第6話 王宮、有象無象の恋物語
廊下にまで、緻密な模様を織り込まれた絨毯が敷き詰められている。
靴底で踏みしめることが申し訳ない程の繊細さと美しくなめらかな光沢は、絹糸であるがゆえだろうか。これが自邸にあれば、恐らくは最も条件の良い部屋をギャラリーとして整え、飾って楽しむものになるだろう。
そのような代物の上を歩けば、相応に恐縮もする。そして、それらを当然のように使用出来る者への畏怖も抱く。
ましてや、唐突に呼び出された身であるともなれば。
アルベリク・ウィルコールは、これからを思い描いてそっと息を吐いた。先導するために先を行く侍女のぴんと伸びた背に、それが届かないように気を遣いながら。
今朝方、自邸であるウィルコール男爵家に届いた書簡に、年老いた家令は慌ただしくアルベリクの部屋へと駆け込んだ。
男爵家に仕える使用人であるから彼は当然のごとく平民の出であるのだが、それでも家令を任されるほどの人物である。使用人としての専門教育を受け、長らく実務に携わり、平凡な男爵家を可もなく不可もなく、恙無く管理しまとめ上げて勤めてきた。
大概のことは淡々とこなせるはずの家令が、そのように顔色を変えて取り乱す様を、嫡子であるアルベリクも初めて見たと言えるだろう。
「……王城に?」
手渡された書簡には、登城を求める文章と、第一王子であるブラットリー・ユナ・ガルトの署名があった。
彼の正式な紋が押印されている訳ではないが、署名がなされている。
それはつまり、公的な呼び出しではないものの第一王子として登城を命じる、私的ながら強制力を持つ文書ということである。
「何か、当家に不手際があったのでしょうか?」
「いや……うん。なくはないけれど、まぁ今回はちょっと違うのかもね」
公的ではないとは言え、王族からの直接のお呼び出しだ。
何かあると懸念するのは仕方ないだろう。
実際、何かは充分すぎるぐらいにあるのだが。
愚かな両親と、それに疑問を持つこともない上の妹。
妹の取った行動だけでも、王族から何らかの処罰がくだされてもおかしくはない。学園はあくまでも貴族用の学園であり、学生であるという事実は決して免罪符にはならないし、あそこは無法地帯などではないのだから。
「でも多分、やっぱり違うだろうねぇ……」
妹レリアの行動で王族より何かあるとすれば、当主であるウィルコール男爵の父にまずは何らかの書簡が届くだろう。
アルベリクは、昨日の様子を思い起こす。
意識を失って帰宅した下の妹にアルベリクも一時期は肝を冷やしたが、彼女の侍従であるマティスから事情を聞き、ほぅと安堵の息を吐いたのはもう日が暮れてしばらくしてからのことだった。
兎にも角にも、公爵邸で使用人であるにも関わらず第一王子の前に飛び出したというマティスには謹慎を申し付け、同時にリィンにも療養としてしばらく自邸にこもらせるように指示を出す。
娘が倒れたというのにも関わらず、何をするでもなく晩餐を楽しむ両親と妹には辟易とさせられるが、邪魔をしないだけまだ良いか、と思い直しつつ。
そして、あの両親が異常であるということを理解出来るだけの教育を施してくれた祖父に、愛情はないが感謝は抱きつつ。
「覚悟を……決めなきゃいけないか。リィンに、それを負わせる訳にもいかないし」
そう決意したアルベリクは、ブラットリー第一王子からの登城命令に大人しく従った。
登城自体は断れるようなことではないが、その先に続くであろう事実に覚悟を決めながら。
前を行く侍女が、ようやく足を止めた。
どう考えても高級すぎるであろう絨毯の上を、きちんとしたお仕着せの背を伸ばして歩く彼女はきっと、アルベリクよりも更に高位の貴族の出であるだろう。
そんな侍女に慇懃に頭を下げられ、居心地の悪さと共に護衛騎士が守る扉を開かれたアルベリクは、それとは分からぬように息を吸って、そして吐く。
ばくばくと心臓が鳴る。
果たして僕は、自邸に帰れるのだろうか。そんな不安が、ふと脳裏をよぎる。
帰らなければならない。どうなるかは知れないが、あの両親と上の妹が支配する男爵邸に、下の妹をひとりきりにするわけにはいかない。
あの両親が異常であると気付けてしまえるのは、アルベリクだけでなく、下の妹リィンも同様なのだ。そんなところに、ひとり取り残してしまったらと考えると、背筋が凍る。
その時を見越したからこそ、学園で知り合った信頼の出来るただひとりの友人には事情を打ち明け、妹の助けとなってくれるよう願ったけれど。
それだけではきっと、邸内までは足りないはずだから。リィンを守れるのは、アルベリクだけなのだから。
ふと、軽口を叩きながらも下の妹に愚直なまでに付き従い、倒れた彼女を後悔を滲ませながらも大切そうに抱えあげて帰宅した侍従の顔がよぎるが、彼もまた妹を守るには力が足りない。
だから、アルベリクは帰らなければならないのだ。
「面を上げよ、アルベリク・ウィルコール」
室内に入り、相手の顔を確認するよりも早く腰を折り頭を下げたアルベリクは、ブラットリー第一王子のそんな声を頭上に聞いた。
アルベルク・ウィルコール。
ウィルコール男爵家の長男であり、嫡子である。
学園での成績は、可もなく不可もなく。優秀な部類に入りはするが、かと言って抜きん出た何かがある訳ではない。
男爵家の当主として必要な実力は有しているが、それ以上に取り立てられるべき能力は特にない。
ブラットリーが改めて確認した、アルベルク・ウィルコールの人物像はその程度のことであった。
深く調べる時間を取れば良かったのかもしれないが、そうすることで何かが手遅れになるような予感もあった。
だから、ウィルコール男爵令嬢であるリィン・ウィルコールが意識を取り戻さないまま、しかし医師からの承諾が得られたので侍従に付き添われて帰宅してからすぐに、アストリーに命じたのである。
アルベリク・ウィルコールと会う機会を設けるように、と。
果たしてアルベリクは即座に応じ、指定された時間にすぐさま王城に馳せ参じた。
「楽にするが良い。公式な謁見などではないのだから」
深く頭を下げたアルベリクの薄い色味の金髪に何やら既視感を覚えながら、ブラットリーは声をかける。
ゆっくりと、アルベリクが頭を上げ、ブラットリーへと顔を向ける。
薄い色味の金色の髪は、色素の薄さを感じさせる。同様に、その肌もまるで令嬢であるかのように白く、しかし面立ちは確かに男性的に整った容貌であると言えた。
だが、その容貌に対しブラットリーが抱いた感想は、そのようなありきたりなものではなくて。
「……叔父上……?」
掠れた声になってしまった。
一瞬、時間が止まったのかと感じた。
そして、ややあってから動揺を外に示してしまったことを恥じる。王族としては、失態である。
「掛けてくれ、アルベリク・ウィルコール。アルベリクと呼んでも構わないか?」
「殿下の御心のままに」
軽く目を伏せ、視線を合わせないようにするのは、この国では王族に対して当然の礼儀である。
だが、もしかして目線を合わせたくはないのだろうかと、アルベリクの双眸にブラットリーは思う。
その伏せた瞼の下にある色合いを、嫌というほどに知っているからこそ。
「……さて、私は君に何を言えば良いのだろうな、アルベリク?」
「殿下の御心の内は、私などでは推し量りようもなく」
「あぁ、いい。礼儀も形式も、今は不要だ。それどころではないようだしな」
頭痛を抑えるように、ブラットリーが額に拳を当てながらアルベリクを促す。
やや躊躇った後にゆっくりと上げられた視線は、そのペリドットのような双眸は――――ブラットリーが毎日鏡の中に見ているものと同じであった。
「私は今、予想が当たりすぎていて、正直混乱しているよ」
昨日、お茶会で過度のストレスにより過呼吸を起こしたリィン・ウィルコールを見送った後、ふとブラットリーが思い描いた予想は、当たってほしい類の内容ではなかった。
それは、ウィルコール男爵家の問題に留まらず、ブラットリーにとっても国内の一貴族の問題にも留まらない。
「アルベリク・ウィルコール……君は、叔父上の子だな?」
再び新緑のような双眸を伏せたアルベリクの沈黙は、肯定を意味していた。
***
「クラーラ! 君との婚約を破棄する! 君のような気位ばかりが高い人と、生涯を共にするなど耐えられない!」
その日は、貴族らが通う学園の卒業パーティーだった。
普段は荘厳ですらある学園の広間が絢爛豪華に飾られ、これから大人の世界――社交界へと巣立つ学生らの行き先を彩ろうとしているかのようだった。
それをぶち壊すかのような、怒声が響く。
声を張り上げた貴公子の傍らには、可憐な令嬢。そして礼を失した貴公子が指差す先には、凛と佇む令嬢。
それが、十八年前に起きた前代未聞の婚約破棄の光景であった。
当時のことは、多くの貴族の間で有名ではあるが、その子世代にはさほど知られていない。
婚約破棄を告げたのが国にとって重要な臣を幾人も輩出した名家グラフトン侯爵家の末子であったこと、告げられたのもまた同様の家格を誇る名家であるエイマーズ侯爵家の令嬢であったこと。
そして、その両家が互いの名誉のために起きたことをなかったことにしたがったこと。
それらの事情が重なり、内々に教訓として伝える家はあるかもしれないが、表立って語り継ぐこともなければ社交界で大々的に話題にされることもなかった。
噂話に花を咲かせ楽しむためだけに、二つの侯爵家を敵に回そうなどという貴族は殆どいなかったからだろう。
王家や、侯爵家より家格の高い家の人々もまた、その件を黙殺したから、というのもある。そこにどのような事情が絡んでいるのかは、分からないが。
だから、あれは過去の出来事でしかない。
多くの貴族が、侯爵家に追従するようになかったこととして扱い、ゆえに忘れ去られようとしている出来事でもあった。
「あの当時、ウィルコール男爵令嬢は多くの高位貴族の令息と親しくしていたというが……」
「私が祖父から聞いた話でも、同様でした」
「グラフトン前侯爵は……いや、確認するまでもないな。分からないはずがない」
既に老齢の域に差し掛かりつつある厳格な前侯爵の姿を思い浮かべつつ、ブラットリーは首を振る。
ひと目見ただけのブラットリーが迷うことなく気付けた事実に、あの厳格でありながら老獪でもある貴族の中の貴族といった前侯爵が気付かないはずがない。
アルベリクの容貌を見れば、すぐに分かってしまうことだ。
「君は、いつそれを知ったのだ?」
「学園にいた頃に。ベテランの教師の方々が、私の顔を見て明らかに動揺していましたので、何かあると考えました」
それもそうか。
当時、可憐な容貌で人目を引いていたウィルコール男爵令嬢、現在ではウィルコール男爵夫人であるシェリーは、多くの高位貴族の令息と親しくしていた。
その様子は貴族の子女が集まる学園内においては、ひどく異質だっただろう。
この国において、女性は貞淑を美徳とする。
末端の男爵家であるとは言え立派な貴族でありながら、その真逆をいくような振る舞いは異様なものだったに違いない。
彼女自身は「だって私はヒロインだもの」だの「逆ハーだってルートあったんだから良いでしょ?」だの、謎な言動を繰り返していたようだが。
だが、実際のところ高位貴族の令息らと親しくはしていたが、決して彼らを侍らしていたという訳ではなく、単に彼らは正式な婚姻を婚約者と結ぶための遊びのような感覚でいたようだった。
事実、男爵令嬢であるシェリーのために元より結ばれていた婚約を破棄するまでに至ったのは、チャールズ・グラフトン侯爵令息つまり現在のウィルコール男爵ただ一人だった。
そして、シェリーが既に子を身籠っていたこともあり、彼らは婚姻を結ぶと共に社交界の中心からも国の中心からも遠ざけられた。
その後は一男二女に恵まれ、平凡な男爵家として恙無い日々を送っていたはずなのだが。
「まさか、その時の子が叔父上の子だったとは……」
シェリーと親しかった子息の中に、当時の第二王子であった人物、即ち現在の王弟であるメイナード・ユナ・ガルドがいた。
彼は自由奔放な男爵令嬢に惹かれ親しくしていたが、卒業後は幼い頃から決められていた婚約者である伯爵令嬢を娶り、現在は王弟として国王の補佐を務めている。
既に二人の息子を授かり、彼もまた王族の一員として恙無い日々を過ごしているはずだ。
そこに投下された、アルベリクという存在。
余りにも当時の第二王子に似た容貌は、当時を知っている者を動揺させ、知らぬ者であっても困惑させるだろう。
それが、紐解けば十八年前の無法地帯のようだった学園に辿り着くともなれば、その出自はあからさまでさえある。
「厄介だな……」
思わずブラットリーはつぶやいた。
アルベリクの肩が、ぴくりと揺れる。
現状、王家の治世は落ち着きを見せている。王弟であるメイナードにも特に二心はないようで、よく兄を補佐する王弟という立場だ。
だが、どのような時代であっても良からぬことを企む者たちはいる。
いや、平和で落ち着いた治世だからこそ野心を抱く者、というものも確実に存在はしていた。
そのような者たちにとって、このアルベリクという存在がどのような位置付けになるのか。
正当な後継の血筋ではない。だが、王家の血筋は確実に引いている。それは見ただけでもハッと気付かされる程のものだ。
「レディ・ウィルコールは、その不安から倒れたのか」
「まだ直接話せてはおりませんが、恐らくは」
リィン・ウィルコールが話そうとしていた内容がこれであるというのなら、極度の緊張とストレスから倒れてしまうのも無理はない。
「それで……君はどうしたい、アルベリク?」
王弟の血を引くことが、明らかな程の容貌で。
その気になれば、良からぬことを企む者たちの中で旗頭となれる条件を備えていて。
「……私は、出来ることならばウィルコール男爵家を離れ、妹のリィンと共に平穏に過ごしたいと願っています」
アルベリク・ウィルコールが述べた希望は、ただそれだけだった。
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