第19話 崩落、真実の愛の末路 ②
どうしたらここまで、思考が捻じ曲がるのだろう。
「酷いわ、リィン……。わたくしはただ、マティスを自由にしてあげたいだけなのに……」
「あぁ、レリア。そんな使用人の為に心を痛めて……君はなんて優しいんだ」
泣き崩れるレリアを、ポール・ヒギンズ伯爵令息がそっと抱き止める。
「……何であれで、信じられるのかしら……?」
思わず、といった口調でララが呟いた。
ララの主張は、何も筋が通っていない。
彼女が何を言おうと、そして仮に、もしも万が一マティスがリィンではなくレリアに仕えたいと口にしていたとしても、それでもこの主張には意味なんてないのだ。
マティスの雇用主は元々は祖父である前グラフトン侯爵で、現在は伯父である現グラフトン侯爵だ。たとえウィルコール男爵家の邸内に勤めていたとしても、その人事権の一切はグラフトン侯爵家にある。
マティスの配置換えを望むなら、リィンではなくグラフトン侯爵に訴えるべきなのだ。
それは雇用主がグラフトン侯爵であるという時点で、ポールにも伝わっていて然るべきのはずなのだが、彼はレリアを抱きとめながら忌々しげにリィンを睨み付けている。
レリアの思考も理解出来ないが、元々そうだということは分かっているし、話が通じないのも今さらだ。
だが、どうやったらこうも、関わる男性の思考まで狂わせられるのだろう。
ポールもそうだが、ランドルフ・スペンサー侯爵令息も、だ。
それとも、そういう思考の男性を選び取るのが上手いのだろうか。
いや、でも最初に近付こうとしたのはブラットリー王子で、アストリーも公爵令息だから近寄ろうとしていたらしいが、どちらにも相手にされずに終わっている。
ならば結局、そういう思考になりやすい男性だけがレリアを傍に近付けているのかもしれない。
「そういえば、ヒギンズ伯爵令息に婚約者の方って……?」
「いらっしゃるわよ。確か、サーラ伯爵家のご令嬢だったと思うわ」
リィンの疑問に、ララがうんざりと首を振りながら答えた。
そんな彼女がレリアとポールに向ける視線は、もはや穢らわしいものを見るかのような視線にさえなっている。
「ポール様、怖い……。ララ様が、わたくしを睨んでいるわ」
「なんてことだ、ドリューウェット! そのような目でレリアを見るな! レリアが可哀想だろう!」
ひくり、とララの頬が一瞬引き攣ったように、リィンには見えた。
すぐに
あぁ……怒ってるわ、これ。
人間、自分より更に感情が高ぶった相手が隣にいると、不思議と冷静になってしまうものらしい。
それまでマティスの件でレリアに対して強く怒りを覚えていたリィンではあったが、ララを見ていると、背筋がぞわりと粟立つような、そんな気分にさせられて、怒りがすぅっと引いていく気がした。
「見るなと言われましても、こちらとしても見たくなんてないのですけれど」
「……なっ! なんて失礼な物言いだ、ドリューウェット!」
「だってそうでしょう? 婚約者のいる男性が、婚約者でもない女性を抱きしめている様なんて、誰が見たいと思うのです?」
ドリューウェット、と、家名を敬称もなく呼び捨てられることで、ララの怒りが更に深くなっていくように見える。
伯爵家同士、爵位としては同格であるとは言え、礼儀上、家名を呼び捨てることは格上から格下にしか許されないことである。この状況で呼び捨てるということは、ポールは無意識のうちにララを格下と見なしている、という証左でもあろう。
そういえば、レリアもララを名前で呼んでいた。流石に敬称は付けていたが、家名ではなく名前を呼ぶことは親しい相手にしか許されない。
リィンはララから直接許されているけれど、格下も格下な、平凡極まりない男爵家の令嬢が、伯爵令嬢を許可なく名前で呼ぶなどと……。
ララの、完璧に淑やかな微笑と、反するようにぴくりと釣り上がる優美な眉が、どうしてだろう、家庭教師のミセス・ウラリーを思い起こさせた。
「ララ……人が集まってるわ」
こっそりとリィンが、ララに囁く。
忘れかけていたが、ここは学園のエントランスだ。
馬車から降りて本棟に向かおうとしている学生たちが必ず通る場所で、朝は皆が一斉に登校してくるせいで人が多い。
何事かと、騒ぎに集まる野次馬のような学生たちが増え始めていた。
「そうね、切り上げた方が良いかもしれないわね。何せ、婚約者でもない女性と抱き合ってるようなみっともない姿、いつまでも皆さまに晒す訳には参りませんものね?」
にっこりと、ララが微笑む。
それはララの気遣いだったのか、優しさだったのか。
「酷いわ、ララ様! みっともないだなんて!」
……どうやら、煽りだったらしい。
「あら、未婚の男女が人前で抱き合うだけでもはしたない姿ですのに、婚約者でもない者同士だなんてみっともない以外に、どう表現すればよろしいの?」
「みっともなくなんかないわ! わたくしとポールには、“真実の愛”があるのだもの!」
すぅっとララの顔から表情が消え失せた。
伯爵令嬢として、未来の公爵夫人として、それまで顔に貼り付けていた淑やかな微笑みが、すとんと抜け落ちる。
「まぁ、“真実の愛”とやらは随分とお安いものですのね」
「酷い、何でそんなこと言うの? わたくしは本当に……」
「では、スペンサー侯爵令息はどうなさいましたの?」
無表情のララが、レリアの言葉を遮る。
その言葉にハッとした表情を見せたのは、レリアではなくポールだった。
「スペンサー侯爵令息に擦り寄って、自分たちこそが“真実の愛”などと
すっと一歩前に出たララに気圧されるように、じわりとポールが一歩分後退する。
抱き合っていたレリアは、離れようとするポールに気付き、慌てて距離を詰めていた。
「スペンサー侯爵令息が謹慎となった途端、次に家格の高いヒギンズ伯爵令息と今度は“真実の愛”だと叫ぶ」
どうやら、ランドルフ・スペンサー侯爵令息は、謹慎処分になっているらしい。
リィンが攫われたことや、エヴァット侯爵家に関わることについては未だ公表はされていないが、あの場に重臣として立ち会っていたスペンサー侯爵が事態を重く見たのだろう。
そして、ランドルフが学園に現れなくなり、謹慎させられているという話を聞いたレリアは、即座に自分と親しい男子学生の中からスペンサー侯爵令息の次に家格の高い、ヒギンズ伯爵令息と恋人のように寄り添った。
言ってみればそれは、実に忠実に両親の言った「高位貴族の令息を誑かせ」という言葉に従った行動ではあったものの。
「そのような“真実の愛”に、何の価値がありますか?」
問いかけの口調でありながら無価値を断じるララの言葉に、集まりつつあった野次馬の学生たちも、同意して頷いていた。
***
「酷いわ、酷い……言ったでしょう、リィン? わたくしはマティスを自由にしてあげたいだけなの。それなのにこんな……ララ様まで使って邪魔するだなんて……」
「だからマティスはわたしの侍従だと言ってますし、わたしはララを使ってなんていません」
むしろ、使えるような相手じゃないと思う。
にべもなく言い切ったリィンに、尚も言い募ろうとレリアが口を開いた時。
「こんなところで何をやっているんだい?」
「あら、アス……」
「アストリー様ぁ!」
掛けられた声にララが反応しようとして、甲高いレリアの声に遮られた。
ゆったりとした歩調で現れたアストリー・オールボート公爵令息は、ちらりとレリアに視線を向けたがただそれだけで、真っ直ぐにララの元へと歩み寄る。
「ごめんなさい、アストリー様。お見苦しいところをお見せしてしまって」
「いや、大丈夫だよ。ララが、毅然としていてとても美しかったから」
謝罪に軽く頭を下げるララに対するアストリーの声や眼差しは、ひどく甘い。
学園内で表立って連れ立つことの少ない二人ではあるが、オールボート公爵邸に匿われお世話になっている身であるリィンには見慣れた光景でもある。
だが、周囲に集まった学生らにとっては、意外な光景だったらしい。驚いた顔が幾つも見受けられる。
まだ大体的な公表はしていないらしいので、そのせいもあるだろう。驚いた様子の見えない学生たちは、ある程度事情を知る、高位貴族の子女たちだろうか。高位貴族であれば、オールボート公爵家の婚約事情ぐらいは把握しているだろうから。
そして、把握していないのはレリアも同じだったらしい。
可憐な容貌で、ぽかんと口を開けている姉を横目で見て、リィンは僅かに顔を伏せて唇を噛んだ。
伏せた瞼の裏に、グレース・エヴァット侯爵令嬢の憎しみを宿した眼差しが思い浮かぶ。
多少気が強くともしっかりとした人格者であった彼女をああも駆り立てたのは、きっと
彼女がスペンサー侯爵令息に恋慕を抱いていたのかどうかなど知らないが、たとえ抱いていなかったとしても、婚約者がいながら擦り寄ってくる令嬢に心を委ねる令息も、婚約者がいると分かっていて近付く令嬢も、彼女にとって許し難いものであるのは当たり前で。
それは、レリアがスペンサー侯爵令息に擦り寄ったりしなければ、起きなかった。
もし、両親がレリアを唆した直後に、リィンがちゃんと対応出来ていれば。
リィンの話など聞く気もない両親やレリアを説得出来たとは今でも思えないけれど、知っていて何も出来なかった自分自身を後悔が苛む。
そして、それと同時に、元凶となっていながらスペンサー侯爵令息が謹慎になった途端に見切りをつけてヒギンズ伯爵令息に乗り換えただけなく、未だ機会さえあればオールボート公爵令息に擦り寄ろうとしているのが垣間見えるレリアが……もはや、身内だと思うことすら恥ずべきことであるかのように、思えてならなかった。
「……お嬢様、唇噛むと傷になるんでやめてください」
ふと、耳元でひっそりと囁かれ、慌ててリィンは顔を上げる。
いつの間に現れていたのか、そもそも学園にいるはずのないマティスが、まるで宥めようとするかのようにリィンの背中に手を添えて立っていた。
「え、どうしたの、マティス……?」
「オールボート様から頼まれまして、同行です。アルベルク様の代わりですね」
きょとんとして見上げたリィンに、マティスが微笑む。
その微笑みにほろりと心が解けていくような気がして、リィンはほっと全身に入っていた力を抜いた。
「マティス! マティス来てくれたのね! わたくし怖くて……ッ!」
リィンの傍らに立ったマティスに気付いたレリアが、ポール・ヒギンズ伯爵令息の腕に縋り付きながら声を上げる。
ポールは、ララに気圧された上に、格上であるオールボート公爵家のアストリーが現れたことで、その場を立ち去りたいのかうろうろと視線を彷徨わせているが、レリアにしっかりと縋り付かれたままなせいで身動きが取れないようだった。
「何の話か分かりかねますが、私はリィンお嬢様のためにここに来たのであって、貴女の為ではありません」
「あぁ、マティス。きっと、リィンにそう言えと言われているのね。大丈夫、わたくしがいるから心配しなくても良いのよ?」
「本当に何の話か分かりかねますが……オールボート様、時間の無駄ですので早く終わらせた方が良いのでは?」
半眼になりながらレリアを見やったマティスは、言葉の後半をアストリーへと差し向ける。
「そうだね、時間が勿体ないし、さっさと終わらせてしまおうか」
「アストリー様……? 一体何をですの?」
流石に不穏な気配を感じ取ったのか、おずおずとレリアが尋ねる。
ララを軽く抱き寄せたままのアストリーは、にっこりと笑みを深くした。
「レリア・ウィルコール、君への断罪を、だよ」
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