第13話 夜の王都、何としてでも逃げてやる ①

「しばらくは誰も来ないとは思うが……な」


 声を潜めたウェズリーが、背に担いだ大きな麻の袋に届くように呟く。

 

 使い古された麻の袋はおろしたてのそれとは違い多少は固さが取れてマシになっているとは言え、流石にリィンは麻の袋に詰め込まれたことなどない。

 普段は芋類などの根菜を扱う際に使用する袋だそうで、黄麻のごわごわとした肌にちくちく刺さるような感触と、根菜が入っていたせいだろうか土の匂いが充満していた。

 その袋に、めいっぱいに身体を縮こませて丸まったリィンが入り、ウェズリーが背に担いで裏口から邸を出る。


「ここは別邸だ。今から王都の中心部に戻る。俺が連れて行けるのは、せいぜい貴族街の入り口までだ」


 手首を戒めていた縄を切り、ウェズリーはリィンに向かってそう告げた。

 

「ここから逃がす手伝いまではしてやる。だが、平民の俺にはそこまでしかしてやれねぇ」

「あなたは……大丈夫なの?」

「さぁな。残ってたところでロクなことにはならねぇんだから、足掻いてみようってだけだ」


 ウェズリーが言うには、彼はエヴァット侯爵の預かり知らぬところで別邸にて雇われた使用人になるのだそうだ。

 

 仕事内容は、表には出せないような仕事だ。

 エヴァット侯爵も把握していない、侯爵夫人の欲求を晴らすために雇われたのだそう。

 細かい内容については「エグすぎてお嬢さんには話せねぇな」とウェズリーが言うので、リィンはそれ以上聞かなかった。

 

 そして、そんな内情を明かしながら、苦々しい表情を浮かべたウェズリーが漏らした言葉に、彼を信頼しようと決めたのだ。

 

「あの奥様に、ウチの兄貴は頬骨を砕かれた。あの人には、俺らなんざいつでも使い捨てられる道具でしかないんだよ」


 ウェズリーの兄は、このエヴァット侯爵夫人が暮らす別邸で執事として勤めていた。

 平民が執事として侯爵家に仕えることは珍しいが、表には出せないようなことが多々ある中、正規で貴族出身の執事を雇用する訳にもいかず、平民出身のウェズリーの兄ジェレミーがその職に就いていた。

 エヴァット侯爵夫人が実家であるエイマーズ侯爵家から連れて来た執事が執事長を務め、その下で執事として働いていたのだが。

 

「事あるごとに、打たれる。兄貴はもう、人前に出れる顔じゃなくなった」


 ギリッとウェズリーが歯を軋ませた。

 それは、侯爵夫人に暴力を振るわれ虐げられてきた兄を想う、弟の声だった。だから、リィンはこの人を信頼したい、と思ったのだ。

 

 どのみち、ウェズリーを信頼する他に、リィンに選べる方法がなかったから、でもあるけれど。

 

 そして、リィンは麻の袋に身を縮こませて詰め込まれる状態になった訳である。

 

 どすん、と衝撃があって、馬車の荷台に積み込まれたのだと理解する。

 ウェズリーの語った手筈によれば、リィンはこれから積み荷として王都の中心部の方へ運ばれ、道中で積み荷として下ろされる。

 その後はどこに行くにしても、自分の力で何とかしろ、ということらしかった。

 

 がたことと振動が伝わり始め、馬車が動き出したと知ったリィンは、封じられていない麻の袋の口からそっと様子を窺う。

 馬車は当然箱馬車ではなかったが、幌が付いているようだった。荷台を覆う幌で、外の様子は見えない。だから、外からも荷台の様子は見えない。

 ほっと安堵して、リィンは麻の袋から這い出る。大きな麻の袋はごわごわしていて、時折ほつれた箇所が髪に引っ掛かったりはしたが、四苦八苦しながらも何とか這いずり出ることが出来た。

 

 このまま馬車で貴族街の辺りまで向かい、人目につかないところで馬車の速度を緩めるとウェズリーは言っていた。

 速度が緩んだら、荷台から飛び降りて自分の足で助けを求めなければならない。

 

 それ以上、平民出身で使用人に過ぎない彼らに出来ることはないだろう。たとえ憲兵に訴え出たとしても、先んじてエヴァット侯爵夫人が手を回していたら終わりだ。

 使用人見習いとして雇う予定の男爵令嬢を、平民出身の使用人が誘拐し連れ去ったのだとか何とか訴えていれば、罪に問われるのはウェズリーたちの方になる。

 平民出身の彼らと、たかが男爵令嬢に過ぎないリィンの主張など、侯爵夫人の証言の前には無力に等しいだろあうから。

 

 ふ……と息を吐いたリィンは、そこでようやく気付いた。

 

「ひっ……!?」


 荷台の隅に、うずくまる人影があった。思わず悲鳴を上げたリィンに、人影がゆっくりと顔を上げたのが暗闇の中にうっすら見えた。

 

 

 ***

 

 

「ウィル、コールの……お嬢様、でしょう、か?」


 言葉を発することも苦しい、と言わんばかりの、途切れがちな声。

 呻き声にも似たそれは、壮年と思しき男性の声だった。

 

「あなたはもしかして……」

「ウェズ、リーの、兄……です……」


 執事として、エヴァット侯爵夫人に雇われていた男性だった。

 

「喋らなくて良いです、苦しいのでしょう?」


 先ほどウェズリーは、兄が頬骨を砕かれたと言っていた。以前から夫人に打たれ、人前に出れる顔ではなくなっている、と。

 それならば、ただ喋るだけでも苦痛であるはずだ。

 

 そう考えたリィンに、しかし彼はゆるゆると首を横に振った。

 

「私、は、謝らねば……あな、たに、何ということを……」

「あなたのせいじゃないでしょう?」

「いいえ……いい、え……私、は……お止め、出来なかっ……た」

「それはあなたのせいじゃありません。止まらなかった夫人のせいです!」


 平民出身の執事が、どうして侯爵夫人を止められるというのだろう。

 尚も首を振り、喋るだけで激痛に苛まれるであろうに謝罪を繰り返す彼に、リィンは、荷台の中で縮こまったまま近付いた。

 

「申し、訳、ございま……せん……」


 絞り出すような声と共に差し出された手は、まるで老人のような手だった。

 ウェズリーが見たところ三十代半ばといったところだったから、その兄というならば暗闇の中で判別は出来ないがさほど老齢という程でもないであろうに。

 

 思わずその手を取ったリィンは、驚愕におののく。

 

 その手のひらは、異様な程に厚く固く、いびつだった。

 労働の中でそうなった手のひらではない、というのは、触れただけで分かる。手のひらに横に幾重にも走る傷跡は、鞭打たれた跡だ。

 

 使用人の失態に対し、罰として手のひらに鞭を打つことはある。

 リィンも、父の生家であるグラフトン侯爵家で過ごしていた際に幾度か見かけたことがあった。それがひどく痛々しくて見ていられず、視線を逸らしてその場を逃げ出したことは、過去に何度もある。

 ウィルコール男爵家に戻ってからは、使用人は専属侍従のマティスか、あとは兄の専属執事であるマルクと、同じく兄の専属侍従であるニークぐらいしか接する機会がなかったから分からないけれど、もしかしたら男爵家でも日常的に行なわれていたのかもしれない。

 

 それでも、目の前の彼の手のひらは、異様なほどの傷だと感じた。

 幾度も幾度も鞭打たれ、その度に適切な治療などを施すこともなく放置した、そんな傷の積み重ね。

 

「なんてこと……」


 思わず漏れ出たつぶやきに、彼は恥じ入るように手を引っ込める。

 

「それは……エヴァット侯爵夫人、が……?」


 美しい貴婦人を思い浮かべながら恐る恐る尋ねたリィンに、彼はしばらくためらった後に頷いた。

 

 背筋が凍る思いがした。

 こんな傷が残る程に幾度も幾度も鞭打たれ、そして人前に出れぬ状態になるまで殴打されて顔が変わり、今は頬骨を砕かれて喋ることさえも苦痛であるはずなのに、自らの非を詫びる目の前の男性が、余りにも憐れで。

 あの美しい容貌の下で、このような残虐なことを平気でやれてしまうエヴァット侯爵夫人が、余りにもおぞましくて。

 

「ごめん……なさい……」


 ぎゅっと唇を噛んで俯いたリィンは、先ほどとは違う感情からの涙がはたはたと零れ落ちるのを感じた。

 

「お、嬢様、が謝る……こと、では……」


 途切れ途切れになりながら、謝るリィンを制止しようとする彼に、リィンはふるふると首を振った。

 

 謝罪に意味はないかもしれない。謝ったところで、どうにもならないかもしれない。

 もしかしたら、それはエヴァット侯爵夫人の素養でしかなかったのかもしれないし、何をどうやってもそんな人になっていたのかもしれない。

 

 だけど。

 

「あの人を、ああも狂わせたのはわたしの両親……です」


 品行方正で淑女の鑑とうたわれていた、当時のクラーラ・エイマーズ侯爵令嬢。

 そんな彼女が、現在のクラーラ・エヴァット侯爵夫人になった過程には、確実にリィンの両親である現ウィルコール男爵夫妻の存在がある。

 

 母が、婚約者のいる父に近付かなければ。父が、婚約者のいる身でありながら近付いてきた少女に心を傾けなければ。

 仮に二人が惹かれ合ってどうにもならなかったのだとしても、正当な手段でもって婚約を解消し、クラーラ・エイマーズ侯爵令嬢に瑕疵かしを付けずに終われていたら。

 

 全ては仮定だけれど、決して非がないなんて言えない。リィンの両親が悪くないなんて、絶対に言えない。

 

「あなたのお名前を、教えてください……何が出来るかなんて分からないけど、わたし、あなたへの償いを考えます。だから……」


 暗闇の中で、男性は身じろぎしたようだった。

 その上で、僅かに躊躇った後、うっすらと空気が掠れて溢れるようなため息を吐いた。

 

「ジェレミーと、申し、ます」

「分かりました、ジェレミーさん。あなたとウェズリーさんのこと、わたしは絶対に忘れませんから。必ず逃げ切って、何か出来ること探しますから……!」


 自分に何が出来るかなんて、リィンには思い付きもしなかった。

 だが、このまま知らぬ振りも出来なかった。

 

 十八年前に父と母が幸せになるために生み出したしこりが、こんな形で誰かを苦しめているのが、余りにも心に痛くて。

 

 ジェレミーが、首を振る。

 

「親の罪、は……子の責任、では、あり……ません……」


 そうかもしれないけれど、でも。それでも。

 

 こうやって苦しんで来た、苦しめられて来た、そんな彼が、今度はリィンを逃がすことで更に追われ苦しむ立場になるかもしれない。

 そう思ったら、知らない顔なんて出来なかった。忘れることなんて、出来なかった。

 

 たとえ、男爵令嬢ごときに出来ることなんて、何ひとつ思い浮かばなかったとしても。

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