るのだと、彼は確信をもっていたようだから。

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