第13話 死者の行進

 後ろ手に扉を閉めたカイは、扉からはみ出した異形たちに一瞥を向けた後、「ああ、もうっ」と言って扉に蹴りを食らわせた。異形たちは振動でドアの縁からボトリと床に落ち、そのままジュっと消えていった。


「部屋を出たら、城のあちこちで異形が湧いて出てきてて、王城内はパニック状態なんですよ。オレの可愛い令嬢たちが待っているのに!」

 公務どころではない状況に、カイは腹立たしそうに言った。


「ハインリヒはどうした?」

「ハインリヒ様は今、王のいる玉座の間に向かっているかと。王城内は異形が視えないものにも影響が出ているので、キュプカー隊長が指揮をとってみなを避難させてます」


 そう言いながらカイは、背で押えるように扉にもたれかかっている。誰かが乱暴に叩いているかのように扉がガタガタと激しく揺れた。


「ジークヴァルト様もすぐ来るようにとのご命令です」


 扉がきしむように悲鳴をあげた。意を決したようにカイが扉を開け放つと同時に、ジークヴァルトがリーゼロッテを抱え上げる。そのままふたりは廊下へ飛び出した。

 リーゼロッテがジークヴァルトの腕の中で目にしたのは、真っ黒な廊下だった。それが異形の塊であると認識するまで、そう長い時間はかからなかった。


「しっかりつかまっていろ」


 そう言うとジークヴァルトは駆け出した。乱暴な足取りにリーゼロッテの体が跳ねる。片腕でのみで抱えられ、不安定さはいつもの移動の比ではなかった。それだけ余裕がないということだ。


 異形たちの咆哮が耳ざわりに響く。リーゼロッテはジークヴァルトにしがみついてぎゅっと目を瞑った。


((( コワイイタイニクイイヤダクルシイシニタクナイナゼジブンダケツライドウシテドウシテドウシテ……)))


 異形たちの叫びが頭の中に直接響いてくる。リーゼロッテは耳を塞ぎながら「やめて」と知らず叫んだ。


「のみこまれるな!」

 強い声音にリーゼロッテは意識を引き戻される。

「大丈夫だ、オレがいる」

 ジークヴァルトのその言葉に、リーゼロッテはただしがみつくしかできなかった。


「みーちーをーあーけーろーよ、こんちくしょーっ!」


 カイが前方に向かって叫ぶと、目の前の廊下の異形たちが一気に消し飛んだ。まさに、ねじ伏せてドン、な浄化に、リーゼロッテは思わずその目をそむけた。耳を塞いでも異形たちの悲鳴が届く。毎夜見る悪夢の続きのようだった。

 どこをどうどれだけ進んだのかもわからない。ただただ早く終わってほしい。苦しそうなリーゼロッテを見て、ジークヴァルトは抱き上げた体をさらにぎゅっと引き寄せた。


 ふいにリーゼロッテが顔を上げ、「アンネマリー?」とつぶやいた。


「どうした?」

「あちらにアンネマリーが……」


 ジークヴァルトが問うと、リーゼロッテは廊下の先を指さした。異形の塊で遠くは見えなかったが、ジークヴァルトは言われた方向に歩を進めていく。


「ジークヴァルト様、玉座の間はそちらでは……」

 止めようとしたカイの視線が、ジークヴァルトが切り開いた廊下の先を向く。そこにはハインリヒ王子とキュプカー隊長、そしてなぜかアンネマリーがいた。とその時、アンネマリーの背後の異形が、うねるように動くのが目に入った。


 ひとつひとつは大した力を持たない異形が、何か意思を持ったかのように一つに合わさり、渦を巻いて立ち上がる。天井高く上がった異形の先端は、そのまま下降しアンネマリーの背中を強く押し出した。

 アンネマリーの体が傾き、倒れていこうとする先に、振り返ったハインリヒがいた。


「やばい」


 カイは思うより早く、その場を駆け出した。


     ◇

「城が騒がしいようね」


 イジドーラ王妃は、離宮の自室の窓から王城を見下ろしていた。王妃の離宮は、王城と隣接しているが少し離れた場所にあった。

 事前に王に言われ、娘である第三王女のピッパは第一王女の住む遠方の東宮へ行かせてある。そのほかの離宮仕えの者のほとんどに休暇を取らせていたため、離宮に残っているのは、王妃と古参の女官、数人の女性騎士くらいだった。


「イジィ」


 愛称を呼ばれ振り向くと、そこにはくつろいだ格好のディートリヒ王が立っていた。ディートリヒは燃えるような見事な赤毛に金色の瞳をした美丈夫だ。


「まあ、王。この騒ぎを放っておいてよろしいのですか?」

「あれにまかせておけばよい」


 手を引かれ、窓際から部屋の奥のソファへと導かれる。


「王はハインリヒに冷たすぎますわ」

 ディートリヒにもたれかかりながらイジドーラは言った。


「その分イジィが手をかけているだろう?」

 やさしい手つきでディートリヒはイジドーラの頬をなでる。


「ハインリヒはセレスティーヌ様の大事なお子ですもの」


 前王妃であるセレスティーヌは気高く美しい女性だった。ハインリヒは性別は違えど、その彼女にそっくりな容姿をしていた。

 だが、ハインリヒはセレスティーヌと違ってやさしすぎる。姉姫たちの方がよっぽどセレスティーヌの気質を受け継いでいるとイジドーラは感じていた。

 もっともセレスティーヌが亡くなったのは、ハインリヒが二歳のときであったから、それも仕方のないことかもしれない。


「王はハインリヒに冷たすぎるのですわ」

 もう一度イジドーラは言った。


「すべては龍の思し召しだ」

 そう言うと、ディートリヒは王妃の白い手を取り、その指先に口づけた。


「イジィはあれが大事か?」


 王の問いに、イジドーラは「セレスティーヌ様のお子ですもの」と同じ言葉を繰り返した。


「余よりもか?」


 少し拗ねたように言われ、イジドーラは驚いたようにディートリヒを見上げた。


「まあ、王、お戯れを……。わたくし、王とセレスティーヌ様には、心から感謝しておりますのよ。茨の道からわたくしを救い出してくれた恩人ですもの」

「感謝か」

「ええ……ですから、この身が朽ちるまで……わたくしは、ずっと、王のものですわ」


 イジドーラはうすい水色の瞳をそっと閉じて、ふたたびディートリヒにもたれかかった。


 浮かばれぬ魂たちの哀し気な咆哮が、遠くで木霊している。ディートリヒは、イジドーラのすべらかな頬を、その手でなで続けた。


     ◇

 ある意味、王城は静まり返っていた。

 ここ最近、体調不良を訴える者が続出し、物が壊れたり怪我をする人間も少なからずいたが、今日になって突然その人数が激増していた。

 普段はせわし気に行き交う文官や城仕えの者も見当たらず、王城内は人気ひとけがなく閑散としていた。ぴりとした静けさが王城全体を包んでいる。

 しかし、見る者が見れば、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図だった。王城の廊下という廊下を、異形の者がひしめき合い埋め尽くしているのだ。どこから集まったのだと感心してしまうくらい数多あまたの異形だった。


「一体何がどうなっているのだ?」


 ハインリヒはその手を振り払いながらどちらに進むべきか躊躇していた。幼少期から過ごす王城だというのに、異形があまりにも多すぎて、方向感覚が狂ってくる。

 カイにはジークヴァルトを連れてくるようにと、執務室へと戻らせた。


 王城の護衛騎士団の近衛第一隊は、表向きは王太子の護衛専門であったが、その中には異形に対応する特務隊が存在しており、ジークヴァルトとカイをはじめ、その他、力ある者十数名がそれに所属していた。

 普段は異形がらみの事件であちこち散らばっている彼らには、最近の問題もあって、王城に戻るよう召集をかけてあった。しかし、遠方に赴いているものが大半で、対応が遅れて今に至っていた。ハインリヒは自身の対応の甘さに舌打ちをした。


「ハインリヒ様」

 キュプカー隊長が廊下の向こうから駆け寄ってきた。


「王城全体に何やら不穏な空気を感じます」


 キュプカーには異形の姿を視たり祓う力はなく、純粋に王太子の護衛として職務についていた。しかし勘が鋭い男で、見えていなくともその気配は敏感に感じることはできる。

 精神力の強い者に、異形たちは近づこうとはしない。無知なる者とはまた違った意味で、キュプカーは異形に対して耐性を持ち合わせていた。


「ああ、キュプカーも感じていると思うが、あり得ない数の異形が騒いでいる。そちらの対応はジークヴァルトが指揮をとる。キュプカーは、王城に残っている者がいたら城外へと避難させてくれ」

「御意に」


 そう言ってキュプカーがその場を後にしようとしたそのとき、先の廊下から誰かがこちらに向かって歩いてくるのをハインリヒは感じた。感じただけなのは、異形の者たちで廊下の先が見えなかったからだ。


「待て、キュプカー」

 そう制止すると、ハインリヒは右手を握り力を込める。その手をふるって廊下の先にためた力を放った。異形が一筋払われて、その先に人影が見えた。その場にそぐわないゆったりした足取りで現れたのは、戸惑うような表情のアンネマリーだった。


「アンネマリー?」

「ハインリヒ様。王城で何かあったのですか? 人が全くいないですし、こんなにも静かだなんて……」


 アンネマリーはハインリヒに礼を取った後、するりと異形をすり抜けてきょろきょろと辺りを見回した。


(彼女も無知なる者だったか)


 ダーミッシュ家の親類であれば、そうであってもおかしくない。無知なる者は、こんな状況でも全く影響を受けないものなのか。視える者にとって、この状況下では彼女の存在は異質に感じた。


「君はなぜここに?」

「はい、王妃様に休暇を頂いていたのですが、クリスタ叔母様、いえ、ダーミッシュ伯爵夫人からリーゼロッテに言付けを頼まれましたので、早めに戻ってきたのです」


 彼女がいくら無知なる者でも、今の王城の警備は手薄となっていた。こういった異形がらみの騒ぎでは、飲み込まれた人間が犯罪を犯すことがよくあるのだ。異形の被害は受けなくとも安全とは言い切れなかった。

 ハインリヒは迷ったが、アンネマリーをキュプカーに託すことにした。


「キュプカー、彼女を頼む」

 そう言って、足早にハインリヒはその場を去ろうとした。


「ハインリヒ様、リーゼロッテは大丈夫でしょうか?」

 アンネマリーは咄嗟にその背中に問いかけた。


「ああ、彼女はジークヴァルトといるはずだ」


 振り向いてそう答えた瞬間、アンネマリーの背後にいた異形がざわりと形を変えた。


「え?」


 アンネマリーは誰かに背中を押されたような感覚を覚え、後ろを振り返ろうとした。そのまま廊下に倒れこみそうになる。その先にいたのはハインリヒだった。


 ハインリヒは異形に囲まれ、その場を一歩も動くことができなかった。

 避けることも、アンネマリーを受け止めることもできずに、彼女の柔らかそうな肢体が自分に近づいてくるその光景を、スローモーションのように感じてただ立ち尽くしていた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁおっとぉぉぉぉ」


 スライディングするようにその間に割り込んできたのはカイだった。ハインリヒを突き飛ばし、アンネマリーをその胸に抱きとめた。


「あっぶねー。マジ危ねー、心臓止まるかと思った」


 カイが心臓をバクバクさせながら、アンネマリーの背に回した腕に力を入れる。ぎゅっとカイに抱きしめられながら、アンネマリーは動揺したように言った。


「は、ハインリヒ様」

 廊下の端から端まで突き飛ばされたハインリヒが、呆然とそこで尻もちをついている。


「怪我はない? アンネマリー嬢」

「……わたくしは大丈夫です……ですがハインリヒ様が」


 のぞき込むようにカイに問われたアンネマリーはふるえる声で返した。目の前で王子が突き飛ばされたのだ。しかも、転びそうになった自分を助けるために。


「大丈夫。ハインリヒ様はすっごい静電気体質なの。触ったらバチっとなって、繊細なご令嬢にはめちゃくちゃ危険なんだ。もう心臓止まっちゃうレベルだよ。だから誰も被害に合わないよう気をつけるようにハインリヒ様にいつも言われてるんだ。ね! そうですよね、ハインリヒ様!」


 カイのやけくそのようなその言葉にアンネマリーが目を見開く。真偽を確かめるようにハインリヒに顔を向けると、ハインリヒは青ざめた顔のままコクコクと頷いた。


「アンネマリー!」

 ジークヴァルトに抱えられたままリーゼロッテが声をかけた。アンネマリーは驚いたようにふたりを見上げ、カイの腕を離れてリーゼロッテに駆け寄った。


「リーゼ、具合でも悪いの?」

「い、いいえ、その足をくじいて……」


 異形が怖くてジークヴァルトに運んでもらっているとはさすがに言えず、咄嗟にそう言い訳をする。


 ハインリヒはキュプカーに手を引かれ、ようやくその場から立ち上がった。


「とにかくここは危険だ。移動するぞ」

 ジークヴァルトが言うと、ハインリヒが冷静さを取り戻すように低い声で返した。


「このまま玉座の間に向かうか? だが、先に彼女たちをどこか安全な場所に移した方がいい」

「ああ、ダーミッシュ嬢の客間が一番安全だ。あそこなら部屋に結界が張ってある。玉座の間よりここから近い」


 ハインリヒはそれを聞いて、ちらりとアンネマリーを見た。無知なる者である彼女ですら、異形の影響を受けたのだ。ここに彼女だけ置いていくわけにもいかなかった。


「アンネマリー、事情は後で話す。今は黙ってついてきてくれないか」

 ハインリヒにそう言われ、アンネマリーはやはり王城で何かが起きているのだと顔を青ざめさせた。


「カイは彼女を守れ。キュプカーは先ほど言った通りに頼む」

「御意に」と言うと、キュプカーは今度こそ異形の間を抜けて王城の廊下を足早に去っていった。

 王城の廊下を一行は進んでいく。ハインリヒを先頭に、その後ろをリーゼロッテを抱えたジークヴァルトが、最後尾にカイとアンネマリーが続いた。


「さっきより増えてないか?」


 隣にいるカイのそのつぶやきに、アンネマリーだけが首をかしげた。ハインリヒも、カイもジークヴァルトも、空中で何やら手を動かしながら歩いており、リーゼロッテは時折、小さく悲鳴を上げた。

 足が痛むのかとアンネマリーは心配したが、その時に限って、その場にいる者がみな、よくはわからないが同じ何かに対して反応しているようなそぶりを見せる。不思議な光景だったが、緊迫した空気がアンネマリーに質問を許さなかった。


「何なんだよ、一体!」


 上を見上げながらカイが突然叫び声をあげたので、隣を歩いていたアンネマリーはびくりと体をふるわせた。同時にリーゼロッテが悲鳴を上げ、ジークヴァルトの舌打ちが重なる。

 リーゼロッテは頭を押さえ、パニック状態になっている。その頭に、ジークヴァルトが脱いだ自分の上着をばさりとかぶせた。

 ハインリヒが後ろを振り返ると、リーゼロッテの頭上の天井に、異形がわさわさと集まっている姿が見えた。天井の黒い吹き溜まりから崩れかけたその手を伸ばし、リーゼロッテの髪をつかもうとしている。

 その光景は、リーゼロッテが狙われていることを如実に現していた。城中の異形という異形が、リーゼロッテに迫っているかの勢いだ。


 リーゼロッテの身の安全はジークヴァルトに任せて、ハインリヒは目の前の道を切り開くことに専念した。客間まであと少し。客間の扉の前は、ジークヴァルトの結界のせいか、ぽっかりと異形の姿が見えなかった。

 ほうほうの体で一行は客間の中へなだれ込んだ。ほっと息をつく一同を迎えたのは、ぽかんとした様子のエラだった。

 あり得ない面子の突然の来訪に、今度はエラがパニックを起こす番であった。


     ◇

 エラの淹れた紅茶の香りが部屋に漂う。

 ハインリヒとカイ、ジークヴァルト、それにリーゼロッテが、客間の応接室のソファに腰かけていた。アンネマリーには、エラと一緒にエラ用の部屋で待機してもらっている。


「明らかにリーゼロッテ嬢狙いだよね」


 カイの言葉に「なぜわたくしが……」とリーゼロッテは身を震わせた。

 先ほどの異形たちの叫びが、今も耳に残っている。今はジークヴァルトの結界のおかげか、遠くの方でざわめきが聞こえる程度になっていた。


「リーゼロッテ嬢はヴァルトの託宣の相手だ。しかし、狙われる理由はあるにしても、リーゼロッテ嬢に集中しすぎている」

「ジークヴァルト様の託宣の相手ですと、なぜ狙われるのですか?」

「ああ、フーゲンベルク家は降りる託宣の内容のせいで、代々異形に狙われやすいんだ。託宣を終えれば身の危険は去るのだが……」


 ハインリヒの言葉に「託宣の内容?」とリーゼロッテは首をかしげた。しかし、ハインリヒは考えこんだ様子でそれ以上説明はしてくれなかった。


「にしても、この状態をどう切り抜けるかですよねー。このまま籠城してても埒が明かないし」

 カイはいつもの軽い調子で言った。


 外回り組の救援を待つにしても、いつになるかはわからない。王城の機能が停止している影響もどう出るか、ハインリヒは正直考えたくもなかった。


「浄化しても浄化しても湧いて出てくるんだもんなー。ホント勘弁してほしいよ」

 ため息をついたカイが、至極真面目な顔で続けた。


「いっその事、リーゼロッテ嬢を囮にして、奴らを一網打尽にするっていうのはどうでしょう?」


 それを聞いたハインリヒが疲れた顔で「危険すぎる。許可はできない」と首を振った。

「とりあえず、一時間だけ救援を待とう。こちらの消耗もはげしい。回復する時間も必要だ」


 そんなやり取りをおとなしく聞いていたリーゼロッテは、隣に座るジークヴァルトの顔をちらりと見た。正面に向き直ると、ジークヴァルトの守護者であるジークハルトが、例の如く浮遊しながらリーゼロッテの顔をジーっとのぞき込んでいた。

 この客間に戻ってからずっと顔をのぞき込まれているので、気になって仕方ない。助けを求めるように、もう一度ジークヴァルトに視線をむけるが、こちらの様子を気に留めるでもなくジークヴァルトは無表情を貫いていた。


 仕方なくリーゼロッテが「あの、ハルト様」と小声で、目の前で浮いているジークハルトに声をかけた。

『何?』

 ニコニコしながらジークハルトが答える。


「あの……わたくしの顔に何かついておりますか?」

『目と鼻と口?』

「いえ、そういうことではなくて」とリーゼロッテが言うのにかぶせて、ジークハルトは『ねえ、リーゼロッテ。ちょっと目を閉じてみてよ』と言葉を続けた。

「?? ……こうですか?」


 言われるがままリーゼロッテが目を閉じると、ジークハルトはそのままさらにリーゼロッテに顔を近づけた。


 その様子をジークヴァルトは黙って横目で確認していたが、自分の守護者がうっとりした表情でリーゼロッテに顔を寄せていくのを見て、無意識に半眼となった。


「おい」


 ジークヴァルトは低い声で言うと、いきなりリーゼロッテの二の腕を掴んで真横に引いた。目を閉じたままリーゼロッテは、隣に座っていたジークヴァルトの膝の上にころんと倒れこんだ。


「何をやっているんだ、お前は?」

 怪訝な顔でハインリヒがジークヴァルトを見やる。ハインリヒとカイには、ジークハルトの姿は見えないしその声も聞こえない。ふたりには、ジークヴァルトがいきなりリーゼロッテを膝に引き寄せたようにしか見えなかった。


「少し席を外す」


 そう言うとジークヴァルトはリーゼロッテをひょいと抱え上げ、居間の隣にあるリーゼロッテの寝室へと足を踏み入れた。ぽかんとしているハインリヒとカイをよそに、後ろ手で扉を閉める。

 そのまま寝台まで歩を進めると、ジークヴァルトはリーゼロッテをベッドの上にそっと降ろした。肩を押されて、リーゼロッテは仰向けに寝かされる。


「ジークヴァルト様?」

 困惑気味にリーゼロッテが言うと、ジークヴァルトは無表情のまま「お前、今すぐ眠れ」と返した。


 ジークヴァルトは、リーゼロッテが眠ったときに漏れ出た力が気になっていた。あの夜、あまりにも強い力を感じたからだ。あの力と、リーゼロッテが狙われる理由に何か関係があるかもしれない。


「こんな時に何をおしゃっているのですか? この状況でのんきに眠れるはずもありません」

『ええ? リーゼロッテが眠るんだったらオレどっか行ってるよ』


 ふわりと天井近くまで高度を上げ、ジークハルトがどこかで聞いたことがあるような台詞を言った。


「ダメです! ハルト様はヴァルト様の守護者でしょう? 離れるなんていけません」

 あわてて上半身を起こしてリーゼロッテは言ったが、似たようなやりとりをした覚えがあって、ん? と首をかしげた。


『うーん、でもなあ……リーゼロッテの神気って、ちょっとこの身にはツライんだよね。オレまで浄化されちゃいそうだし……』と、ジークハルトが頬をかきながら言った。

「どういう意味だ? お前、何を知っている?」


 ジークヴァルトが自身の守護者を睨みつけた。


『あは、ジークヴァルトがオレに話しかけるのなんて、何年振りだろ?』

「茶化すな」と、ジークヴァルトが言葉を続けようとしたとき、ジークハルトがリーゼロッテを振り返った。


『ねえ、リーゼロッテ。今の状況をどうにかしたい? 君にならできるけど、やってみる?』


 突然の言葉に、リーゼロッテはエメラルドのような目を見開いた。それを、ジークハルトは逆立ちのような格好で覗き込むように見つめた。


「わたくし、やります」と、リーゼロッテはかすれた小さな声で言った。このまま異形の叫びを聞き続けるのはつらすぎる。

『そっか、わかった。でも、それをするにはヴァルトの力が邪魔なんだよね』

 ジークハルトがリーゼロッテの胸元を指さすと、首にかけられたペンダントの石がふわりと浮いた。

「どういうことだ」


 ジークヴァルトが苛立ったように言った。


『おもしろいから黙って見てたけど。でも、もっとおもしろくなりそうだし、ね』

 だから今回は特別だよ、と言って下に降りてきたジークハルトは、今度はリーゼロッテを斜め下からのぞき込んだ。


『そのかわりリーゼロッテ。後でオレのお願い聞いてくれる? この件が落ちついてからでいいからさ』


(ヴァルト様と同じ顔で、満面の笑顔で言わないでほしい)

 至近距離で言われ、リーゼロッテは思わず頬を赤らめてしまう。


「お願い、でございますか? わたくしにできることならばかまいませんが……」

『大丈夫。、できないことだよ』


 そう言って、ジークハルトはうれしそうに笑った。


「それで……異形を浄化するために、わたくしは何をすればいいのですか?」

『簡単だよ。リーゼロッテはただ眠ればいい。ただし、ヴァルトのおりを出てね』


 不安そうに尋ねるリーゼロッテに、ジークハルトは笑みを浮かべたまま言った。


「ジークヴァルト様の檻……?」

『リーゼロッテの守護者は、今のところ眠ってる間にだけその力を発現してる。だからその力を開放すればいいんだけど……』

「わたくしの守護者が? ……眠っている間に、力を?」

『うん、そう。起きてるときは、リーゼロッテと守護者が拒絶し合ってるからね』

「拒絶……? どうして……」

『なんでだろうねー』


 にっこり言うジークハルトはまるで他人事のようだ。


『とにかく、その守護者の力さえ引き出せれば、あの異形たちはまるっと浄化できるよ。だけど今はヴァルトの守り石がその守護者の力の発現を邪魔してる。要するに、リーゼロッテが石を外して眠りにつけば万事解決ってわけだ』

「それが本当だとして、ダーミッシュ嬢の守護者が異形を浄化できる保証はどこにある」


 ジークヴァルトが眉間にしわを寄せた。なにしろ前代未聞の異形の数だ。いくら守護者の力だろうと、力を扱えないリーゼロッテにそれができるのか。


『信用ないな~。ヴァルトだってあの夜、リーゼロッテの力を目の当たりにしたろう?』

 ふわふわ浮きながらジークハルトは大げさに肩をすくめた。


『それに、アレ、みーんなリーゼロッテに引き寄せられて集まってきてるんだよ。限界までたまったその力が魅力的なんだろうね』


 ジークハルトがリーゼロッテの胸元、龍のあざがある場所を指さしながら言った。


「ええ? わたくしが原因なのですか?」

『さっきうっかり小鬼を浄化しちゃったでしょ? あれが引き金で、こうなった、と』


 リーゼロッテは顔を真っ青にした。


『言い換えると、今、城に集まってる異形たちは、リーゼロッテにしか祓えない。どうする? やる? やらない?』


 ジークハルトが問うと、リーゼロッテは寝台から降りて、ふらつく体で立ち上がった。


「わたくし、やります」


 決意のこもったリーゼロッテのその言葉に、ジークヴァルトは知らず目をすがめた。


     ◇

「何をやっているんだ、ヴァルトのやつは?」


 苛立つようにハインリヒは言った。リーゼロッテを連れてジークヴァルトが隣室に行ってから、小一時間は経とうとしている。


「リーゼロッテ嬢を休ませているんじゃ? 間取りからして、あっちは寝室ですよね?」


 そう言われて、そこまで思い至っていなかったハインリヒはぎょっとした顔をした。婚約者同士とはいえ、男女が寝室に二人きりというのはいかがなものか。


「いや、さすがにこの状況で、そんなことは……」


 ハインリヒの自分を納得させようとするつぶやきに、カイが深刻そうな声音でぽつりと言った。


「オレ、昔、イグナーツ様に聞いたことがあるんですけど……託宣の相手同士が肌を合わせると、すごく、気持ちがいいんだそうです」


 その言葉に、ハインリヒは思わず腰を浮かせた。


「ヴァルトだぞ!? そんなことが」

「あり得なくはないですよ。だってあんなジークヴァルト様、今まで見たことありますか?」


 カイの言葉に、ハインリヒは言葉を失った。


 確かに、笑みを浮かべるジークヴァルトなど天変地異が起こらない限りあり得ないと思っていたが、最近のジークヴァルトはリーゼロッテ相手に頻繁にその口元を綻ばせていた。たとえそれが、悪魔のような笑みであったとしても。

 しかも、今までどんな美女に言い寄られても眉間にシワしかよせなかったジークヴァルトが、自ら女性に触れるなど、いまだに我が目を疑ってしまう。そんなジークヴァルトの様子がおかしくて、リーゼロッテには悪いと思いつつ、ハインリヒはついつい笑ってしまっていたのだが。


「いや、だが、しかし、さすがにこの状況で」

「何言ってるんですか! こんな状況だからこそ燃え上がるんです!」


 バンっとテーブルを叩きながら、カイが声高に叫んだ。妙に実感のこもったカイの台詞に、ハインリヒの顔が赤くなる。


「ば、馬鹿なことを言うな」


(扉をたたいて確かめるか? いや、いきなり女性の寝室に行くなど……。アンネマリーか侍女に頼む? いやいや、万が一コトが行われたとしたら一体どうするのだ!)


 高速でハインリヒの頭がそんなことを考えていると、寝室の扉がいきなり開いた。


「ハインリヒ、玉座の間に向かうぞ」


 ジークヴァルトがリーゼロッテを連れてそのまま居間を出ていこうとする。ハインリヒは思わずふたりの着衣を確認してしまった。


「なんだー、残念。ジークヴァルト様も案外ヘタレですね」

 カイがつまらなそうに言うと、からかわれたことに気づいたハインリヒは「おい」とカイを一睨みした。カイは嗤いながら肩をすくめてみせた。


「ヴァルト様、わたくしエラに薬をもらってきます」

「ああ」


 リーゼロッテはエラの部屋に行くと、しばらくして小さな紙に包まれた白い粉を手に戻ってきた。それは、お茶会から帰るときに使う予定だった眠り薬だった。


「一体どういうことだ?」

 ハインリヒは困惑したようにジークヴァルトを見やった。


「ダーミッシュ嬢が異形を浄化する。玉座の間までハインリヒもついてきてくれ」

「カイ様はこのままここに残って、アンネマリーとエラを守っていただけますか?」


 リーゼロッテにそう言われたカイは、「ええ?それはいいけど、いきなり何でそうなるの?」とこちらも困惑した声で言った。


「話はあとだ」


 そう言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの前に跪いた。

 リーゼロッテはそっと手を伸ばし、自らジークヴァルトの腕に身をゆだねた。ジークヴァルトはリーゼロッテを大事そうに抱き上げると、そのまま廊下への扉に手をかけた。


「ハインリヒ行くぞ。カイは部屋の結界を守れ。オレの張った結界もじきに持たなくなる」

 ジークヴァルトは何のためらいもなく扉を開けた。ぐおっと異形たちの熱気とも冷気ともとれる圧がその身を襲う。


「カイ、これをアンネマリーに渡しておいてもらえないか? ただの気休めにしかならないが」


 振り返りざま、ハインリヒはカイにそれを手渡した。カイが受け取ったのは、ハインリヒがいつも愛用している懐中時計だった。


「わかりました。ご武運を」


 カイがそう言うと、ハインリヒはそのまま部屋から飛び出し、急いで扉を閉めた。玉座の間に向かえと言うなら、そうするしかない。何か算段あってのことでなければ、後でジークヴァルトを殴り飛ばそう。

 そう思ったハインリヒは、異形が渦巻く王城の廊下へと一歩踏み出した。


 部屋に残されたカイは、「さてと」と言うと、おもむろに紅茶を淹れだした。


「はーい、お嬢様方。もうこちらに来て大丈夫ですよー」


 楽し気にエラの部屋をノックする。

 ドン! と客間全体が強い力で揺さぶられるのを感じながら、カイは女性陣をどうおもてなししようか考えを巡らせていた。

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