第6話 龍の託宣

「ジークヴァルトさまー、入りますよー」


 応接室のドアがノックされた後、いささか気の抜けた声が聞こえてきた。

 返事を待たずして扉が開き、灰色の髪の少年が顔をのぞかせる。リーゼロッテよりも年上のようだが、好奇心にみちた琥珀色の瞳が人懐っこそうな印象を与えていた。


 扉を開けた少年が一歩下がると、ハインリヒ王子が優雅な足取りでするりと部屋に入ってくる。とっさのことであったが、リーゼロッテはソファから立ち上がり、条件反射のように腰を折って礼を取った。


「いいよ、楽にして」


 座るよう促されたが、リーゼロッテは自分が上座の椅子に座っていたことに気づき、あわててドアに近い長椅子のほうに移動した。

 途中、よろけそうになり、ジークヴァルトに腕を引かれて、リーゼロッテはふたりがけのソファに押し込まれる。その横にジークヴァルトも腰を下ろした。


「体調がすぐれないところ悪いけど、君には確認しないといけないことがある」


 王子の言葉に、リーゼロッテは「はい、なんなりと」とかすれた声で返した。

 先ほどの少年が慣れた手つきで、リーゼロッテに紅茶を差し出す。にっこりと微笑む少年に、リーゼロッテはお礼を言ったが、紅茶には口をつけようとはしなかった。

 のどは渇いていたが、王子の前では緊張でうまく飲めそうにない。紅茶をこぼしてカップを割ったりするなど、もってのほかだった。


 おもむろに横から手が伸び、湯気の立つティーカップがソーサーごと無造作に持ち上げられた。横を向くと、ジークヴァルトが無言でリーゼロッテにカップを突きつけていた。青い瞳がじっとみている。


(黒いもやもやが……ホントになくなってる)


 リーゼロッテはエメラルドの瞳を見開いて、ぱしぱしと幾度か瞬きをした。差し出されたものを断ることもできずに、おずおずとカップに手を伸ばした。

「ありがとうございます」

 いつもの癖で、慎重に、ゆっくりとソーサーごとカップを手に取る。

(とりあえず一口だけ……)


 ひとくち紅茶を口にふくむと、ふんわりと甘い芳香がひろがった。ほう、と溜息がでる。思っていた以上にのどが渇いていたようだ。

 慎重な手つきでリーゼロッテは、何とか割らずにティーカップをテーブルの上にそうっと戻した。


「で、ヴァルト。結論から聞くけど?」

 ひじ掛けで頬杖をつきながら、ハインリヒがジークヴァルトに問うた。


「ダーミッシュ嬢は、全く力を使えていない。力に蓋をされ、守護者との調和もはかれていないようだ」


 ハインリヒ王子は驚いたように顔を上げた。ジークヴァルトの婚約者は、ラウエンシュタイン公爵家の正統な血筋であると聞いていた。そのようなことがあり得るというのか。

 ハインリヒは、目を大きく見開いたままリーゼロッテに視線を移し、それからジークヴァルトに顔を戻すと、盛大に眉間にしわを寄せた。


(王子殿下はどんなお姿も様になるのね)

 よく理解できない会話に困惑しつつも、リーゼロッテはぼんやりとそんなことを考えていた。自分のことが話題になっていることは重々承知なのだが、まったくもって現実感がないのだ。

 先ほどまで遥か遠い壇上にいた王子が、自分の目の前に腰かけている。しかも、あれほど恐れていた黒もや魔王の婚約者が、当たり前のように隣に座っていた。


(気づいたらいつものお屋敷のベッドの上、なんてことはないかしら)

 リーゼロッテは、設定がよくわからないでたらめな夢をいつもみるため、この出来事も夢オチのような気がしてならなかった。


「ジークヴァルト、お前は今まで何をしていたんだ?」

「ダーミッシュ嬢が十五になるまで、接触を禁じられていた。ラウエンシュタイン家の意向だ」


 ハインリヒの問いにジークヴァルトは無表情で答えた。

 ラウエンシュタインとは、リーゼロッテの生家だ。公爵家だとリーゼロッテは教えられている。養父母であるダーミッシュ伯爵夫妻は、リーゼロッテに本当の両親のことを包み隠さず伝えていた。


 ジークヴァルトとて、何もしてこなかったわけではなかった。を刺激しない程度に、定期的に情報を仕入れ、贈り物のなどの形をとって守ってきたつもりだった。

 彼女はほとんど領地から出てこなかったし、ダーミッシュ領は犯罪も少なく平穏な土地だ。彼女もうまくやっているだろうと思っていたのだ。


「リーゼロッテ嬢、君はヴァルトとの婚約をどう聞いているの?」

 しばらく逡巡したのちに、ハインリヒ王子が口を開いた。


「義父からは王命であると」

「……そうか」


 ハインリヒは考え込んだ。

(彼女は龍の託宣について、何も知らされていないのか……?)


 ダーミッシュ家は、典型的な『無知なる者』の家系だったはずだ。それはもう、うらやましいくらいに。だからこそ、リーゼロッテの養子縁組先の候補に、いの一番に選ばれたのだから。

 そして、ダーミッシュ家には王家の血筋は流れていない。ならば、託宣の存在を知るはずもないだろう。リーゼロッテはその身に託宣を受けながら、それを知る者がいない環境で育ってきたということか。


「リーゼロッテ嬢は、ダーミッシュ伯爵の息女だったね」

 リーゼロッテがうなずくと、ハインリヒは探るような様子で言葉を続けた。

「ダーミッシュ伯とリーゼロッテ嬢は、血のつながりが、その、なんというか……」


 彼女は自分が養子であることを知っているのだろうか? 言葉を選びながらも、ハインリヒは言いあぐねた。事実を知らされていなかった場合、自分の口から言うのは憚られると思ったからだ。


「恐れながら王子殿下、わたくしは自分が養子であることを存じております」

 本来なら王族の発言を遮るなどあってはならないのだが、困ったように言葉を探すハインリヒをみて、リーゼロッテは口をはさんだ。

 この王子は噂のような冷たい人ではなく、本当は心やさしい方なのだとリーゼロッテは感じていた。実際に王子はリーゼロッテの発言に怒る様子もなく、「そうか」と返しただけだった。


 そして、ハインリヒはひじ掛けで頬杖をつき、目を閉じてしばらく考え込んだ。

 現王たる父・ディートリヒに相談すべきだろうか? 降りる託宣のすべては神殿と王家が管理しているが、ラウエンシュタインの系譜は謎が多い。


 しかし、自分は託宣を終えた身だから後のことはお前のいいようにしろと、王には言い渡されている。気持ちはわからなくはないが、託宣を受けた者たちの進退に、国の明暗がかかっているのだ。父王の無責任ぶりに、いい加減、腹も立ってくるというものだ。

(いや、義母上のように口を挟まれるより、まだましなのか)


 ――次代の王として、自分は決断を誤ってはいけない。

 雑念を振り払うように、ハインリヒは頭を振った。


「リーゼロッテ嬢は、この国が龍の加護を受けているのは知っているね?」

 平民はこれを神話や伝説のようにとらえていたが、龍の存在は、上位貴族の間では疑わざるべき事実として周知されていた。

 うなずくリーゼロッテに、ハインリヒは意を決したように言葉を続けた。

「ならば、これから君に、この国で長く秘匿されてきた秘事を告げる。家族であっても他言は無用だよ」

 誓えるかい? と、内容の重さのわりに、ハインリヒは軽い口調で言った。


「貴族の家に生まれ、もとより国と王家の方々に忠誠を誓っております」

 凛とした声でそう返すと、ハインリヒは深くうなずいた。


「我がブラオエルシュタイン王家は、はるか昔、龍とひとつの契約をかわした」

 ハインリヒは、リーゼロッテを真っ直ぐ見つめ、ゆっくりした口調で続けた。


「その契約に基づいて国は安泰を約束され、王家は龍から託宣を賜ることで王位を継ぎ、長きにわたり国を治めてきた」

(……予定調和、ということかしら?)

 ブラオエルシュタイン王国は、建国してから優に八百年はたつ。

「王位の継承は、龍の託宣によって決められる……ということでしょうか?」

 にわかには信じがたい話に、リーゼロッテはそう聞き返した。ハインリヒはゆっくりとうなずいて肯定を示す。


「王位を継ぐ者は託宣の通りに婚姻を結び、子をつくり、その子がまた託宣を受け、王となる。そのくり返しだ」

 それが王位継承にまつわる争いをなくし、平和を保つのだと、ハインリヒは続けた。


 実際に、今現在、王位継承権を持つのはハインリヒ王子だけだ。ここブラオエルシュタインでは、王位継承権は龍に託宣を賜った者のみが有し、その下に二位、三位と権利を持つ者は存在しない。

 長い歴史の中、それが当たり前のことだったので、この国には『王位継承権第何位』というその概念すら存在しなかった。


 龍の託宣が違えられたことは、ただの一度もない。

 国民に対しては、現王が王太子を指名するという形をとっていたが、全ては龍の意思のまま王位は継承されてきた。実際に国の平和は保たれ、数少ない争いごとは他国の侵入が主であり、国内は王家のまつりごとで安泰な世が続いている。


 現王であるディートリヒ王は次男であったが、託宣が降りたのは長兄ではなく弟のディートリヒだった。そこに王位継承にまつわる争いはもちろん存在しなかった。

 龍のあざを持って生まれ、託宣を受けた者が王となる。それはこの国の王家の不文律であり、不可侵の守られるべき真理であった。


「王位だけではない。君とヴァルトの婚約も、龍から賜った託宣の一つだ。……託宣を受けた者は必ず体のどこかに、龍のあざがある。君にもあるだろう?」


 ハインリヒは、それまではめていた白い手袋を左手だけ外して、その手の甲を見せた。リーゼロッテの胸にあるあざに似た文様がそこにはあった。再び手袋をはめると、ハインリヒは少し疲れたように言った。


「託宣が下りるのは、直系の王族だけじゃない。王女の降嫁や臣籍に降りた王族など、王家の血が入った系譜に降りることもある」


 それこそ、婚姻にかかわること以外にも信託はおりるのだ。そうつけ加えたハインリヒの表情は、少し苦しげにも見えた。


「王子殿下の託宣のお相手はどなたなのですか?」

 今の話の流れだと、王太子であるハインリヒにも、龍の託宣で決められた結婚相手がいるはずだ。王子のお見合い大会を思い出し、リーゼロッテは疑問を何気なく口にした。

 託宣で決められた相手がいるのなら、隠しておく意味はないだろう。王太子の婚約者の座が空いているとなると、いらぬ争いの種になるのは明らかだ。


 しかし、リーゼロッテは瞬時にその発言を後悔した。目の前で王子が、言葉を失ったからだ。

「……出過ぎたことを申し上げました」

 聞いてはいけないことだったのかもしれない。リーゼロッテはふるえる唇で、なんとか声を紡ぎだした。


「いや、いい……わたしのことは、いいのだ。今話すべきことではない」

 ハインリヒは何事もなかったようにすぐ表情をもどした。リーゼロッテにというより、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


 場の雰囲気を変えるかのように、灰色の髪の少年が冷めた紅茶を下げ、新しい紅茶をリーゼロッテの前のテーブルへと差し出した。

「よろしければどうぞ」


 琥珀色の目を細めてリーゼロッテに笑みを残すと、少年はそのままテーブルの端をみやり、何かを目で追うように視線を彷徨わせた。

 テーブルの端から真ん中を通りすぎて、リーゼロッテに提供したティーカップのあたりで、視線が一度止まる。そして、またリーゼロッテの顔をみやった。かと思うと、またカップに視線を戻す。

 リーゼロッテもつられて少年の目線の先を追うが、とくに虫など何かがいる様子も見えなかった。


「ときにリーゼロッテ嬢」

 ハインリヒの声に、リーゼロッテははっと顔を上げる。

「そこにいるソレは、見えているかい?」


 先ほどと打って変わって、明るい口調で問われた。そこにいるソレ、と王子が手袋をはめた指先で指し示した先にあるのは、くだんのティーカップであった。淹れたての紅茶が、湯気を立てている。


「そこには、紅茶がございます」

 ティーカップを見つめながら、リーゼロッテはそう答えた。遠慮せずに、飲めということだろうか?

 戸惑いつつもリーゼロッテが手を伸ばそうとしたとき、誰も触れていないカップがかちりと鳴って、紅い水面に波紋が広がった。


 がしっ

 頭頂部に衝撃を受けたリーゼロッテは、隣で沈黙を守っていたジークヴァルトに、いきなり頭を鷲掴みにされていた。ぶわっと、胸のあざが熱を持つ。そう感じた矢先、リーゼロッテの眼前が一変した。


「!!」


 目の前で芳しく湯気をあげているティーカップの周りに、何か異形の、あまり見目よろしくない小人のようなものが、わさわさとうごめいていた。紅茶の入ったカップの縁にしがみつき、がちゃがちゃとカップをゆらしている。


「んふやっ」

 よくわからない声をあげて、リーゼロッテは反射的に、横にいたジークヴァルトにしがみついた。見ると、スカートの裾にも異形の者がまとわりついて、その醜い小さな手で裾先をつかんで引っ張ろうとしている。


 さっと裾をひき、令嬢のたしなみも忘れてリーゼロッテは、両足をソファにのせ、いわゆる体育座りの格好でジークヴァルトに身を寄せた。震える手で騎士服をぎゅっとつかむ。

 見ようによっては、ちょこんと座るリーゼロッテを、ジークヴァルトが頭から包み込むように大事に守っているようにも見えた。その大きな手がリーゼロッテの頭頂部を鷲掴んでさえなければの話だが。


「ななな、なんですの、あれは」

 涙目でかたかたと震えるリーゼロッテを見て、灰色の髪の少年が、突如ぷっと噴き出した。


「リーゼロッテ嬢、まじで視えてなかったんだ! そんだけ力持ってんのに、何も視えてないなんて、すんげー、宝の持ち腐れ!」


 そのあとは大爆笑だった。

 まじであり得ないとか、かえってそんけーするとか、今までよく無事だったなとか、なんだか言いたい放題にされている。琥珀色の瞳に涙まで浮かべて腹を抱えて笑っている彼の頭を、ハインリヒ王子が、背後から小気味よくはたき落とした。

「カイ、いくら何でも笑いすぎだ」


 そう言った王子の口元も、笑いをこらえるかのように歪んでいるのを、リーゼロッテは見逃さなかった。肩をふるふると震わせ、口元に手を当てて、ふすりと息が漏れるのを必死にこらえている。


「ひどい」

 涙目になって思わずぽつりと漏らしてしまう。それをとがめるでもなくハインリヒ王子はリーゼロッテに続けて言った。


「ふ、大丈夫。その首に下げた石があれば、ぷっ、小鬼はそうそう、はっ、寄ってはこられないからっ」

 途中途中に、変な息をはさむハインリヒに、そんなにおかしいなら遠慮なく笑えばいいのにと、恨みがましく思ったリーゼロッテだった。


 ひとしきり笑った後、カイと呼ばれた灰色の髪の少年が口を開いた。

「その守り石はジークヴァルト様のですよねー。さすがだなー、オレ、こんなにキレーに力込められないですもん」

 リーゼロッテの胸元のペンダントをのぞき込むようにまじまじと見る。


「とにかく、守り石は肌身離さず身に着けておいた方がよさそうだな」

「いや、これは、オレが子供の時に作ったできそこないだ。ないよりはましだろうが」

 ハインリヒの言葉にジークヴァルトが即座に返した。


「え? これはジークフリート様からいただいたのです」

 リーゼロッテが驚いたように顔を向けると、ジークヴァルトは一瞬、怪訝な顔をした。

 しかし、あの日、自分が作ったものを父親であるジークフリートが手渡したのだから、リーゼロッテの言うことが間違っているわけではない。

 そう結論づけると「ああ、そうだな」とだけ答えて、特に否定はしなかった。


(え? 何? ……もしかしてこのペンダントはジークヴァルト様からのプレゼントだったの……?)

 否定されなかったものの、リーゼロッテは逆に混乱していた。


「ダーミッシュ嬢、どうしてあれを身につけて来なかった?」

 先ほどした質問を、ジークヴァルトが再び問うた。

 ジークヴァルトから贈られた首飾りと耳飾りには、大ぶりの青い石がついているとエラが言っていた。

 よくはわからないが、それはきっとこのペンダントと同じように、ジークヴァルトが力を込めた守り石と言われるものだったのかもしれない。


 ぐっと言葉に困ったリーゼロッテは、しばらく逡巡したのち、心を決めた。今さら隠しても仕方がない。


「あの、実はわたくし、初めてお会したときからジークヴァルト様のことが……」


 何やら愛の告白がはじまりそうな台詞だが、リーゼロッテの口からそんなものが紡がれるはずもなく――


「黒いモヤモヤをまとう魔王に見えて、とっても恐ろしかったのです! いただいた贈り物の何もかも、怖くて触れることも見ることもかないませんでしたっ」


 一気に捲したてたリーゼロッテのその言葉に、部屋がしん、と静まり返る。


「り、リーゼロッテ嬢、予想外すぎてオレ、もうムリっ」

 その沈黙を破ったのは、やはりカイの大爆笑であった。


「……ああ、もしかしたら、周りにいる小鬼の波動に同調して、ヴァルトの力に恐怖を感じてしまっていたのかもしれないね」


 ハインリヒがそう言った横で、カイはいまだに腹を抱えて身をよじらせている。そんなカイをあきれたように一瞥してから、「お前はいい加減笑いすぎだ」とハインリヒはもう一度カイの頭を軽くはたき落とした。


「ときにリーゼロッテ嬢、今はどう思っているの? ……ヴァルトは怖い?」

 ハインリヒの問いに、リーゼロッテはきょとんとする。いまだジークヴァルトの腕の中にいたリーゼロッテは、上目遣いでジークヴァルトの青い瞳をじっとみつめた。


「ジークヴァルト様は、とっても綺麗です」

 ――それこそ、この守り石のように。


 リーゼロッテは答えになっているようでなってないような、そんな言葉を返す。無言で見つめ合っているふたりに、ハインリヒがわざとらしく咳ばらいをした。


「それ以上はふたりきりの時にやってくれ」

 意味不明なことを言われ、リーゼロッテは訝し気に小さく首をかしげた。


 テーブルの上で、再びわさわさ動きだしたソレの動きに、リーゼロッテがびくりと反応する。ジークヴァルトから離れさえすれば、ソレらは見えなくなるという事実に、彼女は気づいていなかった。まあ、見えなくとも、そこにはいるのだが。


 ジークヴァルトが、リーゼロッテの頭をつかんでいる反対側の手で、パチリと指を鳴らした。その瞬間、青い光に包まれてそこら辺にいた異形の者たちが霧散した。

「あ、あのものたちは何なのですか? 小鬼とおっしゃいましたが……」

 リーゼロッテは、無意識にジークヴァルトに身を寄せる。


「人ならざる者、いや……かつて人であった者、という方が正しいかな?」


 ハインリヒの言葉に、リーゼロッテは幽霊やそういった類の者を思い浮かべた。


「死者の残留思念とかも含まれるかなー。あ、ブラオエルシュタインの悪魔って呼ぶ人もいるよ」

 カイがこともなげに言う。


(幽霊? 悪霊? 地縛霊? 悪魔が来りて笛を吹く!?)

 怪談話が苦手なリーゼロッテは、オカルト的話の展開に身を震わせた。


 不意にまた異形の者がティーカップの影からあらわれ、リーゼロッテをじっとうかがうようにのぞき込んでいる。異形の目と思わしきものと、ばちりと視線が合った。


(だ、誰かゴーストバ〇ターズ呼んできて!)

 小鬼はとてもではないが、マシュ〇ロマンのように可愛くは見えない。どちらかというと、目をそむけたくなる。ドロドロのデロデロだ。


「いやあ、となりにジークヴァルト様がいるのに無謀にも近寄ってくるなんて、リーゼロッテ嬢、よっぽどなんだなー」


 カイはカップの方に手を伸ばして、そのドロドロでデロデロの首根っこをつまみあげると、ぽいっと宙に放り投げた。弧を描きながら小鬼は飛んで、ぽん、と消えてなくなった。

 もう、気絶してもいいだろうか。


「ああ、先ほどの茶会でリーゼロッテ嬢はすごい数の小鬼を背負っていたね。今まで日常生活に支障はなかったかい? 異形に取り憑かれると、いろいろと障りが起こるんだ。例えば、疲れやすいとか怪我をしやすいとか。あと、まわりでものがやたらと壊れたりとか……」


 ハインリヒの言葉にリーゼロッテは息を飲み、小さな唇を震わせた。思い当たることがありまくりだ。


「あの……では、わたくしが今まで……何もないところで毎日転ぶのも、体がずっと重いのも、物がよく壊れるのも、鏡がすべて割れるのも、いきなりカラスが窓から飛び込んでくるのも、フォークとナイフが天井に突き刺さるのも、みんなみんな異形のせいだというのですか……?」


 リーゼロッテの青ざめた顔は、今ではもう血の通わない人形のようだった。


「ええ? なんか想像以上だし!?」

 なんかいっぱい笑ってゴメン、とカイがばつが悪そうに言った。


 先ほどの小鬼たちが、わさわさと足にしがみついて自分を転ばせているところを想像したリーゼロッテは、真っ青になって身震いした。

(聞かなければよかった……)

 世の中には、知らない方が幸せなこともあるのだ。


「なぜ、わたくしにばかり寄ってくるのですか!?」

 屋敷でも被害にあっていたのは、明らかにリーゼロッテだけだった。そのことを言うと、ハインリヒ王子は「ああ」と言ってから、言葉を続けた。


「リーゼロッテ嬢はヴァルトの託宣の相手だからね。狙われるのはきっとそのせいだ。それにダーミッシュ伯爵家は、代々が多い家系だから、なおさらリーゼロッテ嬢に集中したのだろう」

「無知なる者……?」

「ああ、無知なる者は、異形の者が視えず、感じない人間のことを言うんだよ。そして同時に異形の者も、無知なる者に干渉することはできない」


 少し小首をかしげたリーゼロッテを見て、ハインリヒはゆっくりと言葉を続けた。


「要は、異形の者になんら影響を受けない人間のことを無知なる者と呼ぶんだ。仮に奴らが襲ってきても、無知なる者なら巻き込まれることもない。だからこそ、リーゼロッテ嬢の養子縁組に、ダーミッシュ家が選ばれたんだよ」


 リーゼロッテは青ざめた顔からさらに血の気が引いた。屋敷のみなに影響は出なくとも、リーゼロッテのせいで怪我をする使用人はいたのだから。その原因が異形の者だとすると、今後もっと大ごとにならないとも限らない。


「だけど、リーゼロッテ嬢のその環境は、ちょっと看過できないな」

 そう言ってハインリヒは、ジークヴァルトを睨みつけた。


「不手際だな、ジークヴァルト」


 ダーミッシュ家の養子に入ったとはいえ、力あるものとしてリーゼロッテの後見を任されたのは、公爵家を継いだジークヴァルトだったのだから。


「リーゼロッテ嬢は、本来なら異形の者を浄化できる力をもっているはずだ。なぜ、その力が使えないのか、詳しく調べる必要がある。大きな被害が出る前にね」

 リーゼロッテに視線を戻すとハインリヒは柔らかい笑顔を向けた。


「心配しなくていいよ。ヴァルトの力を借りてはいるが、君も今は異形の者が視えているようだ。力を使いこなせるようになれば、恐らく危険はなくなる」


 そして、ハインリヒは王太子として言葉を告げる。


「そういうわけでリーゼロッテ嬢、君はしばらく王城で保護する。これは命令だ」


 反論を許さない声音で、いいね? とハインリヒはつけ加えた。

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