第17話 裁可、婚約破棄の行末 ③
「どう……いうこと、ですの……?」
室内に張り詰めた空気が満ち、重たい沈黙が流れようとしたのを打ち破ったのは、リィンと変わらないほどに声を震わせた、グレース・エヴァット侯爵令嬢だった。
母親であるクラーラ・エヴァット侯爵夫人の隣で、それまで無言だった彼女は呆然としていた。
「どういうことですの、お母さま……?」
「黙りなさい、グレース。そのように感情を
「そんなことはどうでも良いのです、お母さま!」
大きく首を振ったグレースは、まるで幼子のようであった。
「わたくしは、ウィルコール家に思い知らせたいと……ただそれだけしか……ッ!」
「黙りなさいと言っているでしょう、グレース!」
「……そう大声を出すものではない、エヴァット侯爵夫人」
声を張り上げた娘を、エヴァット侯爵夫人は更に大きな声で怒鳴り付けた。
びくっと身体を竦ませたグレースの前に身を割り込ませ、背に庇ったのはブラットリー王子だった。
そのままグレースは、控えていた侍女に付き添われ、母親から距離を取る。
「レディ・エヴァットは、平民の娘ごとき、と言えるようなご令嬢ではないのだよ。エヴァット侯爵夫人」
眉を寄せたブラットリーに、クラーラは僅かに目を見開いた。
そのようなこと、知らない。表情が物語っていた。
「彼女は私の婚約者候補であった時期もあるが、その当時に交わした会話からは、非常に聡明で愛情深い人であると感じたのを覚えている」
グレース・エヴァット侯爵令嬢は、その家格も年の頃も、ブラットリーの婚約者として申し分なかった。
ゆえに、婚約者の候補の一人として幼い頃に幾度か、ブラットリーとも顔を合わせていた。
結果的にブラットリーの婚約者はジョゼット・ル・ナン公爵令嬢となり、グレースはランドルフ・スペンサー侯爵令息と婚約したが、候補であった頃には未来に関わる治世に対する考え方の話もしていた。
「流石は人格者であるエヴァット侯爵の娘だと思ったのを覚えているが……」
ちらり、とブラットリーは居並ぶ重臣の列に視線を向けた。
エヴァット侯爵当人もその中にひっそりと佇んでいたが、彼は何かに耐えるような表情でじっと無言のままだった。
「理由もなく平民の娘を害し、平然としていられる人ではないのだ、貴女の娘は」
信じられない、とばかりにエヴァット侯爵夫人が目を見開いた。
「愛情深い分、スペンサーの裏切りが許せなかったのだろう。だから、ウィルコール家への憎悪は間違いなかったのだろうが……」
ブラットリーが吐き出した嘆息は、重たかった。
「……だからと言って!」
クラーラが、高い声で叫んだ。
「だからと言って、わたくしが平民をどうしようと構わないでしょう! わたくしは侯爵夫人ですわ!」
クラーラを見やるブラットリーの視線は、憐れなものを見る目だった。
それに気付いたクラーラが、ぎりり……と歯をきしませる。その仕種にはもう、淑女の鑑と呼ばれたクラーラ・エヴァット侯爵夫人の名残りさえも感じられなかった。
「リィン・ウィルコール誘拐の事実は、先ほどグレース・エヴァットが認めた。そして今、貴女自身が平民の少女たちの誘拐についても認めた。証拠は揃っているが、それ以前の問題だな」
感情を悟られぬよう。思いを知られぬよう。
婚約を一方的に破棄された時でさえも完璧な淑女として振る舞っていたはずのクラーラ・エヴァットが、まるで悪鬼のように表情を歪める。
そして。
「……クラーラ・エヴァットよ」
それまで無言で事態を見守っていたこの国の最高権力者、国王がゆっくりと口を開いた。
***
「我ら王侯貴族と平民は、確かに異なる身分を持つ者である」
「でしたら、陛下……!」
国王の言葉に口をはさむという、淑女どころか臣下としても褒められたものではないクラーラの行動を、じろりと視線だけで黙らせる。
最高権力者であるエルネスト・ダリ・ガルド国王に、さすがのクラーラ・エヴァット侯爵夫人も大人しく口を噤んだ。
「身分が異なるということは、好きに虐げて良いということではないのだ」
その口調は、ひどく重たかった。
「この件で、何時から我らが捜査に取り掛かっていたか、そなたは分かっておるか?」
「それは……」
クラーラは、答えを言い淀む。それはそうだ、彼女がそれを知っているはずもない。
「二年前だ。既に、あらゆる証拠は揃い、証言も得られている。言い逃れは出来ぬのだよ……クラーラ・エヴァットよ」
リィンは、驚きに顔を上げた。
クラーラは、それ以上だったようだ。驚愕に双眸が大きく見開かれ、震える唇が薄く開く。
リィンはてっきり、自分が逃げ出してから捜査が始まったのだと思っていた。それまで、エヴァット侯爵夫人は、全くそのような罪を疑われてもいなかったのだと。
しかし、実際は二年も前から王族までも事態を把握した上で、警邏隊ではなく騎士団を中心として捜査が進んでいたという。
「しかもそなたは、リィン・ウィルコール男爵令嬢の誘拐の主犯でもある。言い逃れは、どうやっても出来ぬ」
「知りませぬ、わたくしは何もしておりません!」
尚もクラーラは、否定を叫ぶ。まるで、そうすればそれが真実になるのだと言わんばかりに。
国王は、大きく息を吐いた。
「あらゆる証拠は揃っている、と言っただろう。最早、認める認めないの問題でもない」
せめて、罪を認めて欲しかったのだろうか。
国王の双眸が、悲痛な色を見せていた。
「あの時、せめて……」
沈痛な面持ちの国王に、クラーラがハッと顔を上げる。
「そうですわ! わたくしのせいではありません! あの時、わたくしを
「……先も言ったが、平民だからと言って何をしても構わぬということにはならぬ。ウィルコール男爵令嬢に対しても同様だ」
甲高い声が、尚も叫ぶ。罪から逃れようとして。
「それに、クラーラ・エヴァットよ。そなたの性質は他人のせいではない。そなた自身の責であろう?」
「性質……?」
「そなたの嗜虐性も、平民を人とも思わぬ思考も、昔からだ。あの時のこととは、関係ない」
クラーラの顔が、青褪めていく。
それまで怒りに染まっていただけの彼女の表情が、全く別のものに塗り替えられていく。それは、恐れだっただろうか。それとも怯えだったのか。
「だからあの時、婚約者候補ではあったが、選ばれなかったのだ。外交云々は、後付の理由よ」
「そんなこと……」
ふるふると、クラーラが首を振る。
怯えた様子の彼女からは、先ほどまでの居丈高で傲慢なほどの自信に満ち溢れた、侯爵夫人としての顔はもうなかった。
「それを咎められもせず育てられた、それは確かにそなたの責ではないかもしれんが……な」
国王の声が、重々しさを増す。
「いずれにせよ、平民の娘らにも、ウィルコール男爵令嬢個人にも、それは何ら関係のないことだ」
どこか沈痛な面持ちの国王は断言し、そして配下の者にクラーラ・エヴァットの連行を命じた。
これから貴族牢に入り、取り調べに応じよ、との言葉を添えて。
ただ無言で押し黙っていたエヴァット侯爵は、国王の言葉に深く頭を下げただけで、妻であるクラーラが連れて行かれる様子へ視線を投げることはなかった。
その肩を震わせる感情が、何であったのかはリィンには分からなかった。
十八年前に起きた、婚約破棄。
一方的に婚約者に切り捨てられた令嬢の行末に、その場にいた誰もが苦い感情を噛み殺すことしか出来なかった。
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