第11話 逢瀬の秘め事

「守り石が原因なのか?」

 自身の執務室で書類に目を通しつつ、ハインリヒは聞き返した。

「わからない……石が干渉して、目詰まりの原因になっている可能性もあるが」

 こちらも書類を片手にジークヴァルトは答えた。リーゼロッテはこの場には来ていない。今日は一日、客間で休むよう侍女のエラに伝えてあった。


「普段は石に力を込めるついでに、石を通してダーミッシュ嬢の力の流れを確認していたんだが。……昨日は、石を外した状態で直接流れをみた」

「そうしたら、彼女の力が暴走しそうになった?」

「ああ」

 そう答えながらも、何か納得はしていない口ぶりだった。


「腑に落ちていない顔だな、ヴァルト」

「初日も石を通さなかったが、その時は力の暴走はなかった。それに昨日ダーミッシュ嬢の中で、何か、別の力をうっすらと感じた。本来の力を隠そうとする……薄い膜のような力だ」

 気づかせないくらい薄いのに、とても強固な。

「膜……、か」

 もう一度そう呟いたジークヴァルトをハインリヒは見やった。


「では、問題は守り石ではなく、その薄い膜、ということか?」

「その可能性は高い。だが、もう一つ気になることがある。石を通さず流れを見たとき、オレの力が引き込まれる感覚があった。力を注ぎこみすぎて、容量オーバーになった可能性もある」

「リーゼロッテ嬢の中に、ヴァルトの力がか?」

「あくまで、オレの感覚だが。ダーミッシュ嬢にあの時どうだったか聞いてみないことには何とも言えない」


 リーゼロッテの力に関しては、イレギュラーなことばかりだ。

 異形の者の姿が視える人間は、貴族・平民にかかわらずある程度存在するが、それらを浄化する能力は主に王家とその血筋が入った者に特異的に現れるものだった。全員に発現するわけではなかったが、龍との契約による付随的な能力と昔からみられている。

 しかし、力の強弱はあれど、彼女のように力があるのに全く使いこなせないなどの事例は、今まで聞いたこともないし、調べたところ記録にも残ってはいなかった。

 ハインリヒなどは、力の存在自体、なぜあるのか、なぜ使えるか、どう使うのかなど、考えるまでもなく当たり前のものだと認識してきた。


「もし、力を流し込めるなら、外へと導くことも可能かもしれないな」

 ハインリヒの言葉に、ジークヴァルトも頷いた。

「やってみる価値はあるが、ダーミッシュ嬢は力を感じる能力も弱い。焦るのは危険かもしれない」

「そうか……。しかし、今まで彼女はどうやって力を制御していたのだ? ヴァルトの話だと、その“力の目詰まり”とやらは日々悪化しているのだろう? 生まれてこの方、それがずっと続いていたとすると……今頃彼女の体はどうにかなっているはずだ」

 茶会で小鬼を背負った姿はある意味圧巻だったが、日常であの状態がずっと続いていたとしたら、リーゼロッテの命はすでになかっただろう。ため込んだ力の放出、異形の浄化など、必ずどこかでリセットが行われていたはずだ。


「とにかく、明日にでも彼女に確認するしかないな」

 ハインリヒはため息交じりに言った。もっと休ませてやりたいが、今は時間が惜しい。正直、ここまで手こずるとは思っていなかったのだ。

 ダーミッシュ家には、リーゼロッテの身柄の拘束は一カ月と期限をきってある。一度領地に帰すにしても、何らかの進展はしておきたかった。


 それに、リーゼロッテの問題ばかりにかかわってもいられない。ハインリヒ自身のこともあるし、最近、王城内で異形の数が増えてきていると報告があがっている。異形が視える者・視えない者にかかわらず、怪我をする者や体調を崩す者などが増加していた。

 王城勤めをする者に配った守り石の消費が激しいのもそのためだった。それほど質のいい守り石ではないが、ジークヴァルトが力を込めたものだ。今までなら、渡して半年程度は問題なく使えていたのが、このところあっという間に力を消費してしまっていた。


 異形を浄化できる人間は限られている。ハインリヒの護衛近衛隊の一部は、その能力に長けた者たちが所属しているのだが、そのほとんどが国の各地へと任務に赴いていた。その任務は異形の仕業と思わしき事件の調査など特殊なもので、すべて秘密裏に行われている。

 カイも本来は特務隊のひとりだったが、ジークヴァルトの代わりの王太子の護衛として王城に留まっていた。他の人間も手の空いた者から城に呼び戻しているが、ここのところ人手が足りない状況が続いている。

 そんなこんなで最近は、頭の痛いことばかりだ。ハインリヒは癖のように、手に待った懐中時計の蓋を開けたり閉めたりを繰り返した。


「さあ、ハインリヒさまー、お仕事の時間ですよー」

 そんなときカイが上機嫌で執務室に顔を出した。あれこれ話しつつも、書類仕事はきちんとしていたので「サボっているように言うな。今も仕事中だ」とハインリヒは不機嫌そうに返した。

「わかってますって。おふたりでひとりの女の子の話で盛り上がっていたなんて、絶対に言いふらしませんから」

「誤解を招くようなことを言うな」

「誤解も何も事実でしょー。さあ、公務が待ってますよ。今日はご婦人が多い場所なので、はりきっていきますよ!」


 その言葉に、ハインリヒはさらにげんなりした。

「ちゃんと全力で働けよ、カイ」

「もちろんです! 王子殿下の魔の手からご婦人方は全力でお守りしますとも!」

 カイに背中を押されて出ていこうとするハインリヒが、ジークヴァルトを振り返った。

「そうだ。今日の午後、クラッセン侯爵令嬢がリーゼロッテ嬢のもとを訪れる予定になった。ヴァルトは邪魔するなよ」

 ハインリヒはそう言い残して、カイと共に公務へと向かっていった。


 ひとり残されたジークヴァルトは、横で浮かぶ守護者ののんきな顔をちらりと見やった。子供のころからずっとそこにいる存在だ。鬱陶しく思うこともあったが、今では会話することもない。

 守護者と言っても、守られたことなど一度もなかった。例えそれが、自分が死にそうな場面であったとしても。

 期待すべき相手ではないと、ジークヴァルトはいつものように意識からその存在を追いやる。

 ここ最近毎日会っていた婚約者が、今そばにいない事実に、ジークヴァルトにはなぜが物足りなさを感じていた。

 その感覚自体が謎に思えて、ジークヴァルトの視線は、しばし書類の文字を上滑りしていた。


     ◇

「アンネマリー、今日はわざわざありがとう。また会えてうれしいわ」

 リーゼロッテは王城の客間で、アンネマリーを迎え入れていた。お茶会の夜から、半月ぶりの再会であった。

「リーゼは休んでいなくて大丈夫なの? 体調を崩したときいたわ」

「ええ、問題ないわ。大事を取って今日一日休ませてもらったのだけれど、正直やることもなくて退屈していたの」

 にっこり微笑むリーゼロッテの顔は、お茶会の時よりも少し青白かった。


「食欲はある? ちゃんと眠れているの?」

 心配そうにのぞき込むアンネマリーに、リーゼロッテは明るく返した。

「大丈夫よ。お城の食事はおいしいし、ついつい食べ過ぎてしまうくらい」

 明らかに強がっているのがわかって、アンネマリーはリーゼロッテをぎゅっと抱きしめた。エラは何も言わなかったが、心配顔のまま後ろで控えている。


「それよりも、アンネマリーこそ困ったことはない? 王妃様から王女殿下の話し相手を務めるよう言われたと聞いたわ」

「ええ、わたしも急な話で驚いたのだけれど。ピッパ様はとても快活で素直な愛らしい王女殿下よ。王城にいて毎日楽しいわ」

 この国の王家はとても親しみやすく、仕える者にも悪どい人間はほとんどいなかった。アンネマリーは、王宮などは陰謀渦巻くドロドロとした世界で、決して近づくものではないと思っていたのだが。自国の王室はいたって平和な人間関係ばかりだった。


「それに、リーゼの言っていた通りね。ハインリヒ様にお会いしたのだけれど……とてもおやさしい方ね」

 頬を赤らめて、アンネマリーが恥ずかしそうに言った。

「まあ、王子殿下とお会いしたのね」

 アンネマリーが王妃の茶会でどうしてあれほど王子殿下を悪く言っていたのか、リーゼロッテは今でも不思議に思っていた。

「アンネマリーは、なぜ王子殿下のことを……あんなふうに誤解していたの……?」

「……わたくしの偏見がいけなかったの」

アンネマリーは気まずそうに答えた。


「わたくし、隣国にいたときテレーズ様と懇意にさせていただいていたのだけれど……」

「テレーズ王女殿下ね。ブラオエルシュタインから隣国に輿入れされたのだったわね」

「ええ。それで、隣国の王室はそれこそ魑魅魍魎がいるような場所だったの。特に王族の男性は横柄で、女性を物としかみないような方ばかりだったのよ。国に戻って、王子殿下のお噂を聞いたとき、この国の王家の方々も同じなのだと勝手に思い込んでしまったの」

 アンネマリーは申し訳なさそうに続けた。


「テレーズ様はおやさしくて聡明な方だわ。ハインリヒ様はそんなテレーズ様の弟君であらせられるのに、勝手な妄想で貶めてしまうなんて……ひどい話よね」

 実のところアンネマリーは、隣国の王族に手籠めにされそうになったことがあった。幸いすぐに助けが入ったのだが、あの時のことを思い出すと今でも身震いしてしまう。

 テレーズの計らいもあって、逃げるように帰国した経緯もあった。その時の恐怖から、王族に対する不信感がどうしてもぬぐえなかった。王族には絶対に近づきたくない。そう強固に思わせるほどに。


 何かを察したリーゼロッテが、今度はアンネマリーをぎゅっと抱きしめた。

「ごめんなさい……何か辛いことを思い出させてしまったかしら」

「大丈夫よ。リーゼは心配性ね」

「まあ、その言葉、そのままそっくり返すわ、アンネマリー」

 ふたりは抱き合ったまま、くすくす笑いあった。


「そういえば、リーゼは公爵様とうまくいっているようね?」

 アンネマリーの言葉に、リーゼロッテは口ごもった。もしかして、あの抱っこ輸送がアンネマリーの耳にも届いているのだろうか?

 王妃様の近辺で噂にでもなっていたりしたらと思うと、恥ずかしすぎていたたまれない。

「なんでも夜遅くまで公爵様が、リーゼの客間の前でずっと警護なさっているそうじゃない」

「ジークヴァルト様がこの部屋の警護を?」

 アンネマリーの言葉は、リーゼロッテにとって寝耳に水の内容だった。


 王城だから、夜間でも警護の騎士はそれなりの数が配備されているだろう。リーゼロッテのいる客間の前にも、もしかしたら毎晩騎士が立っているのかもしれない。一人で出歩かないよう言われているので、夜の城の様子など知る由もないのだが。

「そうよ。王城勤めの女官の間では、その噂でもちきりよ。あの女性を寄せつけなかった公爵様が、婚約者のためにお心を砕いているって」


 朝は朝食が済んで、しばらくしてからジークヴァルトが迎えに来ていたし、帰りは夕方に客間まで送ってもらったあと、そのまま部屋を出ない生活が続いていた。ジークヴァルトはリーゼロッテを送り届けた後、王城内に用意された私室に帰っていたのだとばかり思っていたのだが。

「そのような話はジークヴァルト様から伺っていないのだけれど……」

 困惑したようにリーゼロッテが言うと、アンネマリーは反対に目を輝かせた。

「まあ、もしかしたらリーゼに心配をかけないよう、黙っていらっしゃるのかもしれないわね。夜勤に向かう女官や侍女からの目撃情報をたくさん聞くから、きっと間違いないわよ」

 ウィンクしながらアンネマリーにそう言われ、ジークヴァルトがわざわざそんなことをするだろうかとリーゼロッテは首をかしげた。


 ジークヴァルトの行動は、何の前触れもなく突拍子もないようなことばかりだ。はじめは、ただ単に、からかわれているのかと思ったが、冷静に考えると、それらの行動にはきちんと意味があったようにも思う。

 昨日の抱っこ輸送も、恥ずかしいからいやだと訴えたら、素直に降ろしてくれたではないか。結局はよくわからない理由で、再輸送されることになってしまったが、もしかしたら理不尽を強いる人ではないのかもしれない。

(ただ、口下手で、不器用な人なのかも?)

 そう思うと、少し苦手意識がなくなったように感じた。もう少し、ジークヴァルトとは会話をした方がいいのかもしれない。


(今日は一日会えないんだわ。……毎日会っていたから、なんだか変な感じ)

 明日になれば、また会える。そう思うのに、会えないとなると漠然と不安を感じた。

(吊り橋効果で、おかしくなってるのかしら……?)

 決してジークヴァルトが嫌いなわけではない。婚約者なのだから、好きになれればそれに越したことはないとも思う。

 しかし、リーゼロッテはこの感情に、名前をつけることはいまだできないでいた。


     ◇

 最近、頭の痛いことが山積みだ。ハインリヒは、猫の殿下を膝にのせて、はぁと小さく息をついた。


 ここのところ、王城内で異形がらみの報告は日増しに増えている。その対応に追われつつ、書類仕事から何がしかの式典の出席まで、王太子として日々の公務もこなさなくてはならない。

 ディートリヒ王は、ハインリヒにまかせる仕事を年々増やしていた。それは、周りから見れば容赦ないペースだったが、期待されていると思えばできないと弱音を吐くこともできず、ハインリヒはここ数年、公務と自身の託宣の問題にかかりきりの毎日を過ごしていた。


 式典などでは、今まではジークヴァルトの威圧があったので大した心配もなかったが、カイが自分の護衛につくようになってから、ハインリヒはまるで心が休まらなかった。カイは常にあの調子なので、女性との距離が近いのだ。


 ああ見えてカイはけっこう手が早い。

 侯爵家の五男で継ぐ爵位もないため、結婚相手として若い令嬢たちには見向きもされていないのだが、既婚者や未亡人などのご婦人たちから人気が高いのだ。気軽に付き合えるいい遊び相手とみられているらしい。

 あの年で先が思いやられるとハインリヒは常々思っていた。


 リーゼロッテの件が片付かないことには、ジークヴァルトを自分の護衛に戻せない。龍の託宣のことを知る者は限られているので、現状でカイ以外に自分の護衛をまかせられる適任者はいなかった。

 カイはイジドーラ王妃の甥ということもあるが、ハインリヒはカイに対してたしなめることはあっても、あまり強く言うことはできないでいた。


 猫の殿下のお腹をもふもふしながら、はあ、とハインリヒは再びため息をついた。癒しの源である殿下と戯れていても、王子の心は思うように晴れそうにない。


「ハインリヒ様?」

 その声に、ハインリヒはぱっと顔を上げた。

「アンネマリー」

 ハインリヒの顔は、打って変わって明るいものになる。自分が満面の笑みをたたえているという自覚はあったが、それをとめることはできなかった。


 ハインリヒが殿下と戯れていると、アンネマリーはときどきこうやって姿を現した。

 姉姫のテレーズのことや隣国の話をおもしろおかしく話す彼女は、とても機知に富んでいて、話しているとつい時間を忘れてしまう。ハインリヒはアンネマリーと過ごすこの時間を、最近では心待ちにしている自分に気づいていた。


「お疲れのご様子ですね……きちんとお休みになられていますか?」

 のぞき込むように言うアンネマリーの亜麻色の髪が、彼女の肩からさらりとこぼれた。ふわりと甘い香りがする。

 こんな時、ハインリヒはどうしようもない焦燥感を覚えた。ふわふわで柔らかそうなその髪に思わず触れてみたくなる。あまつさえ、その髪に顔をうずめて匂いをかぎたいなどと思っている自分をどうしたらいいのだろうか。


 ふとした時間に気づけばアンネマリーのことばかりを考えている。彼女のことを考えると、胸がしめつけられるように苦しくなる。苦しいのに、会いたい。そして会ったら会ったで、触れたい衝動を抑えられなくなる。

 いまや猫の殿下はハインリヒのバリケードだ。できるだけ平静を装って、ハインリヒは口を開いた。


「問題ないよ。こうして殿下に癒しをもらっているし」

 ハインリヒが殿下のお腹をたふたふゆらすと、それに応えるように殿下が「ぶな」と鳴いた。

「リーゼロッテ嬢にはもう会ったのかい?」

「はい、先ほど。久しぶりに顔が見られて安心しましたわ。でも……」

「ああ。彼女の問題はなかなか解決のめどがたたないんだ。心配をかけてすまない」

 ハインリヒにそう言われ、アンネマリーは慌てて首を振った。

「そんな、恐れ多いですわ。リーゼロッテも大丈夫と言っておりました。わたくしはリーゼもハインリヒ様も信じております」


 そのままふたりはしばらく見つめあっていた。

 話をしていても、ふと沈黙が訪れても、この空間は心が安らぎ、とても心地よく感じられた。

――この時間がずっとずっと続いたら……

 ハインリヒはそう願わずにはいられなかった。

 だが、もう、限界なのかもしれない。あの日の過ちを、二度と繰り返してはならないのだから。


(あと、もう少しだけ――)


 ハインリヒは、自分の弱い心に失望しつつ、この束の間のやすらぎを終わらせることはできないでいた。


     ◇

「最近、ハインリヒはうまくやっているかしら?」

「ハインリヒ様、まじめだから、見てるこっちがもどかしくなりますよ」 

 イジドーラ王妃に問われたカイは投げやりにそう答え、そんなことより、と不満げな顔を王妃に向けた。

「ハインリヒ様とアンネマリー嬢の時間を合わせるのって、結構大変なんですよ? 衛兵とか人払いも面倒だし、ピッパ様のお相手も務めなきゃならないし」

「あら、それくらいやってあげてもいいじゃない」

「いや、アレを見せつけられたら、やってられなくなりますって」


 ハインリヒとアンネマリーは、会っている間、見つめあっていることが多い。多いというか、ほとんどの時間がそうだ。話している時もそうでない時も、お互いの視線が片時もお互いを離さないでいる。

 カイにしてみれば、じれったくて仕方がないのだが、ハインリヒの事情がそうさせているのだから如何ともし難い。自分だったらあの生殺しの状態は、絶対に耐えられないだろう。


「ねえ、イジドーラ様。ハインリヒ様がダメだった時、オレがアンネマリー嬢もらってもいい?」

 リーゼロッテも可愛いと思うが、どちらかというとからかって遊びたい対象だ。その点、アンネマリーの豊満な体はなかなか魅力的だった。

「あら、ダメよ。ハインリヒがかわいそうじゃない」

「……今の状況も十分カワイソウですよ、イジドーラ様」

 カイはあきれたようにイジドーラに返した。


     ◇

 アンネマリーが王妃の離宮に戻っていった後、リーゼロッテは夕食の給仕に来た王城勤めの侍女たちに、ジークヴァルトのことを聞いてみた。

「あの、今日、アンネマリーに、ジークヴァルト様のお噂を聞いたのだけれど……あなた達は何か知っているかしら……?」

「まあ、リーゼロッテ様はご存じなかったのですか? 公爵様が毎夜、リーゼロッテ様のお部屋をお守りになっている話は、侍女の間では有名でございますよ」

 とても生暖かい目で見られてしまった。


「エラも知っていたの?」

「はい、お嬢様。わたしは朝かなり早い時間に部屋の外でお会いしたことがございます。公爵様からは、心配をかけるから言わないように申し付かっておりました。黙っていて申し訳ありません」

 エラがしゅんとして言った。

「そうだったの。大丈夫、怒っていないわ。言いつけにそむけるはずもないものね」


 リーゼロッテはこの“自分が守られてます感”が、むずがゆくてどうしようもなくいたたまれなく感じた。

(明日ヴァルト様に会ったら、やめてもらうように言ってみようかしら……)

 だが、ジークヴァルトが恥ずかしい、恥ずかしくないという基準で、物事を考えるような人物には思えなかった。必要だからやる。そこに余計な感情は存在しないように思えた。


 その夜、エラを下がらせた後、リーゼロッテはベッドから起き上がって、寝室のソファに腰を下ろしていた。王城に来てからずっと夢見が悪くて、眠りたくなかったのだ。

 普通に眠気はやってくるのだが、夢が怖くて眠りたくない。そんな子供じみたことを誰にも言えず、ここ最近まんじりともせず夜を明かしていた。結局はいつの間にか寝てしまっていて、毎朝、悪夢で目覚めていた。

 悪夢と言っても、掃除ができなくて部屋が片付かないとか、道具や材料がなくて料理ができないとかいう些細なものから、怪我人の手当てができずに途方に暮れるなど、見る夢の内容は様々であった。


 ふと、ジークヴァルトの噂を思い出して、リーゼロッテは夜着の上からショールをはおり、寝室から明かりの消された薄暗い居間へと向かった。時計を見れば、日付が変わって少ししたくらいの時間だった。


 小さなランプの明かりだけつけて、リーゼロッテはしばらく廊下へ出る扉の前で考え込んだ。まあ、出歩かなければいいだろうと、かちゃりと鍵を開けてそっと扉を開けてみる。

 キィっと扉が開く音がやけに大きく響く。夜の王城の廊下は暗く、しんと静まり返っていた。開けた扉から、部屋の中のわずかな光が一筋もれる。隙間から先をみやっても、誰かがいる様子はなかった。

 開けた扉からそっと顔を出そうとした瞬間、リーゼロッテは大きな腕に体を抱え込まれた。


「こんな時間に何の真似だ」

「じ、ジークヴァルト様」

 本当にいるとは思っていなかったせいか、心臓がはねて声が上ずった。

「何の真似だと聞いている」

 怒っているような声音で問われたリーゼロッテは、慌てたように抱き込まれた腕の袖をつかんでジークヴァルトを見上げた。

「も、申し訳ございません。アンネマリーに、毎夜、ジークヴァルト様がこの部屋の前にいらっしゃると聞いて……」

「だからといって確かめる奴があるか」


 ふと、廊下の遠くから人が近づく気配がする。ジークヴァルトは改めてリーゼロッテの格好を見やり、小さく舌打ちをした。

「とにかく部屋へ戻れ」

 リーゼロッテを抱き込んだまま、一緒に室内に入る。扉を閉めて、ジークヴァルトはリーゼロッテを見下ろした。ほのかな明かりの中、薄い夜着を着ただけの無防備な姿が見える。体を少し離すと、小声でジークヴァルトは問うた。

「侍女はどうした?」

「エラは先に休ませました。その、わたくし、あまり眠れなくて」


 本当は夢のせいで眠りたくなかったのだが、リーゼロッテは正直にそのことが言えなかった。

「そうか」とだけ言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの頭に手を置いた。ぽんぽんと子供をあやすように頭をなでる。

 そこに先ほどのような怒気はなかった。完全に子ども扱いされていることに、不満よりも安心感が勝って、リーゼロッテは小さく笑った。

「無理に笑うな」

 そう言ったジークヴァルトに手を引かれて、ふたりで並んでソファに腰かけた。薄暗い室内でしばらく沈黙が続く。


「……ジークヴァルト様は、毎晩、このように遅くまでこの部屋の前にいらっしゃったのですか?」

「ああ。だが、ただの見回りだ」

 ただの見回りにしては、夜も遅すぎるような気がする。

「ジークヴァルト様。いくら王子殿下のご命令でも、そこまでご無理をなさらなくてもよろしいのでは……」

「問題ない」

 そっけなく言ってから、ジークヴァルトはじっとリーゼロッテを見つめた。


 ジークヴァルトは毎晩、リーゼロッテの客間に、守り石に施すように力を注いでいた。異形が中に入らないための手立てだったが、部屋が広いため、毎晩時間をかけて重ね掛けを続けていたのだ。

 早朝の見回りは、リーゼロッテが移動する廊下に集まってきた異形を、一通り浄化するために行っていたのだが、ジークヴァルトはそのことをリーゼロッテに言う必要はないと思っていた。どのみち浄化しても、やつらはいつの間にかまた集まってくる。


「石を見せてくれないか?」

 いつもは断りもなく触れてくるくせに、この夜、ジークヴァルトはリーゼロッテの言葉を待っていた。言われてみれば、今、ペンダントの石は夜着の中に隠れている。

 リーゼロッテがペンダントを外してジークヴァルトに渡すと、ジークヴァルトは青い石を手のひらの上で転がし、「今日はあまりくすんでいないな」と独り言のようにつぶやいた。


「ジークヴァルト様、昨日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 リーゼロッテがそう言うと、ジークヴァルトは再びリーゼロッテに視線を向けた。

「いや、昨日は不測の事態だ。石を通さず力の流れを確認したらああなった。……苦しかったか?」

「い、いえ、苦しいというか……少しだけ、怖かったです」

 ぽつりと言うと、ジークヴァルトは「そうか」とそっけなく言って、リーゼロッテの頭をそっとなでた。あやすような手つきで、リーゼロッテの髪を梳く。


 リーゼロッテはくすぐったさを覚えたが、やさしい手つきに心地よさも感じていた。寝不足のせいか、うとうとしてうっかり寝てしまいそうだ。

 ゆっくりした手の動きはそのままに、ジークヴァルトは反対の手に持っていた守り石に唇を寄せた。青い石が、さらに青く輝く。いつ見てもきれいだと、リーゼロッテはとろんとした眠そうな表情で目を細めた。


 ジークヴァルトがしばらく無言で髪をなでていると、リーゼロッテの頭がこてんとジークヴァルトによりかかった。見やるとリーゼロッテは瞳を閉じて、眠ってしまったようだった。

 ジークヴァルトはしばらくの間、守り石を手にしたまま、じっとリーゼロッテを見つめていた。無防備に眠るその頬にリーゼロッテの髪がひと房かかる。


 そっと手を伸ばそうとした、その時――リーゼロッテの体から、ゆらりと何かが浮き出した。部屋の空気がピリッと一変する。

 ジークヴァルトは息をのんだ。リーゼロッテの全身から、鳥肌が立つような強い力があふれていたのだ。


 不意にカタン、と音がして、人の気配を感じた。

「リーゼロッテお嬢様?」

 リーゼロッテとジークヴァルトの姿を認めたエラが、真っ青な顔でそこに立っていた。唇がわなわなと震えている。はっとしたようにリーゼロッテが顔を上げた。

(え? わたし今寝ちゃってた?)


「お嬢様! このような時間に公爵様と何をされていたのですか?」

 部屋の明かりをつけてエラが詰め寄ると、リーゼロッテは驚いたように目を見開いた。

「ごめんなさい、エラ。起こしてしまったのね。ジークヴァルト様とは少しお話をしていただけよ。エラが心配するようなことは何もないわ」

 立ち上がってエラをのぞき込むリーゼロッテからは、先ほどの力はみじんも感じられなくなっていた。


 ジークヴァルトは無言でリーゼロッテを見つめていたが、「明日、また迎えに来る」、そう言うと、ペンダントをリーゼロッテに手渡して部屋を後にした。

 夜もかなり更けた時間になっていた。困惑しているエラをなだめて、リーゼロッテはあきらめて寝室へと向かったのだった。

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