第5話 男爵家、抱え込んだ秘密

「ご存知かもしれませんが、我がウィルコール男爵家は特に秀でたところなどない男爵家でございます」


 話し出したリィンに、高貴な御三方――――ブラッドリー・ユナ・ガルト第一王子、ジョゼット・ル・ナン公爵令嬢、アストリー・オールボート公爵令息の三人は、無言で顔を見合わせた。

 

 そんなことはない、と世辞であっても言うべき場面なのかもしれないが、かと言ってそう返せるような功績はウィルコール男爵家には何もない。本当にない。

 

 ただ幾代か前に非常に商才に恵まれた者がおり、王国の経済発展の最中さなかにあって他国との貿易で財を成し、その財でもって王国軍が長年の紛争を制する為の助力となった。その功績として小さいながらも領地を賜り叙爵されたのが、男爵家の興りではある。

 時流に乗り成功を掴んだ、初代に関しては功績がある。

 しかし、それ以降に何か少しでも王家やそれに準ずる高位貴族の記憶に残るような事実があったかと言われたら、何ひとつない。

 

 それは殆どの下位貴族が同様であり、数代に渡って功績を上げ続けるような優秀な家柄であれば待遇は男爵位だけに留まるはずもないのだ。

 

 それはそれで当然のことだ、とリィンは思っている。初代のような傑物が、そう簡単に生まれるはずもないのだ、と。

 ただ、どうせなら高貴な方々の記憶にも残らない末端貴族のままな方が幸せだった、とも思う。

 このような、姉の愚行、ひいては父や母の愚行によって、第一王子にも公爵家の令息令嬢にも記憶されるぐらいなら、と。

 

「ただ、父はグラフトン侯爵家の出なのでございます」

「グラフトン侯爵家と言えば、幾人もの重臣を輩出した家だな……」


 記憶を辿るブラッドリー王子に、こくん、とリィンは頷く。

 もう、細かい礼儀とかを考えている余裕はなかった。


「わたしや兄は、両親からの教育を受けてはおりません。わたしたちは、祖父によって育てられましたから」

「お祖父さまはもしかして、前グラフトン侯爵でいらっしゃるのかしら?」

「はい。現グラフトン卿は、伯父にあたります。父は、グラフトン家の末子でした」


 祖父はひどく厳格な人である。

 ウィルコール男爵家とは異なり、建国から続く由緒正しき血筋の侯爵家の当主であった人なのだから当然なのだが、その厳格な祖父に兄アルベリクとリィンは育てられた。世話をしてくれたのは祖父が選んだ乳母だったり使用人だったりしたのだが、教育は全て祖父の監督下で行なわれた。

 

「何故、二人だけが? 姉君はご両親が育てたということだろう?」

「それが……母が、子育てを嫌がったかららしいのです」


 兄アルベリクが産まれたとき、母は昼夜問わずに泣き出す赤ん坊に癇癪を起こしたらしい。

 殆どの世話は乳母任せであったはずなのだが、たまに抱いてあやそうにも泣き止まない兄が許せなかったのだとか。

 

 赤ん坊など泣いて当たり前なのだからと諭されても、母にはそれが我慢出来なかったようだ。

 母にとって子育てとは、幸せに赤ん坊を抱いて微笑む様しか存在していなかった。

 

 そんな母に赤ん坊が懐くはずもなく、兄は母に抱かれるたびに泣きわめくようになり、母はそれが許せなくて苛立ちを募らせ、最後には抱いていた兄を床に叩きつけようとさえしたそうだ。

 

 兄の危機を察した使用人のうち、父の実家から遣わされていた執事が仔細を祖父に伝え、祖父は両親から兄を取り上げた。

 そして、兄は祖父の下で育てられ、教育を施されるようになったのである。

 

「それでは何故、姉君だけがご両親の下で育てられたのだ?」

「母が、わたしを妊娠していたからです。姉が産まれたばかりの頃は、母は既に妊婦でしたから」


 リィンが産まれたとき、姉レリアは既に一歳が近かった。

 産まれたばかりの赤ん坊を可愛いとも思えなかった母だったが、それまでは関わることがなく、一歳近くまで成長した姉は可愛らしく思えたらしい。

 母にとって最も煩わしい時期は、産まれた直後であったらしい。

 

 兄と同様にレリアとリィンも引き取ろうと祖父はしたらしいのだが、母はレリアだけは手放さなかった。

 代わりに、産まれたばかりのリィンは「どうぞご自由に」と躊躇うこともなく引き渡したそうだ。

 

「それは……」


 淡々と説明するリィンに、ル・ナン公爵令嬢が言葉を失う。


「あ、大丈夫です。ご心配には及びません。兄も同様の立場ですので、親から捨てられたなどという感傷は殆どないのです」


 姉レリアは頑として引き渡さず己の手元に置いた母が、リィンはいとも簡単に手放した。

 それは母から捨てられたようなものなのかもしれないけれど、それを悲しいとも寂しいともリィンは思っていない。

 

 そもそも記憶にないし、記憶にある両親は既にリィンにとってろくでもない人たち、という認識でしかないのだから。

 

 ただ、問題はそこではない。

 ウィルコール男爵家には、抱え込んだ大きな問題がある。兄はそれを何とかしたくて、けれど方法がどうにもなくて、藁にもすがる思いでこのお茶会に託したのではないかと、リィンはそんなふうに思いながら、続きを説明すべき口を開いた。

 

 男爵家の、隠された愚かしいまでの事実を。



 ***

 

 

「皆さまは、十八年前の件はご存知でしょうか?」


 尋ねたリィンに、三人は揃って顔を見合わせる。

 なるほど、あの件はやはりなかったこと・・・・・・にされているようだ。

 

「十八年前、グラフトン侯爵家から末子が追放されました」


 その一言に、ブラッドリー王子だけが僅かに眉を寄せた。

 どうやら彼は知っていて、そこで記憶に思い当たったらしい。

 ウィルコール男爵家という名前でも、グラフトン侯爵家という名前でも、その末子という事実であっても思い出すには至らなかったが、流石に追放という言葉で思い当たったのだろう。

 

「理由は、婚約者であった侯爵令嬢を裏切って不貞を働き、男爵令嬢との間に子を為したから、でした」

「そうか……その男爵令嬢が、ウィルコール男爵令嬢だったということか」

「はい。父は当時、婿入り予定であった侯爵令嬢を蔑ろにし、母との間に“真実の愛”を育んだと主張したそうです」


 グラフトン侯爵家には、優秀な嫡男がいた。現侯爵である父の長兄、つまりリィンにとっての伯父である。

 父の次兄は自ら騎士として身を立て、三兄は長兄の補佐として領地の管財人を務めている。それ以前は、非常に優秀な文官として王宮に勤めていたらしい。

 

 優秀な兄たちの背中を見て育ったはずの末子は、しかし母に溺愛されて兄たちを見習うような育ち方はしなかったようだ。

 兄たちは父の下で厳しく教育を受けて育ったのだが、末子だけは母が溺愛し真綿に包むようにして育てたという。

 

 母、つまりリィンにとって祖母にあたる人は、政略によって嫁いで来た隣国の王家所縁でもある高貴な女性であった。

 彼女は見知らぬ異国の地で子を産み、しかし自らの手で育てることは叶わず、夫である人は常に多忙な上にひどく厳格という中で、最後に産まれた末子を異常なほどに溺愛していた。

 幼い子が泣きやまなければ世話をしていた乳母は容赦なく解雇したし、長じて教育を受けるようになると子どもが少しでも嫌がる教師は即座に解雇した。

 

 ひとつも嫌な思いをせずにいられるように。ただひたすらに、幸せであるように。

 

 祖母の愛情はやがて、父を歪めていったのだろうとリィンは思う。

 

「当然ながら婿入りの話はなくなり、祖父は多額の賠償を相手方にお支払いしたそうです」


 その上で、父を男爵令嬢と娶せた上で侯爵家から追放し、二度と侯爵家を名乗ることを禁じた。

 そうやって何とか、相手方の侯爵家との話をまとめた。

 

 不出来な末子の存在そのものをなかったことにすることで、起きてしまった事実もなかったことにしたのだ。

 

 当然、末子を溺愛していた祖母は猛反対したそうだが、彼女は今、領地の片隅にある邸宅で静かにひとり暮らしている。

 自国から連れてきていた侍女たちにも先立たれ、全く関わることのなかった息子たちは勿論、あれほど溺愛していた末子にさえ顧みられることもなく。

 

「本来ならば、それで終わりだったのでしょうけれど……」


 正直、思うところは尽きない。

 育ててもらった恩があるために強くは言えないが、祖父のやりようも如何なものかと思う。それと同時に、とても貴族的であるとも思うし、もしかして何もかもをなかったことにしてしまおうとしたのは、末子に対する祖父のなけなしの愛情でもあったのかもしれない、とも思う。

 全てを明かしてしまえば確かにグラフトン侯爵家も無傷では済まないが、何よりも傷を負うのは、当事者である末子であり、ウィルコール男爵令嬢であったはずだ。ウィルコール男爵家は、あのときを境に没落していてもおかしくなかったが、今の時点で平凡な男爵家のままでいられている。

 

 実はそれが、祖父から父への、僅かながらであっても愛情であったのかもしれない。

 それを再び没落へと導こうとしているのが、他ならぬ父であり、その父が愛した男爵令嬢であった母であり、彼らが溺愛した娘であるのだから、皮肉なものではあるけれど。

 

 だが、問題はそこではない。本当に問題であるのは。

 

 続きを話そうと、リィンは口を開こうとした。

 けれど、ふと過ぎる。

 

 これを話しても良いのだろうか、という疑問が。

 きっと兄は、それを前提としてララの兄である友人のドリューウェット伯爵令息を通じて、リィンと目の前の彼らとの場を設けた。リィンはそう思う。

 そう、思うのだけれど。

 

 でも、もし違っていたら?

 兄アルベリクが、ドリューウェット伯爵令息にどこまで話しているのか、リィンは知らない。アルベリクの本当の意図を、直接聞いた訳ではないのだ。

 

 どくん、と心臓が脈打つ。

 

 これは……これだけは、不用意に漏らして良い内容ではない。

 もしも判断を間違えたなら、後に待つのは破滅どころでは済まない可能性もある。

 

 兄が、アルベリクが。たったひとり、リィンと境遇を同じくする、唯一の家族が。

 

 どうなってしまうか、分からない。

 

 ひゅう、っと喉が鳴った。開こうとした口元が、震えた。どくんどくんと脈打つ心臓が、鼓膜を直接揺さぶってくるようだ。

 そして、やがて。

 

 リィンは、自分の呼吸が滞るのを感じた。



 ***

 

 

 ガターン!と音を立てて、リィン・ウィルコールの座っていた椅子が倒れ込んだ。

 

「レディ・ウィルコール!?」


 それまで淡々と話し続けていた彼女が、何かを言おうとしてひどく躊躇しているのは見ていれば分かった。

 話の続きを待つうちに、やがて徐々にリィン・ウィルコールの呼吸が荒くなり、そして途中からまともに呼吸が出来ていない状態になりながら倒れ込んでしまったのだ。

 

 慌てて立ち上がったアストリーが倒れ込んだ彼女に駆け寄ろうとしたが、それよりも早く彼女を抱き起こす人影があった。

 

「お嬢様!? どうしました!?」

「マ……ティス、な、ん……で……?」

「あぁ! しゃべらなくて良いです! とりあえず息を吸って! ゆっくり、ゆっくり吐いてください!」


 人影は、馬車にて待機していたはずの彼女の侍従だった。

 椅子から転げ落ちるかのように倒れ込んだリィン・ウィルコールを抱え、背をさすりながら呼吸のタイミングを指示している。

 

 たまに、緊張の余りこういった状態に陥る令嬢を見かけることがある。社交デビューを果たした直後の、若い令嬢に多いのだという。

 緊張と過度のストレスから、一気に呼吸の仕方を忘れたかのような状態になってしまうのだ。

 そのため、令嬢に仕える使用人はそういった際の対処法を覚えるのだというが、それにしても鮮やかな手際であった。

 

「ブラッドリー・ユナ・ガルド王子殿下に申し上げます」


 思わずその手際の良さに不謹慎にも見惚れていたブラッドリーは、侍従からの声にはっと我に返る。

 

「良い、発言を許可しよう」

「はっ。恐れながらお嬢様の退席を、ご許可願います」


 本来ならばすぐにでも連れ出し介抱したいであろうに、侍従は彼女の背をゆっくりと呼吸を促す為に撫でながら低頭して申し出た。

 

「いや、早急に医師に診せた方が良いだろう。ジョゼット、頼めるか?」

「無論でございます」


 呼び出したのはブラッドリーの婚約者であるジョゼットで、ここはル・ナン公爵家だ。

 速やかにジョゼットが指示を出し、公爵家の使用人たちが動き出す。

 

「……アストリー、あれは緊張から来るものだと思うか?」


 侍従に抱え上げられ、公爵家の使用人に誘導されて部屋を辞していくリィン・ウィルコールを見つめながら、傍らで不安気に瞳を揺らす友に尋ねる。

 

「いえ、それまでレディ・ウィルコールは冷静に話を進めていました。緊張がなかったとは思いませんが、急激に極度の緊張状態になるとは考えにくいかと」

「そうだよな……」


 第一王子であるブラッドリーをはじめ、ル・ナン公爵令嬢とオールボート公爵子息という面々に囲まれ、男爵令嬢に緊張するなという方が無茶である。

 全ての良識を放り出したかのような彼女の姉であればまだしも、彼女自身は極めて当たり前の認識を持った、真っ当な貴族令嬢だ。当たり前のように、極度の緊張状態にはあっただろう。

 

 だが、それまでの彼女は緊張状態でありながらも、きちんと話をすることが出来ていた。


「あの先で、彼女は何を言おうとしていたのだろうな」

「分かりかねますが……ドリューウェットが言うには、彼女の兄が、何らかの事情を抱えているのは間違いない、とのことでした」

「兄……か」


 十八年前の、グラフトン侯爵家末子の追放劇。

 

 それは、ブラッドリーもいつだったか話を聞いたことはある。

 臣下の一人が犯した、愚かな行動の結末として。


「アストリー、お前はウィルコール男爵子息に会ったことはあるか?」

「いえ、学園も入れ替わりでしたので。在学時も、さほど社交的ではなかったと聞いています」


 リィン・ウィルコールは、本来ならばそれで終わりだった、と言った。

 それはつまり、彼女の知る中で、あの一件は未だ終わったものではない、ということだ。

 

「ジョゼット、君はどう思う?」

「分かりかねますが……予想はつかなくもありません。ですが、不用意に口にすることも憚られますわ」


 使用人に指示を出し終えた婚約者に尋ねてみるが、聡明な婚約者は明言を避けた。

 

「奇遇だな、僕もだよ」


 ブラットリーは、呻くように同意を示した。

 傍らで僅かに視線を伏せた、将来的に側近になるであろう友人であり理解者でもあるアストリーもまた、胸中にあったのは恐らく同意であっただろう。

 

 軽く頭を振ったブラットリーは「ところで」と話を切り替える。

 

「あの侍従は、馬車で待機していたのではなかったのか?」

「えぇ、そのようでしたが、あるじが心配だったようで我が家の使用人に頼み込み、監視下にて扉前に待機していたようです」

「なるほど……珍しいな」

「申し訳ございません、使用人には言い聞かせておきます」

「あぁ、何もなかったから責は問わないが、以後は改めるように言っておいてくれ」


 ジョゼットが頭を下げた。

 

 仮に緊急の事情があったにせよ、本来ならば室内にいるはずのない人物が室内に乱入することは有り得ない。

 この場にいるのは、第一王子と二つの公爵家の令嬢と令息だ。

 もしも、あの侍従が悪意を持った何者かであったならば、あの瞬間にブラットリーに危害を加えることさえ出来ただろう。捨て身の覚悟があったなら。

 

 本来ならば、公爵家に仕える優秀な使用人たちが、そのような愚を犯すはずもない。

 彼らは、第一王子の婚約者であるジョゼットに仕える身として、公爵家の使用人として、そのあたりは弁えているはずなのが。


ほだされるほどに、必死だったということか……」


 優秀なはずの使用人たちが絆され扉前での待機を認めるほど、その場に飛び込み主に駆け寄ることを止められぬほど、あの侍従が必死であった、ということだろう。

 侍従自身、知られたら咎められかねない暴挙であり、果てはリィン・ウィルコール自身やウィルコール男爵家そのものにも責を負わされそうな行動ではあるが、それでも尚、彼は主の身を案じた。

 それは恐らく、彼女が続きを話そうとした事実が、それだけ危ういものであり重要なことであるから、なのかもしれなかった。

 

「……ふむ」


 暫し考え込んだブラットリーは、やがて顔を上げアストリーを呼んだ。

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