第15話 裁可、婚約破棄の行末 ①
身支度を整えたリィンは、室内に鳴ったノックの音に応答を返した。
「そろそろ時間のようですよ、お嬢様」
未だに見慣れない明るい印象の室内に合った上品な装飾の扉から、実に良く見慣れた顔が現れる。
「もうそんな時間なの?」
「えぇ、アルベルク様は既にエントランスにてお待ちです」
「じゃあ急がなきゃね。手を貸してもらえる?」
ソファに腰掛けていたリィンに、マティスが手を差し出した。
その手を頼り、未だ少し痛む膝や足首を気遣いながらリィンは立ち上がった。
あの日から、二週間。
リィンの負った傷は、骨には異常がなかったものの重度の打撲だった。公爵家で適切な治療を受け、今となっては直後より随分と痛みが薄れてはいるが、それでも動かす為に力を入れると、各所に痛みが走る。
結構なかなかの負傷だった上に、日頃殆ど運動らしい運動をしない貴族令嬢が一気に動いたせいで、極度の筋肉痛に数日は苦しんだ。
結局、事態が片付くまでオールボート公爵家に滞在するようブラットリー王子から厳命されていたけれど、それ以前の問題としてリィンがまともに動くことが出来ずに二週間もの日数が経過してしまっていた。
今日は、そのブラットリー王子からの招聘があり、同じく公爵家に滞在し続けている兄と共に登城することになっていた。
「おや、制服で行くんだ?」
「勘弁してください、お兄さま。今のわたしでコルセットなんて着けたら、淑女失格どころじゃなく叫びます」
「あぁ……そうか、肩の傷に響きそうだな……」
「あと、ドレスの重みでたぶん歩けません」
何とか歩けるようにはなっていて、日常生活にもそれほど支障が出ない程度には回復しているが、正直なところドレスを着て動けるほどの自信はない。
淑女教育の一環として家庭教師のミセス・ウラリーが用意したものを授業で着たぐらいしか経験はないが、改めて思い起こすとあれはなかなかの重量だった。
もしかしたら、日頃からドレスを着るような生活をしていたら逆にトレーニングになって、もう少し体力がついていたかもしれない、と思えてしまう程度には。
今の状態で一式着たら、間違いなくリィンは潰れるだろうけれど。そんな回復力は、リィンにはなかった。
「はぁ……気が進まないけど、まぁ行くかな……」
「お兄さま……その発言は些か不敬かと……」
仮にも第一王子殿下からの招聘に、何を言うのか。
思わずきょろきょろと周囲を見渡してしまったリィンだったが、アルベルクはひょいと肩をすくめた。
「大丈夫、今日の用件は既に聞いてるけど、気が進まないのは当たり前だから」
「一体、何があるのですか?」
ブラットリー王子からの招聘である、とは聞いているけれど、それ以上のことはリィンは聞かされていなかった。
アルベルクが、ひどく嫌そうな表情で顔をしかめた。
「二週間前のことについて、陛下への上奏だそうだ」
「……え?」
「リィンは被害者なんだから勘弁してくれって言ったんだけど、頼むから同席してくれって言われてね……断れなかった。ごめん」
「いえ、というか、王子殿下からの招聘を断らないでください」
何を平然と、王家からの直接の招聘を断ろうとしているのか。思わず半眼になったリィンだが、アルベルクは尚も不服そうな顔をしていた。
「リィンは怖い思いをしたんだ。わざわざ思い出させるようなことをする必要はない」
それは妹を思う兄の言葉だったが、当の本人であるリィンは兄の手を借りて公爵家の馬車に乗り込みながら、はて?と思う。
確かに、あの時は怖かった。恐怖でどうにかなりそうだった。
それは事実で、その感覚をリィンは忘れてはいないのだけれど。
馬車に乗り込んだリィンは、小窓からふと振り返る。向けた視線の先には、見送りの為に佇む専属侍従の姿があった。
「……怖かったですけど、今はそうでもないです」
疑いの視線を向けてくる兄に、リィンは小さく笑ってみせた。
怖かった。確かにそれは事実。恐怖で一色に塗り潰される感情というものを、リィンは初めて経験した。出来ることなら、一生経験したくないようなものだった。
だけど、それは今、うっすらとしか思い出せない。
恐怖も痛みと同じく、あの時は全身を苛むようであったけれど、着実に薄れていっていると思える。
「わたしなら大丈夫です、お兄さま」
あの日の恐怖の記憶よりも、焦ったようにリィンを呼んで走り寄ってくる声の方が、記憶により鮮明に刻まれているから。
目覚めてから後も、今までと全く変わらず常に傍らにいてくれる存在を、はっきりと覚えているから。
たとえ再びあの時を思い出して恐怖したとしても、帰ったら必ず彼がいてくれるなら、きっと大丈夫だろうと思う。
あの日と違い、今日は帰れるのだ。マティスの待つ邸へ。
それならきっと大丈夫だと、リィンははっきりと笑顔を浮かべてアルベルクへと宣言した。
***
淑女の鑑。生まれながらの貴婦人。
かつて、クラーラ・エヴァット侯爵夫人がエイマーズ侯爵令嬢だった頃、大人たちが彼女を称した言葉である。
彼女は幼い可憐さを残しながらも美しく、いずれは誰もが憧れる美姫に育つだろうと言われていた。
一時期は、当時の第一王子―――現在の国王の婚約者に名が挙がっていたこともある。
国内貴族の勢力バランスなどを鑑みた上で、その当時は外交関係を注視すべきだろうということになり、隣国から姫を娶ることとなったが、それがなかったら彼女は王妃となっていた可能性さえもあったのだ。
誰もが
その座さえも手に入れる可能性があった彼女は、緋色のドレスを身にまとい、王宮の用意された一室へと堂々と足を踏み入れた。
そんな彼女の、爪の先から髪の一筋まで完璧に整えられた容貌は、見る者の感嘆を誘うだろう。
十八年の歳月を経た今になっても尚、その容色に陰りは見当たらない。
磨き抜かれた貴婦人としての美貌は、むしろ年齢を重ねるごとに深みを増し、可憐さを失った代わりに妖艶さを得て、趣の違う美しさとしてより輝きを得たとも言えるかもしれなかった。
真っ直ぐに前を向き、騎士に先導されて入室した彼女は、一瞬居並ぶ面々にちらりと視線を投げた後、完璧な仕種で真正面の国王に臣下としての礼を捧げた。その所作もまた、どこまでも完成された美しさを誇り、彼女は今も尚、淑女の鑑と謳われた頃のままであると思わせた。
クラーラ・エヴァット侯爵夫人の傍らで、娘であるグレース・エヴァット侯爵令嬢も、同様の所作で倣う。
彼女もまた、いずれ母親と同様に美しさを磨き上げながら成長していくのであろうと、容易に想像出来る良く似た母娘だった。
「良い、楽にせよ。クラーラ・エヴァット。ならびに、グレース・エヴァットよ」
国王からの声に、居住まいを正す。
その、ぴんと伸びた背筋までも美しく、凛とした横顔は美麗でもあった。
これが、あの時の女性と同一人物なのだろうか。
リィンは、先んじて王宮に到着し誘導されるままに謁見の間に入り、ブラッドリー王子の指示に従い隅に居並ぶことになった。
入室してきた際にちらりと視線を向けてきたクラーラ・エヴァット侯爵夫人に、一瞬びくりと身体を怯ませたものの、傍らに兄がいることに勇気付けられすぐに落ち着きを取り戻すと、エヴァット侯爵夫人の横顔に不思議な気持ちにすらなった。
あの時の彼女は、狂気を孕んでいるようにすら見えていた。鬼気迫るような表情で、リィンの、いや、ウィルコール男爵家の破滅を望んでいた。
だが、今の彼女は完璧な貴婦人にしか見えない。誇り高く美しく、凛として聡明な横顔だ。
もしかして、あの人はエヴァット侯爵夫人を名乗る別人だったのか。
明らかに同じ顔であるはずなのに、それでもそんなふうに思ってしまうほど、あの時の彼女と、今目の前にいる貴婦人が一致しなかった。
それほどまでに完璧な、淑女の仮面だった。
「さて、クラーラ・エヴァット侯爵夫人。今日は、私から貴女についての上奏があるのだが、良いだろうか?」
「構いませんが……そちらのお嬢さん方は必要なのかしら?」
進み出たブラットリーにゆったりとした声で応じたクラーラが、横目で隅に居並ぶリィンたちへと視線を送ってくる。
向けられた視線に再び身体が怯みそうになったリィンは、ぐっと奥歯を噛んでそれを耐えた。素知らぬ顔のまま、前を向く。
動揺していると彼女に知られるのは、何となく嫌だった。
「必要だな。彼女は、実際の被害者なのだから」
「何のことでしょう……?」
クラーラ・エヴァット侯爵夫人は、困ったかのように僅かに眉を寄せてゆっくりとブラットリーへ視線を向けた。
完璧な所作だった。
美しくて、一分の隙きもない、完璧な淑女の所作だった。
「覚えがないのかな? クラーラ・エヴァット侯爵夫人、貴女は彼女を……リィン・ウィルコール男爵令嬢を拉致監禁した貴族子女誘拐の首謀者だろう?」
クラーラは、まぁ、と声を上げた。
扇を広げ、口元を覆い隠す。その所作までも、いちいち美しい。
「まぁ、なんてこと。ブラットリー王子殿下は、またそのようなことを仰るのですね……」
「また……とは?」
口元は扇に隠されているが、クラーラの目元が悲しげに歪む。
それさえも計算され尽くしているんだろうな……とリィンはぼんやりと思うが、国王の左右に居並ぶ重臣らは憐れみを込めた眼差しをクラーラへと向けていた。
「十八年前も……わたくしはあらぬ疑いをかけられ、まるで
微かに震えながら顔を俯かせるクラーラに、憐れみの眼差しは更に強くなる。
彼らは、十八年前のその日を知っている者ばかりだ。その場に居合わせた者もいるだろう。クラーラに対する同情は、当然沸き起こって然るべき感情だった。
ましてや。
「その、ウィルコールのお嬢様の……ご両親から」
彼女にあらぬ疑いをかけ、その名誉を踏みにじり、一方的に婚約を破棄したのは、間違いなくリィンの両親だったから。
「まぁ、十八年前はそうだったかもしれないな。私は、生まれてもいないので知らないが」
しれっとそんなふうに応じるブラットリーに、僅かに眉を寄せたクラーラは、気付いていなかった。
彼女の隣で、彼女より遥かに脆い淑女の仮面を貼り付けて佇んでいた娘の顔色が、徐々に青褪めて来ていることに。
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