第12話 応報、十八年前の過ち ②

「わたくしはね、あの屈辱を忘れたことなんてないの。分かる?」


 クラーラ・エヴァット侯爵夫人、かつてクラーラ・エイマーズ侯爵令嬢と呼ばれていた彼女は、美麗に紅を引いた口の端を吊り上げて笑った。

 

 十八年前、彼女は婚約者であるチャールズ・グラフトン侯爵令息から、一方的に婚約破棄を告げられた。

 傍らに恋人であるシェリー・ウィルコール男爵令嬢を抱き寄せ、チャールズはクラーラの非を責め立てた。

 曰く、気位ばかりが高すぎて妻として考えられない、配慮もなければ温かみもなく家庭を築けるような女ではない、などと声高に叫んで。

 

 それが、密室で関係者のみが居並ぶ中で行なわれたことであれば、クラーラもまだ耐えられた。

 だが、チャールズは卒業パーティーという大々的な場を、その糾弾の場に選んだ。

 

 悪いのは、婚約者がありながら手順も何も踏まずに男爵令嬢と情を交わしたチャールズであり、そして婚約者がいると知りながらも彼にすり寄ったシェリーである。

 たとえクラーラが結婚相手としてチャールズの理想に叶わなかったとしても、そのような辱めを受ける謂れはなかった。

 

「誰も、あの屈辱を理解などしてくれなかったわ」


 保護者同伴ではなかった卒業パーティーが悲惨に終わり、報せを受けた父は「あとは任せろ」と言った。

 きっと、父が何とかしてくれるだろうと思った。我が子が受けた屈辱だ、父はそれを晴らすべく彼らに罰を与えてくれるだろう、と。

 

 しかし、結果的にクラーラはそれから数年を領地にある別邸で過ごすことになった。

 

 父は、グラフトン侯爵と交渉し、その領地の幾許いくばくかの権利譲渡と賠償金でもって手をうち、内々に事をおさめることに承諾したのだ。

 それが両家の面目を保つ方法であり、表立って彼らを罰する訳にはいかないのだと言って。

 

 チャールズは侯爵家の婿入りがなくなったけれど、そのまま恙無つつがなくウィルコール男爵家に婿入りした。

 クラーラが領地で静養という名目でほとぼりが冷めるのを待っている頃、彼らは侯爵家に比べれば随分と質素であり規模も劣るものであったものの、普通に幸せな結婚式を挙げた。

 

「許せなかった、誰も彼もが。夫でさえも、許し難かったわ」


 ほとぼりが冷めた頃、クラーラはエヴァット侯爵家に嫁入りすることとなった。

 エイマーズ侯爵家は分家から養子を取り後継とすることにしており、婚約破棄という瑕疵かしを負ったクラーラは、後妻として迎えられるしかなかったのだ。


 エヴァット侯爵は、エイマーズ侯爵からの申し出を受けたに過ぎない。

 だが、エイマーズ侯爵家の家督を継ぎ、晴れ晴れしい人生が約束されていたはずのクラーラには、二十歳以上も年上の夫に嫁ぐことそのものが屈辱だった。

 娘を産んでも、その屈辱は晴れなかった。たとえ男児を産んでも、夫には既に前妻との間に成人済みの嫡男がいる。クラーラの産んだ子は、いずれ家を出るしかなく、エヴァット侯爵家に血を残すことさえも出来ない。

 

 諸悪の根源であるウィルコール男爵家は、グラフトン侯爵家によって押さえ付けられ社交界からは弾き出されているが、その程度で屈辱など晴れる訳もない。

 内々に片付け、侯爵家二家が関わっていることもあって社交界では話題にすること自体が禁忌タブーのように扱われている婚約破棄騒動だが、そうやって腫れ物のような扱いさえも屈辱的だった。

 

 あれから十八年。尽きることのない屈辱の日々を重ねて。そして。

 

「まさか、またウィルコールの娘が出てくるだなんてねぇ……」

「それは……ッ」


 リィンに向けられるクラーラの視線は、まさしく蔑みだった。

 

 それは違う。

 エヴァット侯爵令嬢―――クラーラの娘であるグレースの婚約者にあたるスペンサー侯爵令息に近付いたのは、姉のレリアであってリィンではない。

 そう言い返したかったリィンだが、クラーラからの視線に思わず口を噤んでしまった。

 

「どちらでも良いのよ、姉だろうが妹だろうが」


 言いながらクラーラは、背後に佇む男を振り返った。

 無言で佇んでいた男の姿は、明るい室外から差し込む光で上手くリィンの視界には捉えられなかったが、映し出される輪郭だけでも大柄な体躯の男性であると知れた。

 

「あなたも、あの女の血を引いた娘だもの。どうせいずれ、同じことをするわ」


 クラーラの言葉に合わせるように、男が無言のまま、一歩前へ足を踏み出す。

 少しはっきりとしたその姿は、やはり大柄で身に着けているものは上等であるのにどこか粗暴さを感じさせるような目をしていた。

 

「だったら、今のうちにわたくしが手を下して、掃除してあげた方が世の中のためになると思わない?」


 にっこりと微笑んだその表情はひどく扇情的で、けれどひどく歪んでいて、そしてどこか泣き出しそうな表情にも見えた。

 

「ウェズリー、その娘はあなたにあげるわ。好きにしなさい」

「よろしいんで?」

「話は聞いていたでしょう? 娼婦よりも身持ちの悪い女の娘ですもの、どんな扱いをしたって問題ないわ」

「そりゃあ楽しみで」


 ウェズリーと呼ばれた男は、にやりと下卑た笑いを浮かべた。

 

「そのうち、姉の方もあなたにあげましょう。だから、手始めにその娘をぼろぼろにしてしまいなさいな」


 淡々としたクラーラ・エヴァット侯爵夫人の声は、絶望的な色をまとってリィンの頬を撫で、石の壁に当たって落ちた。

 

 

 ***

 

 

 ごとん、と鈍い音を立てて扉が閉まる。

 

 クラーラ・エヴァット侯爵夫人は、扉の外へ出て行ってしまった。

 石造りの、窓も何もないまるで牢獄のような室内に残されたのは、手首を後ろ手に拘束されたまま床に座り込むリィンと、それを見下ろすウェズリーと呼ばれた男。

 

 クラーラは憎悪と侮蔑に染まった視線で、リィンのことを「好きにしなさい」とウェズリーに告げた。

 その様子を見守るほど悪趣味ではないようだが、だからと言ってリィンの置かれた状況が改善した訳ではない。

 

 ウェズリーと呼ばれた男は大柄で、その体躯はリィンが見慣れたマティスよりも更に胸板が厚く、服の布地を通して見ても二の腕は丸太のように太い。

 鍛えられた様子は、明らかに単なる使用人ではない。戦う者の鍛えられ方なのか、それとも労働によって鍛えられたものなのかは判別なんて出来ないけれど、ともかくどれほど足掻こうと単なる男爵令嬢でしかないリィンが太刀打ち出来るような腕力の相手ではない、ということだけは簡単に見て取れた。

 

 ウェズリーが一歩、前へ足を踏み出す。

 じり……と座り込んだままリィンは後ろへ後ずさる。

 

 背筋にたらりと汗が伝い落ちる気がした。本当に伝い落ちたかどうかさえ、今のリィンには分からない。

 

 どうしよう……何とかして逃げないと。

 

 頭の中でそう考えるのに、状況は余りにも絶望的で、座り込んだまま何とか後ずさる背中が、とんっと石の壁にぶつかった。

 

 逃げ道なんてない。

 その絶望に直面するのは、ほんの一瞬で事足りた。

 目の前にはウェズリーと呼ばれた男、背後には冷たい石の壁。

 背中側でしっかりと縛られた両手は動かしようもなく、もし立ち上がって何とか逃れたとしてもその先にある扉を開く術はない。扉のノブはあるけれど、それを回せたところであの扉は重たい石製の扉。外開きなら全体重をかけて押し開けることが出来る希望が微かにでもあったかもしれないが、先ほど見た限りでは内開き。そんな希望さえも抱けない。

 

 絶望に、身体が勝手に震え出す。逃げなきゃ逃げなきゃ、と思うのに、身体はがくがくと震えるだけで。

 しばらくリィンを眺めていたウェズリーが一歩足を更に踏み出した時には、びくぅっと身体が跳ねるように震え、もう直視なんて出来なかった。

 

 座り込んだ膝に顔を押し付け、目を逸らす。視界を塞いだのはきっと、恐怖から逃れようとした防衛本能。そんなことで状況は打開出来ないと分かっているのに、リィンにはそれ以外のことが出来なかった。

 

 怖い、怖い、怖い。

 最悪の事態が脳内を巡り、悲しむであろう兄や友人たちの顔が浮かぶ。

 

 そして。

 

 ―――マティス……。

 

 幼い頃から常に傍らにいた、侍従の顔が思い浮かんだ。

 もう、彼にも会えないのだと思い知ると、絶望はより深く濃くなっていく。

 

 いつも傍らに控えていてくれたから、その気配がないことが、ひどく心細い。ひどく寂しい。

 あくまでも主従でしかなく、彼が傍らに控えるのは職務であるからだと分かっていても、その存在が常に頼りだった。


 泣くもんか、と思うのに、ぎゅっと瞑った両目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。

 恐怖からなのか絶望からなのか、それは留まることを知らぬかのように次々と流れ落ち、瞬く間にリィンの頬を濡らした。

 

 そのときだった。

 

 頭上で、ほぅとため息が聞こえた。

 はっとして顔を上げようするよりも早く、ザクッと音がして背中で縛られていた両手首が解放される感覚があった。

 

「……え!?」


 驚きに顔を上げたリィンの視界では、苦々しい表情をしたウェズリーが小さなナイフを持ってすぐ目の前に立っていた。

 

「安心しろ、とは言えねぇが、とりあえず俺は危害を加える気なんざないぜ、お嬢さん」

「……何で……?」


 苦々しい表情のまま、ウェズリーは分厚く鍛え上げられた肩をすくめた。

 

「あの奥様は、俺ら使用人を人とも思ってねぇからな。何かあったら切り捨てられる。余計な犯罪は増やしたくねぇさ」


 その声は諦めを含んでいて、表情は忌々しいものを語るかのようでもあった。

 そして、その言葉遣いは、下位貴族出身の者が殆どであろう侯爵家の使用人には似つかわしくない、荒々しいものでもあった。

 

 疑問の視線を受け、表情を歪めていたウェズリーが苦笑を浮かべる。

 

「俺は、平民だ。あの奥様が、荒事をさせるために使い捨てで雇った使用人だよ」

「使い捨て……?」

「あの奥様もお嬢様も、被害者ぶってやがるが俺らを使って結構悪どいことをやってんのさ」


 平民は人とも思ってないようだしな、とウェズリーは口の端を吊り上げて笑った。

 

「流石にもう付き合ってらんねぇよ。貴族子女の拉致監禁なんざ、爵位問わず重罪すぎる」


 涙で濡れた頬のまま、リィンは呆然としてウェズリーを見上げた。

 ほんの僅かな希望の明かりが、その胸に灯るのを感じながら。

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