第7話 兄妹、ウィルコール男爵家 ①
何の変哲もない、毛足の短い無地の絨毯の上をマティスは歩く。
深緑色のそれはかなり以前から、この邸内の廊下に敷き詰められていた絨毯だ。幾度も踏みしめられた絨毯は、それでもしっかりとした厚みでもって彼の足取りを支えている。
「あら、マティス。こんなところにいたのね」
淡々とした足取りで廊下を歩いていたマティスの耳にざわりと触れたのは、どこか粘性を帯びた女の声だった。
その粘性が、表現を変えれば媚と呼ばれるものであることを、マティスは知っている。
「何の用だ、ヨハンナ」
ちらりと一瞥しただけで視線を前に戻したマティスに、ヨハンナは僅かに表情を歪めた。
「レリアお嬢様が、貴方をお呼びよ。そんなもの後回しで良いから、お嬢様のところへ来てちょうだい」
「断る」
「……なっ!?」
表情を取り繕ったはずのヨハンナが、今度は盛大に顔を歪めた。
「俺は、リィンお嬢様の侍従だ。姉君に従う義務はない」
「レリアお嬢様がお呼びなのよ!?」
「だから、何だって言うんだ? 俺には用はない」
レリアは、自分付の侍女であるヨハンナを通じて事あるごとにこうやってマティスを呼び出そうとする。
何の用であるのか、一度も応じたことがないので知る由もないが、断られるたびに戻って報告するヨハンナに対してレリアが癇癪を起こしているらしい、という話は聞いたことはある。
だからと言って、なだめるのはマティスの役割ではないと思っているので、どうでも良いが。
「ねぇ、マティス?」
歩みを緩めることさえしないマティスの隣を、少し早足になりながら並びつつ、ヨハンナが軽く上目遣いでマティスを見上げる。
「レリアお嬢様と、どちらについた方が有利かなんて、簡単に分かるでしょう?」
「興味ないな」
一言で切り捨てると、マティスは尚も何かを言いながら追いすがろうとするヨハンナを無視して、歩調を速めた。
裾の長いお仕着せを着たヨハンナは、彼の歩調についてくることが出来ずに何やら背後で喚いていたが、聞くつもりなどなかった。
まったく、どうしようもない家だ。
それが、マティスにとって素直な感想である。
とんでもない内容で娘を唆す当主と、何の疑問を持たずにそれを煽る夫人、そして簡単にその気になってしまう上の娘。
愚かすぎる家人たちだが、そこに追従する使用人も、どうしようもないとしか言えない。
ヨハンナなどは、その筆頭だろう。レリア付の侍女だが、彼女はとにかく主人であるレリアをおだてることと、その命令に従うことしかしない。そうしておけば、この家での立場は安泰であると信じている。
まぁあながち、男爵家の中に限って言うならば、ヨハンナの選択は間違っていない。
おもねるのであれば、当主夫妻から冷遇されているアルベリクやリィンではなく、溺愛されているレリアを選ぶべきだろう。
ただ、あの当主夫妻である限り、男爵家そのものが泥舟でしかないのだが。
「お嬢様、気分はどうですか?」
「あら、マティス。何か騒がしかったけど、何かあったの?」
「何でしょうね。ネズミでも騒いでたんですかね」
「明らかに人の声だったけれどね」
私室でゆったりと髪を下ろして寝台に上半身を起こしただけのリィンが、呆れたような笑みを見せる。
「まぁ、いつものことですよ。相変わらずなようですから」
言いながら、運んできたティーセットをテーブルに並べる。
公爵邸での茶会から帰宅した時、リィンはまだ意識は戻っていなかった。
だが、公爵家の侍医の診断を終え、ただ気を失っているだけだから馬車で帰宅しても問題はないと言われ、マティスはすぐに彼女を男爵邸へと連れ帰った。
居心地が良いとは言えない男爵邸だが、何がどうなるか分からない公爵邸にいつまでも世話になる訳にもいかない。
リィンを抱えて帰宅したマティスに、アルベリクはこの世の終わりであるかのように慌て、事情を聞いてへたり込みながら安堵の息を漏らしていた。
当主夫妻と姉に関しては、そもそもリィンが公爵邸の茶会に呼ばれたことすらも、もしかしたら知らないかもしれない。
「今日一日は、大人しく寝とけってアルベリク様のご指示なんで。大人しくしといてくださいね」
「わたし、いつもそれなりに大人しいと思うんだけど」
「一度、大人しいの定義についてきちんと調べてみます?」
「失礼なことを」
くっくっと笑うマティスは、用意したハーブティーを寝台の上のリィンに差し出した。
「あぁ、いい香りね」
「カモミールです。鎮静効果があるそうで、落ち着かれたら是非にと公爵家の侍女の方から頂きました」
「ル・ナン公爵家にはご迷惑をおかけしたわね……お詫びのお手紙を書かなきゃ」
カップから漂う香りに目を細めたリィンは、ほぅと息を漏らす。
柔らかい湯気そのものが、身体を包み込んでくれるかのようだ。
「そうした方が良いかもですねぇ。俺も迷惑かけましたし」
「本当よね……心配してくれたのはありがたいけど、二度とやらないでね?」
「ですね。ウィルコール家にも迷惑かけてしまいますし」
マティスの答えに、ゆっくりと立ち上るカモミールの香りを楽しんでいたリィンが、ぴくんと眉を上げる。
「それもそうだけど……それより、マティスが罰せられる方が心配だわ。もう無茶しないでよね」
眉を寄せ、顔をしかめるリィンは、先ほどのヨハンナとはえらい違いだ。
顔を歪めている、ということ自体は同じようなことであるのに、受ける印象が全く違う。
心からマティスの身を案じ、だから表情が歪んでいるのだとすぐに分かる。
「……善処します」
「全力を尽くしなさい」
返した言葉はお気に召す内容ではなかったらしく、更に表情を歪められてしまったが、それでもやはり、ヨハンナに感じたような見苦しさをリィンから感じることはなかった。
***
「お兄さまは大丈夫かしら……?」
ハーブティーのカップを手に、リィンが声を僅かに揺らしながら呟いた。
兄が王宮に召し出されたという話は、目覚めてからしばらくして落ち着いた頃にマティスから聞かされた。
そうなるだろうとは思っていたし、事実を告げるなら兄アルベリクが第一王子に対面しての方が、真実も伝わるし説得力もある。何せ、リィンは見たことがないけれど、兄の顔は現王弟に瓜二つであるというのだから。
だから取り乱しはしなかったが、それから不安が消え去ることもない。
「お兄さまは、覚悟していたでしょうけれど」
「でしょうね。ドリューウェット伯爵令息にあらかじめ相談していたようですし」
恐らく兄は、入学式の前夜にあのとんでもない父の唆しを知ってすぐ、ドリューウェット伯爵令息に連絡を取ったのだろう。事情を知り、信頼の置ける唯一の友人に。
祖父は、間違いなく助けにはならない。
あの人は兄アルベリクとリィンを引き取って育ててくれたが、それは単に息子夫妻が育児を放棄している事実が知られたら、自らの立場もそれなりに悪くなるからだ。
父の実家であるグラフトン侯爵家を慮って大々的に噂されていないとは言え、ウィルコール男爵夫妻の婚姻に至るまでの経緯は褒められたものではない。これ以上、耳目を集めたくはなかった。ただそれだけだ。
仮に王家がアルベリクの事情を知り、その存在に対してどのように選択を下したとしても、祖父は粛々と従うだろう。
それが貴族として、正しい手法なのだから。
兄には、友人しか頼れる先がなかった。自分に状況を打破する力など、到底ないままに。
「ララにも、ドリューウェット伯爵令息にも感謝しているけれど……」
出来ることなら、目立たぬようにひそやかに、貴族社会から断絶されたところで兄妹ひっそりと生きていたかった。
求めるのは栄達でもなければ名誉でもなく、ただ平穏だった。
兄の出自をリィンが正確に知ったのは兄の学園在学中にアルベリクから聞かされてであったが、そこから兄妹の願いは変わっていない。平穏に生きたい。それだけ。
「本ッ当、余計なことばっかりして……ッ!」
高まった不安は、苛立ちにすり替わる。
そもそも、あの両親が姉を分不相応に唆し、姉がいとも容易くそれに乗っかって行動に出たから、一気に事態が進んだのだ。
あの人たちが何もしなくても、いつかは兄の出自が知られる日は来たのかもしれないが、少なくとも加速させたのは間違いない。
ひっそりと生きていたいという兄とリィンの願いは、あの人たちのせいで打ち砕かれたようなものだ。
「権力欲と自己顕示欲は一級品ですからねぇ、あの人たち」
他は何にもないですけど。
しれっとマティスが肩をすくめるが、リィンはたしなめる気も起きない。
今さらでしかない。
「そのあたりは、血筋を感じますが」
とは言え、マティスは前侯爵に対しても充分不敬なので、それはそれで、といったところだが。
ただ、血筋であるのは確かなのかもしれない。
「お父さまは、ご自分が侯爵家の出であることを忘れられないようだから……」
父は、その記憶があるからこそ、権力欲が強い。
何としてでも成り上がって、あの頃のような栄華に包まれた暮らしをしたいという欲求が、そこにはある。
その手段が、高位貴族の令息に近付いて誑かせと娘を唆すこと、というあたりは何とも言えず苦い顔をするしかないが。
「とうの昔に絶縁されてますけどね」
「それでも、記憶から消えてないんでしょう。お母さまも、きっとそうね」
母はウィルコール男爵家の令嬢として産まれ、ずっと男爵家の暮らしをしてきたはずだが、学生時代は高位貴族の令息らからちやほやされ、たいそう優雅な生活を送っていたようだ。
その華やかさが忘れられず、娘を煽ってでももう一度あの暮らしを取り戻したいのかもしれない。
いずれにせよ、手法が手法である上に、それらを放り出して“真実の愛”とやらを貫いたというのが、彼らの現在であるはずなのだが。
「お兄さま……どうかご無事で……」
再び、不安が胸にせり上がってくる。
普段は軽口を叩くし、何だったら今回の件も最初は全部リィンに丸投げしやがって!と憤ったりもしたけれど、しかし実際はしっかりと手を回してくれていた兄は、リィンにとって唯一の身内である。
両親も姉も理解しようにも理解出来ない人たちであるし、祖父にも育ててくれた恩はあれどそれ以上の何も感じたりはしない。
境遇を同じくする兄だけが、リィンにとっては身内であり、たった一人の家族だった。
ブラットリー第一王子は、決して問答無用とばかりに兄を処断してしまうような人ではないと会った限りでは思えたが、だからと言って王家がどのような判断を下すかは分からない。
ただ祈ることしか出来ないリィンには、その時間は途方もなく長く感じるような時間であった。
ただ、良いのか悪いのか、それもまたすぐに、理解出来ない人々によってぶち壊されてしまうのだけれど。
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