第12話 涙するもの

 エラは困惑していた。

 その日エラはジークヴァルトに連れられて、王太子殿下の執務室へと参上していた。王族など、ほとんど雲の上の存在だった。

 エラも一応は貴族の端くれだったが、たまたま事業が認められて賜った一代限りの男爵の娘だったというだけだ。治める領地があるわけでもなく、父が死ねば一家はただの平民になる。

 自分が爵位持ちの跡取り息子にでも嫁げば、話はまた別であったが、エラはリーゼロッテの侍女であることに矜持を持っていた。リーゼロッテを置いて嫁ぐなど、エラの人生の選択肢にはかけらもない。

 王族には社交界デビューで遠巻きに会ったくらいだ。デビュタントとして、父親と一緒に王に挨拶はしたはずだが、緊張のあまりよく覚えていない。そんなエラが、今、王子の前に立たされていた。


「呼び立ててすまなかったね」

 王子に直接声をかけられて、エラは頭を垂れたまま上ずった声で返した。

「恐れ多いお言葉にございます」

「エデラー嬢、顔をあげていいよ。リーゼロッテ嬢のことで、侍女である君に聞きたいことがある」

 女嫌いで有名な王子は、『氷結の王子』にふさわしくないやさしい声で言った。

 エラは恐る恐る顔を上げたが、王子は恐ろしいくらい整った顔をしていた。黒い騎士服のジークヴァルトが無表情でその後ろに控えていて、エラの緊張感をさらにあおった。


「リーゼロッテ嬢が王城に来て、以前と変わったことを知りたいんだ。どんな些細なことでもいいから、聞かせてくれないか?」

 発言を許されたエラは、戸惑いながらもおずおずと口を開いた。

「リーゼロッテお嬢様が王城に上がられて、変わったことでございますか……?」

 言葉を選びつつも、エラは正直に話した。

「ダーミッシュ領のお屋敷ではお嬢様はよく転んだりなさいましたが、王城に来てからそのようなことはなくなりました。あと、食がずいぶんと細くおなりです。以前は常に食べていないとお力が出なくなっていたのですが、今は心配なくらいお食べになりません……」


「他には?」

「こちらに来たばかりのころはぐっすりとお眠りになっていたのですが、最近はなかなか寝付かれないご様子です。あと、お屋敷にいたときは、寝返りもうたずに静かにお眠りになられていたのですが、こちらでは夢見が悪いと……すこし寝苦しそうになさっています」

 リーゼロッテは領地の館では、身じろぎもせずそれこそ人形のように眠っていたが、客間のベッドではシーツが乱れるくらい寝返りを打っているので、リーゼロッテらしくないとエラはずっと心配していた。


 エラはそこで一回言葉を切ると、意を決したように王子殿下に訴えた。

「恐れながら王子殿下。リーゼロッテお嬢様は、いつ頃お屋敷にお帰しいただけるのでしょうか。最近のお嬢様は、どこかご無理をなさっているようで、わたしはもう心配で心配で……」

「ダーミッシュ伯爵には期間は一カ月と申し渡してある。リーゼロッテ嬢には長くてあと半月はいてもらうことになる」

 その言葉に、エラは落胆の表情をした。しかし、王子にそれ以上抗議の言葉を吐けるはずもなかった。

 下がるように言い渡されて、エラは王子の執務室を後にした。リーゼロッテは、いつものように夕刻に公爵が客間まで連れて戻ることになっていた。後ろ髪を引かれる思いで、エラは護衛の騎士に送られていった。


「彼女も典型的な無知なる者だな……」

 エラを見送った後、ハインリヒはつぶやいた。異形に干渉されることのないのが無知なる者だ。だからこそ、リーゼロッテの侍女が務まっているのだろう。

「しかし、城に来て食事の量が減ったか……。やはり以前の生活では、力を使っていたのだろうな」

 力を制御できない者がやみくもに力を使い果たすと、空腹になって動けなくなる。これは力ある者のほとんどが、子供のころに経験することである。

 リーゼロッテの体の細さをみると、食べても栄養が行き届かないくらい力を酷使していたのかもしれない。食べる量が減ったというなら、王城に来てからは力を消費していないということだ。


「昨夜、ダーミッシュ嬢が眠ったときに力が発現したのを見た。一瞬だったが、眠った体から力が溢れ出すのを確認した」

「眠った姿……? どんな状況でそうなったかは知らないが、リーゼロッテ嬢の名誉もきちんと考えろよ。いくら婚約しているとはいえ、ここは噂が広がるのも早い」

 ハインリヒはため息混じりに言った。

「昨夜は不測の事態だ。問題ない」

「まあ、いい。しかし、眠ったときか。確かめようにも……難しいな」

「なぜだ? ダーミッシュ嬢を目の前で眠らせて確かめればいい」


 ジークヴァルトの言葉に、ハインリヒが顔をしかめた。令嬢相手に目の前で寝て見せろと言う馬鹿がどこにいるというのか。

 少なくとも女性の立ち合いが必要だろう。龍の託宣や異形の存在を知る女性は限られる。今すぐにと言うのは無理そうだった。

「なんだ? すっぱいものを口にしたような顔をしているぞ?」

「お前は一度、酢漬けピクルスにでもしてもらえ」


 ハインリヒはそう言うと、ジークヴァルトを置いてリーゼロッテがいる隣の応接室にさっさと向かった。


     ◇

 リーゼロッテは、王太子の執務室隣の応接室にいた。ジークヴァルトは、王子殿下とやることがあるからと席を外し、珍しくカイと二人で留守番をしていた。

「ねえ、リーゼロッテ嬢。この小鬼、なんだかかわいくなってない?」

「まあ、カイ様もそうお思いになられますか?」

 ふたりがかこむテーブルの縁に、先日からリーゼロッテが浄化を試みている小さな小鬼がちょこんと腰かけていた。リーゼロッテが両足をプラプラさせている小鬼を見ると、小鬼はきゅるんとした可愛らしい目をリーゼロッテに向けた。


 はじめは他の異形とかわらずドロドロのデロデロだったが、今ではちょっとブサ可愛い小人みたいなものに変わっている。リーゼロッテが浄化を試みるうちに、小鬼の目つきがかわってきたなと思っていたが、最近では動作も可愛らしく思えてきた。

 カイが小鬼をつつくと、小鬼はイヤそうにカイの手を逃れ、テーブルから飛び降りてリーゼロッテにぽてぽてと駆け寄ってくる。

「カイ様、浄化してはだめですわよ。わたくしが試みているのですから」

「リーゼロッテ嬢、小鬼に一体何をしたの?」

「何って、ですから浄化ですわ」

「うーん、確かになんか変な方向にキレーになってるけどね」


 カイは屈みこんで小鬼の首根っこを捕まえ、自分の目の高さまで小鬼を持ち上げた。目の前でプラプラさせてまじまじと小鬼を観察していると、ハインリヒとジークヴァルトが応接室に戻ってきた。

「カイ、何してるんだ?」

 ハインリヒが聞くと、カイはつまみあげた小鬼を、ずいとハインリヒの前に近づけた。

「リーゼロッテ嬢の小鬼が、こんなになってて」

 いやいやした小鬼がカイの手を逃れて、ポトリと床へ落ちた。そのままリーゼロッテにとてとてと駆け寄り、スカートの裾にしがみついて隠れるようにもぐりこんだ。

「まあ、ポチったら」とリーゼロッテが言うと、「ポチって何?」カイがあきれるように返した。


「どう浄化したら小鬼がかわいくなるわけ? 浄化って言ったら、ねじ伏せて、ドン、でしょ」

 カイの言葉に、リーゼロッテが驚いた顔をする。

「ええ? 浄化とはそういうものなのですか?」

 異形の者を“浮かばれない死者の魂”と解釈したリーゼロッテは、どちらかというと『成仏してください』という日本でいう仏教的な概念でお祈りを繰り返していた。

 自分の“力”がどんなものなのか、今だ感じることができないリーゼロッテは、とりあえず念仏を唱えるように小鬼に語りかけていたのだ。


「それは力技すぎるだろう。まあ、浄化に抗うものは、力ずくが必要なこともあるが。リーゼロッテ嬢は、カイの言うことを真に受けなくていいよ」

「では、王子殿下。浄化とはいったいどういうものなのですか?」

 リーゼロッテのその問いに、ハインリヒは少し考え込んだ。

「どういうもの、か。あまり深く考えたことはなかったが……そうだな……わたしの場合、強いて言えば、正しい方向へ導く、という感じかな?」

「正しい方向、でございますか?」

 抽象的な言葉に、リーゼロッテは首をかしげた。


「ヴァルトはどうだ?」

 ハインリヒが聞くと、ジークヴァルトは無表情で即答した。

「もっと明るい方へ。それだけだ」

 やはり抽象的な言葉で、リーゼロッテには理解しがたかった。

「感覚的なものだから、言葉にはしづらいな。一度、その手で浄化できれば難しいことではないはずなんだけど」

(はじめて自転車に一人で乗れた時のような感覚かしら?)

「でも……ぜろいちにするのがいちばん難しいのですわ」

 リーゼロッテがぽつりと言うと、小鬼が心配そうにスカートの間から顔をのぞかせた。


 ふいにリーゼロッテの口に、クッキーが詰め込まれた。驚いて顔を上げると、ジークヴァルトが無表情のままリーゼロッテの唇にクッキーを押し付けていた。

「お前、最近食わないな。もっと食べろ」

「じーふばるとはま」

(そんなにつめこまれては咀嚼もままなりません……)

 ハムスターのようにもごもごとやっていると、カイが紅茶を淹れなおしてくれた。

「ありがとうございます、カイ様」

 ようやく口の中のものを胃に流し込むと、リーゼロッテはジークヴァルトに苦笑いを向けた。

(ジークヴァルト様なりに、なぐさめてくれたのかしら?)

 相変わらず唐突で分かりづらい男だったが、なんとなく彼の人となりが分かってきたようにも思う。


「リーゼロッテ嬢、最近、眠りに関して困っていることはないかい?」

 ふいにハインリヒにそう聞かれて、リーゼロッテは意識を戻された。

「困っていること……」

 夢のことを言うべきか、リーゼロッテは迷った。

「些細なことでもいい。君の力を開放する糸口になるかもしれないんだ」

 ハインリヒにそう言われ、リーゼロッテは少しうつむいてその口を開いた。

「……最近、夢見が悪いのです」

「どんな夢を見るの?」

「はい。部屋の掃除ができなかったり、怪我をしている人の手当てができなかったり……夕べは、お腹を空かしている人たちがたくさんいるのに、オーブンに火がつかなくて、パンが焼けませんでした……」


 部屋に沈黙がおりる。リーゼロッテが次の言葉を発しようと口を開いたので、一同はそのまま何も言わずに待っていた。

 が、次の瞬間、男三人はぎょっと目を見開いた。何かを言いかけていたリーゼロッテの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙があふれだしたのだ。

「ええ? 夢の話だよね?」

 カイが腰を浮かして焦ったように言った。

「はい、夢の、話、です。ですが、みんな、あんなにお腹を空かせているのに、わたくし、わたくし、何もできなくて……」


 やせ細った人々。材料はここにあるのに、何も食べさせてあげられない。リーゼロッテの緑色の瞳からはさらに涙があふれだした。

「お屋敷にいた頃も夢はよく見たのです。でも、ちゃんと、片付けもお料理も手当てもできて、たいへんだけど、とてもやりがいのある楽しい夢ばかりだったのです。お城に来てから見る夢は、どれも本当に哀しくて……」

 リーゼロッテの小さな口がへの字に曲がってふるふると震えた。見ている方がいたたまれなくなるような泣き方だった。


「ほら、ジークヴァルト様、婚約者なんですから、ハンカチのひとつでも差し出してあげてくださいよ」

 カイに促されて、ジークヴァルトは懐から出した白いハンカチをリーゼロッテに手渡した。

 ありがとうございますと小さく言って、リーゼロッテはそれを受け取った。ジークヴァルトの大きな手は、そのままリーゼロッテの頭の上に乗せられた。


 ようやく泣き止んできたリーゼロッテがまばたきをすると、瞳にたまっていた涙が一滴、頬を伝って滑り落ちた。心配そうに下からのぞき込んでいた小鬼の顔に、その滴がぱたりと落ちる。

 そのとき、小鬼の体がぱあっと緑の光に包まれた。

 光に包まれた小鬼がふわっと浮き上がったかと思うと、その光の中には座ったまま丸くなっている小さな子供がいた。その子供とリーゼロッテの目と目が合う。

 子供はうれしそうにはにかむと、その口の形がゆっくりと『 あ り が と う 』と動いた。

 そのままさらにふわりと浮き上がっていく様を呆気に取られて目で追っていると、光は天井にむかい、そのままふうっと消えてなくなった。


「浄化……された?」

 カイがかすれた声で言った。

「ポチ、どうして……」

「だから、ポチってなんなのさ。……ホント、リーゼロッテ嬢って、すごいんだかすごくないんだか」

 あきれたようにカイは、「涙で浄化するなんて、星読みの王女もびっくりだ」と続けた。

 ブラオエルシュタインには『孤独な龍と星読みの王女』という童話があるのだが――


 その言葉にほんの少し首をかしげたジークヴァルトが、不意にリーゼロッテの頬に残る涙を人差し指ですくい上げた。その涙をそのままぺろりと舐める。

「しょっぱいな」

「ななななななにをなさるのですか」

 頬を手で押さえ、真っ赤になりながらリーゼロッテは後退った。

「ヴァルト、お前な。青龍にでもなったつもりか」

 ハインリヒは頭が痛そうに顔を手で押さえた。

 童話の話の中で、王女の涙を龍が舐めるシーンがあるのだが、ジークヴァルトはそれを模したのだろう。子供なら一度ならずとも読み聞かせられる有名な童話なので、この国に住むものは誰でも知っている話であった。


「確かめただけだろう」

「だからと言って、舐めるか普通」

 リーゼロッテの力もイレギュラーだが、最近のリーゼロッテに対するジークヴァルトの行動もイレギュラーすぎる。ハインリヒは、ふたりのこの先が不安で仕方なくなってきた。

「うは、ジークヴァルト様、女性に興味ないふりして攻めますね」

 見ていて飽きないふたりを前に、カイは王妃がこれを聞いたら悔しがりそうだと、そんなことを考えていた。が、時計を見ていきなり大きな声を上げる。

「ああー!! ハインリヒ様、そろそろ公務に出発しないとまずい時間ですよ! 今回は可愛い令嬢が集まる会ですからね。レディーたちを待たせるなんて言語道断です!」

 イヤそうな顔のハインリヒの背中を押して、そのままカイは扉に向かった。

「じゃ、リーゼロッテ嬢、がんばって」

 しゅたっと片手をあげて、カイはハインリヒと一緒に部屋を出て行ってしまった。


(何をがんばれと言うのですか、カイ様)

 ふたりを見送った後、リーゼロッテはジークヴァルトを振り返った。

「ダーミッシュ嬢。今からオレの前で眠るのと、泣かされるのと、どちらがいい?」

 無表情のジークヴァルトに突然聞かれる。

「な、何ですの、その二択は? ……わたくし、どちらもいやですわ」


 少しずつジークヴァルトの人となりが分かってきたような気がしていたが、この突拍子のなさは、やはり自分では手に負えそうもない。リーゼロッテはそう思うと、じり、と後退さろうとした。

「なら、泣くのはまた今度でいい。今は眠ってもらおうか、ダーミッシュ嬢」

 ジークヴァルトは魔王の笑みを浮かべて、リーゼロッテの手を取った。話の展開についていけない。

「おっしゃっている意味がわかりませんわ」

 じりじりと迫られて、リーゼロッテは助けを求めるように周りを見渡した。あぐらをかいたままそこに浮かんでいるジークハルトと目が合う。

「ジークハルト様」

 リーゼロッテが乞う様に言うと、『リーゼロッテが眠るなら、オレはどっか行ってるけど』と、ジークハルトは助け舟どころか、そんなことを言ってきた。


「いてくださらないと困ります! ハルト様は守護者なのですから、ジークヴァルト様のおそばを離れてはいけませんわ。それに、そもそもわたくし、眠りませんし、人前でなど、寝られません!」

「夕べはオレの前で寝ただろう」

「あれは、ヴァルト様の手が気持ち良すぎて!」

 リーゼロッテは咄嗟にそう返してしまい、我に返って顔を真っ赤にした。

「と、とにかく、なぜ、今眠らなくてはならないのか、全くもって意味が分かりませんわ!ですからわたくし、絶対に眠りません!」

「いいから眠れ。オレの手でまた気持ちよくしてやる」

 手をわきわきして近づくジークヴァルトに、リーゼロッテは恥ずかしさのあまり思わず叫んだ。

「変な言い方、なさらないでくださいませ! 頭をなでていただけではありませんか!」


 そのとき、応接室のドアがバン! と開かれた。

「ジークヴァルト様! 王城が! 王城が、大変なことになってます!!」

 出て行ったはずのカイが、息を切らしてそこに立っていた。

「カ、カイ様!?」

 扉を開け放ったカイの背後に、みっしりと異形がひしめいているのが見えた。リーゼロッテは恐怖のあまり、反射的にジークヴァルトの懐に飛び込んだ。


 王城を舞台に、前代未聞の騒ぎが、今、始まろうとしていた。

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