第17話 隻眼の騎士

「王子殿下。地方の任務から戻った騎士が、報告に参っております」


 キュプカーにそう言われ、執務室で書類仕事に追われていたハインリヒは、その手を止めることなく言葉を返した。


「ああ、通して構わない」


 頷いたキュプカーは執務室の扉を開け、外にいた人物を室内に招き入れた。書類に視線を向けたままだったハインリヒの視界の片隅に、優雅に歩いてくる騎士服をまとった足が見えた。


「アデライーデ・フーゲンベルク、ただ今召集により戻りました。北方の任務のため、帰還が遅くなり申し訳ありません」


 跪いて礼を取った主の声は、落ち着いた低めの声音だったが、それはうら若い女性のものだった。


 その名前を聞いた途端、ハインリヒははじかれたように顔を上げ、両手を机についたまま椅子から乱暴に立ちあがった。その顔は、青いを通り越して紙のように白くなっている。

 何かを言いかけた唇は小刻みにふるえ、ハインリヒは信じられないものを見るかのように、目の前で跪く彼女を凝視した。


 そこにいたのは騎士服を身にまとい、長い真っ直ぐなダークブラウンの髪をポニーテールでまとめた、青い瞳の美しい女性だった。しかし、その右目には眼帯がつけられ、眼帯の上下には傷痕とおぼしき赤いひきつれが垣間見える。

 その赤い痕は、彼女のその美しい顔を見る者の、目を背けさせるのに十分な痛々しさを持っていた。


 ハインリヒは、彼女を見つめたまま立呆然とち尽くすことしかできなかった。

 彼女に会うのは、以来だ。消し去ることのできない自身の罪が、今なお深く息づいている。そんなことは、分かり切っていたはずなのに。


「王子殿下?」


 王子の許しが出るまで礼をとり続けている彼女を見やり、キュプカーはハインリヒを困惑した声で呼んだ。


「あ、ああ。長旅、ご苦労だった。顔を……上げてくれ」


 かすれた声でようやくそう言ったハインリヒは、立ち上がった女性騎士、アデライーデの視線を真っ直ぐに受けた。ハインリヒの表情が、苦しみに満ちたものに変わる。


「王子殿下、わたくしめに思うところはありましょうが、今は王太子としての職務をご全うください」


 アデライーデの感情のこもらないその言葉に、ハインリヒはどさりと椅子に腰かけた。


「ああ、そう、だな。……報告を聞こう」


 そう言ったハインリヒだったが、彼女の口から発せられる報告はほとんど頭に入っておらず、言葉を紡ぐ彼女の唇の動きを、ただ見ているに過ぎなかった。


 アデライーデの報告が終わった後、キュプカーが「王子殿下、アデライーデ殿に王より勅命がくだっております」と言って、一枚の書状を差し出した。


 その書状を受け取ったハインリヒは、その内容に絶句した。

 王が自分にまかせた執務や決定に口を出すなど、今までただの一度もなかったことだ。猛烈なダメ出しを食らったようで、ハインリヒはその麗しい顔を凍らせた。


 王の勅命は絶対だ。

 しかし、なぜ今なのだ。

 いや、とハインリヒは思った。


(――今、だからなのか)

 ハインリヒは自分の弱さに絶望を感じた。


「勅命は承知した。……この件は、後はジークヴァルトにまかせる」

 ハインリヒが絞り出すような声でそう言うと、アデライーデは「御意に」と頭を下げ、部屋を辞していった。


 彼女が去った後、ハインリヒは呆然自失の様子で固まっていた。しばらくの後、幽霊のような顔色でふらりと椅子から立ち上がる。


「一時間で戻る。今は……一人にしてくれ」


 かすれた声で言うと、ハインリヒは執務室を出ていった。その背中を見送りながら、キュプカーは沈痛な面持ちで小さくため息をついた。


(おふたりのあの噂は本当だったのだな……)


 しかし、自分ごときが口を挟むことではない。

 そう思ったキュプカーは、せめて王子殿下の負担が軽くなるようにと、山積みになった書類の束に手を伸ばした。


     ◇

 目の前に差し出された紅茶に、リーゼロッテは微笑んだ。

 明日は王城を辞して領地に帰る日だ。この王太子用の応接室でお茶を飲むのも今日で最後かと思うと、少しさびしい気がする。王城での滞在は、結局は一カ月弱となった。


 リーゼロッテがもうすぐ誕生日を迎えることもあって、領地への帰還が決められたのだが、リーゼロッテの力の制御はまだまだ不十分な状態だった。

 当面は、週に一度だけ、ジークヴァルトの守り石を外して眠り、夜のうちに力の解放をすれば、リーゼロッテに負担が少ないということで落ち着いた。


(ハルト様の言うとおり、十五の誕生日を迎えれば何かが変わるかしら?)


 そこは誕生日を迎えてみなければわからない。その時になってから考えればいいと、ジークヴァルトには言われている。

 リーゼロッテは帰郷を前に、ジークヴァルトと共に力を制御する特訓を続けていた。そのかいあってか、最初の頃に比べてほんのわずかな力なら、ひとりでも集められるようになってきている。


 最終日の今日も王太子専用の応接室のソファに座って、リーゼロッテは特訓に励んでいた。そんなリーゼロッテを監督しつつ、ジークヴァルトはその横で山のような書類仕事を片付けている。

 そんな時にカイが久しぶりに顔を出して、いつもように紅茶を淹れてくれたのだった。


「明日は早く出るの?」


 カイの問いかけに、いいえとリーゼロッテはかぶりを振った。


「領地まで馬車で三時間程度ですので、朝食はゆっくりといただけますわ」

「そっか。でも、なんだかさみしくなるね」


 カイのその言葉に、リーゼロッテはゆっくりとカイの方へ顔を向けた。


「わたくし、カイ様の淹れてくださるこの紅茶、やさしい味がして大好きですわ」


 エメラルドのような瞳でカイを真っ直ぐ見つめ、リーゼロッテは淑女の笑みを向けた。カイの紅茶はまろやかな舌触りで、いつでも香しくとてもおいしかった。

 疲れている時、うれしいとき、落ち込んでいる時。

 カイはリーゼロッテの体調に合わせて、ミルクや砂糖が多めだったり、寛げるようにハーブを入れたり、時にはスパイスの効いた刺激的なものまで、いろんな紅茶を淹れてくれた。気遣ってもらっているのだと思うと、リーゼロッテはその気持ちにとても癒された。


 カイにしてみれば、お茶を淹れることは相手の懐に入るための手段の一つに過ぎなかったが、それなりに美味しい紅茶の淹れ方を研究してきた身としては、そう言われて悪い気はしなかった。


「いつでもまた淹れてあげるよ」


 ふたりはにっこりと微笑みあった。


(結局はオレも、この令嬢に毒気を抜かれているのかもな)

 微笑みつつ、カイは内心で苦笑した。


「あなたたちも、最後まで浄化してあげられなくてごめんなさいね……」

 リーゼロッテが目の前の小鬼たちに視線を向けた。


 目の前のテーブルの縁には、三匹の小鬼たちが並んで座っていた。見た目は不細工だったが、どれもおめめがきゅるんとして愛らしく見える。


(またかわいくなってるし……)

 リーゼロッテの力は理解の範疇を超えると、カイはあきれる他なかった。


 小鬼たちに話しかけつつ、リーゼロッテは小さな緑色の光の粒を小鬼たちに投げて飛ばしている。小鬼たちは行儀よく順番に並んで、その粒を気持ちよさそうに受けとめていた。


 そんなリーゼロッテを横目に、カイは先ほどから自分を睨みつけているぬしを振り返った。


「ジークヴァルト様。オレがリーゼロッテ嬢に大好きって言われたからって、そんな怖い顔しないでくださいよ」

「カイではない。紅茶がだ」


 小声で言うカイに、ジークヴァルトは即答した。


「もう、男の嫉妬は醜いですよ。ご自分の婚約者なんですから、リーゼロッテ嬢の愛は自力で掴んでください」


 あきれるように言うと、ジークヴァルトは言葉に詰まり、ふいとカイから視線をそらした。


(何コレ、すっげーおもしろい)


 カイは意地の悪い表情になると、リーゼロッテに聞こえないように、そっとジークヴァルトに耳打ちした。


「大丈夫、イケますよ、ジークヴァルト様。いいですか? 女性はガッと抱きしめてグッと口づければイチコロです。はじめは驚いて嫌がるかもしれませんが、憎からず思っている相手には、そのまま攻めれば蕩けてふにゃふにゃになりますから」


 カイの言葉に一瞬動きが止まったジークヴァルトは、そのあと無言でリーゼロッテに視線を移した。リーゼロッテは無邪気に小鬼の浄化を続けている。


(やばい、マジでおもしろすぎる)


 カイは笑いだしそうなのを必死でこらえ、こんな面白い光景が見られるのは、今日で最後かと思うと心から残念に思った。


「オレ、この後行かなきゃならないところがありますから」


 王妃に定期報告をする日だということを思い出して、カイは部屋から出ていこうとした。振り返り、「リーゼロッテ嬢、気をつけてね?」とにっこり言ってから扉を開けた。


 リーゼロッテは明日の道中を心配してくれたのだと思い、「ありがとうございます」と返したが、カイは意味深にジークヴァルトをみやり、再びリーゼロッテに笑みを残して出て行ってしまった。


 リーゼロッテはカイを見送ると、再び小鬼たちに向き直った。


「最後まで、あきらめませんわ」


 そう言うと、そのふっくらした口元の前で祈るようにゆるくこぶしを握り、その両手の中に力を集め始めた。


(あきらめたらそこで試合終了なのよ。安西先生もそう言ってたじゃない)

 某バスケ漫画を思い出し、リーゼロッテはその手の中に意識を集中した。


 ジークヴァルトはその姿を立ったままじっと見つめていた。

 手のひらの中の緑の光を、大事そうに集めていくリーゼロッテの口が何事かつぶやいている。そのうっすらと開かれた唇は、あまりにも無防備に見えた。

 ジークヴァルトは無意識に、その隙だらけのリーゼロッテに手を伸ばしていた。


 その手がリーゼロッテに届こうとしたとき、テーブルの上のティーカップがカタカタとふるえだし、次の瞬間ガチャンと大きな音をたてた。

 驚いてそちらをみやると、カップが真っ二つに割れている。残っていた紅茶がソーサーにこぼれてテーブルにまで溢れだしていた。


 咄嗟にジークヴァルトはリーゼロッテの頭を抱え込み、自分の胸に引き寄せた。いきなりのことにリーゼロッテは呆然と割れたカップを見つめることしかできない。

 以前の生活ならば、カップが割れるなど日常茶飯事の風景だったが、今、まさにそれと同じことが起こり、リーゼロッテは激しく動揺した。


 それだけではなかった。

 応接室の調度品も、ガタガタと音を鳴らしてふるえている。浄化を受けていた小鬼たちも、おびえたように床の上を逃げまどっていた。


(周囲の異形たちが騒いでいる)


 ジークヴァルトはリーゼロッテをその腕に抱きしめながら、あたりを警戒した。すると、ざわついていた空気は、すっと引いて何事もなかったかのように静寂を取り戻した。


「何だったのだ、今のは?」


 ジークヴァルトはそう呟いた後、腕の中のリーゼロッテをみやった。リーゼロッテは涙目でジークヴァルトを見上げると、震える声で言った。


「ヴァルト様……今のもわたくしのせいですか?」

「いや、今のはお前のせいではない。むしろ……」


 そう言ったあと、ジークヴァルトは押し黙った。


(オレは今何をしようとした?)

 リーゼロッテからその身から離すと、ジークヴァルトはそのままじっと考え込んでいた。


 リーゼロッテが応接室をみやると、飾られていた花瓶や絵画、時計など、いろんなものが床に落ちたり傾いたり、部屋の中は散々な状態になっていた。

 ジークヴァルトが合間に確認していた書類の束も床に落ちて散乱している。


(いけない、大事な書類が)


 リーゼロッテは散らばった紙を集め、テーブルの上に戻そうとした。幸い、こぼれた紅茶で濡れてしまったりはしていなかった。


 ふと一枚の書類に目が止まる。内容はちんぷんかんぷんだったが、長い文章の最後に書かれた署名を見て、リーゼロッテは目を見開いた。少しクセのあるその文字に、リーゼロッテは見覚えがあったからだ。


『S.Hugenberg』と書かれた署名の筆跡を凝視する。その筆跡はリーゼロッテが子供のころにもらった前公爵ジークフリートの手紙と同じものだった。

 ふと、昨日のエラとのやり取りが脳裏をかすめる。

 ジークフリートに贈ったと思っていたハンカチが、ジークヴァルトの手に渡っていた。なぜ、そうなったのか。その答えがこれならば、全てつじつまがあってしまう。


「あの、ジークヴァルト様」


 ギギギと油の切れたブリキのおもちゃのように、リーゼロッテはジークヴァルトを振り返った。


「なんだ?」


 訝し気に問われたリーゼロッテは、手に持った書類をジークヴァルトの前に差し出し、ぎこちなく聞き返した。


「こちらの署名は、ジークヴァルト様のもので間違いございませんか?」

「ああ、そうだが。それがなんだ?」


 それを聞いたリーゼロッテは、口をすぼめて変な表情になった。


「なんだ? すっぱいものを食べたような顔をして」

「い、いいえ、なんでもありませんわ」


 慌てたようにリーゼロッテはかぶりを振った。


(エラに、エラに確かめなくては)


 リーゼロッテは目の前の惨状もすっかり忘れて、この事実を否定してくれる誰かを求めていた。

 ――リーゼロッテの子供の頃の文通相手が、ジークフリートではなく、はじめからずっと、ジークヴァルトであったという事実を。

 

     ◇

 護衛をつけない状態でハインリヒは、行くあてもなく王城内を彷徨っていた。通常ではあり得なかったが、それだけ冷静さを欠いた状態だった。

 あわただしく行きかう城仕えの者たちの合間を縫って、ハインリヒは歩を進める。

 王太子がひとりでふらふら出歩いているなどと誰もが思わなかったせいか、すれ違ったほとんどの人間がハインリヒの存在に気づくことはなかった。


 ふと気づくと、王城の最奥、王族以外は立ち入ることが許されない、いつもの場所にたどり着いていた。風がそよと吹き、木々が揺れる音以外、あたりは静寂に包まれている。


 ――そこへ、行ってはいけない。

 そう思うのに、ハインリヒは歩みを止めることはできなかった。


 茂みの奥から、鈴を転がすような楽し気な声が聞こえた。ずっと会いたくて、だが、今、いちばん会ってはいけない彼女の声だ。


「や、ダメよ殿下。すり寄ってこないでちょうだい。あなたに触れるとハインリヒ様に怒られてしまうわ」


 愛おしい彼女の声がする。ずっと聞いていたい。ずっとそばにいたい。


「きゃっ、ダメだったら殿下! もう、胸に飛び込まないで」


 かさりと音を立ててハインリヒがその場にたどり着いたとき、猫の殿下をそのやわらかそうな胸に抱いている彼女がそこにいた。風に揺れる木漏れ日が、まぶしくアンネマリーを包んでいる。


 ハインリヒに気がつくと、アンネマリーは輝くような笑顔を真っ直ぐに向けた。


「ハインリヒ様!」


 そう言った後、触れないよう約束した猫の殿下を腕に抱いていることを思い出し、アンネマリーはばつの悪そうな顔をした。


「あのこれは、殿下から自分で……」


 ハインリヒならきっと笑って許してくれる。ハインリヒが時折見せるやさしい苦笑いの表情が、アンネマリーはとても好きだった。


 ハインリヒはそんなアンネマリーを前にして、心のままに手を伸ばしたくなる。だが、もう許されない。いや、初めから許されるはずなどなかったのだ。

 爪が食い込むほどにハインリヒは自身の手を握りしめた。


「……いでくれ」

 うつむいたまま、ハインリヒは低い声で言った。


「え?」

 アンネマリーは、ハインリヒの顔に、表情が全くないことに戸惑いを感じた。


「クラッセン侯爵令嬢、わたしの目の前に、二度とその姿を見せないでくれ」


 目を合わすことなく、ハインリヒの冷たく平坦な声が響く。


「え……?」

 アンネマリーの顔から色が無くなる。何を言われたのか、理解ができなかった。

 歩がひとりでに前に出て、アンネマリーはハインリヒに近づいた。気づくと、その表情の消された蒼白な顔に、そっと手を伸ばしていた。


「触れるなっ!」


 鋭く大きな声に、アンネマリーはびくりと身を震わせた。


「ハイン……リヒ、様……?」

 信じられないものを見つめるように、アンネマリーがハインリヒの顔を凝視する。伸ばそうとした指先が宙をさまよい、殿下を抱く腕に力が入った。


 その視線を受けたハインリヒは一度ぎゅっと目をつぶって再び目を開けた。宙を睨み、さげすむような表情をつくってから、ゆっくりとアンネマリーへとその顔を向けていく。


「その名を呼ぶことも禁ずる。不愉快だ」


 氷のような表情で言い放つと、ハインリヒは踵を返した。振り返りもせずその場を去っていく。


 ぶな、と鳴いた後、アンネマリーの腕から猫の殿下が飛び降りて、ハインリヒを追うように走っていった。

 残されたアンネマリーは、茫然としてその場に立ちつくす。木漏れ日が、ただ静かに、殿下の庭に揺れていた。


 冷たくなってきた風が横をすり抜けるように吹いていく。どれくらいそうしていたのだろう。気づくと、夕日がアンネマリーのその身を照らしていた。


(帰らなくちゃ……)

 ――でも、どこに?


 アンネマリーはなぜ今ここに、自分がいるのかわからなかった。

 それでもふらりと歩き出す。


 ここにいてはいけない。また、王子殿下の不興をかってしまうから。

 そうだ。自分は王子との約束を守らなかったのだ。猫に触れてはいけないと、初めに約束をしていたのに――


(自業自得……なのだわ)

 アンネマリーはどこをどう歩いているのかもわからないまま、ただ重い足で歩き続けた。


     ◇

 夕刻に王妃に謁見しに離宮を訪れたカイは、顔を見た瞬間、イジドーラ王妃の様子がいつもと違うことに気がついた。


「イジドーラ様? 何かあったんですか?」


 王妃はカイを一瞥したあと、たたんだ扇を口元に置いたまま、不満そうな表情で目をそらした。


「王と喧嘩でもしたんですか? ……そんな拗ねた顔をして」


 カイがそう問いかけると、イジドーラは横目でカイを見やった。


「フーゲンベルクの眠り姫が呼び戻されたのよ」

 そう言って、納得がいかないという風に、王妃は薄い水色の瞳をすがめてみせた。


「フーゲンベルクの眠り姫……? アデライーデ様、ですか?」

 カイはここ数年会っていない、隻眼せきがんの美しい令嬢を思い浮かべる。


「……バルバナス様がよく許しましたね」

 イジドーラが何を不満に思っているか分かっていながら、カイは別のことを口にした。


 バルバナスはディートリヒ王の実兄だ。王兄であり、大公と言う地位にありながら、公務もそこそこに辺境の地でわりと気ままに過ごしている自由人だ。

 根っからの武人で、国の騎士団の頂点に立つ立場でもあり、脳筋の騎士たちにはことさら人気が高い。女だてら騎士として働くアデライーデも、そんなバルバナスを慕って彼の元で任務に就いているとカイは聞いていた。


「バルバナス様も本当に使えないお方だこと」

 イジドーラは珍しく苛立ちを含んだ声で言った。


「呼び戻されたって……それは王の命ですか? だとしたらさすがのバルバナス様も嫌だとは言えませんよ」

 カイは大げさに肩をすくめて見せた。


「……まあ、いいわ」

 扇を広げると王妃は囁くように言った。


「王は眠り姫をジークヴァルトの小鳥につける気でいるわ」

「あー、なるほど……妥当と言えば妥当なんじゃないですか?」


 むしろ、いずれフーゲンベルク家に嫁ぐ彼女のお目付け役としては、アデライーデほどの適任者はいないだろう。リーゼロッテの今の状態をおもんぱかるに、そこに突っ込みを入れる余地は見当たらない。


「これは諦める他なさそうですよ? イジドーラ様」


 カイがそう言うと、子供のように拗ねた顔をしたあと、王妃はつんと顔をそらした。


「そんなかわいい顔しても、王を喜ばせるだけですよ」


 何枚も上手なディートリヒ王に、イジドーラはこれからどう出るのか。カイは予想もできない展開を期待している自分に、ろくでもないな、と我がことながらあきれていた。


     ◇

 王妃の離宮を出て足早に王城の廊下を進んでいたカイは、廊下の向こう側から幽霊のような顔をした令嬢がひとり歩いてくるのが目に入った。

 そこそこ遅い時間だ。訝し気に近づくと、それがアンネマリーであることにカイは気がついた。


「アンネマリー嬢?」

 いつもの彼女では考えられないような弱々しい姿に、カイは目を見張った。ただ事ではないと感じ、人目につかない廊下の先へと彼女をいざなった。


「カイ様……?」

 生気のない瞳でカイの姿を認めると、その直後アンネマリーは大粒の涙をこぼし始めた。


(ああ、これは……ハインリヒ様がらみだな)


 そう思うと、先ほど王妃から聞いた話を思い出し、そういうことかと納得がいった。まさにイジドーラが恐れていた展開だ。


(……王もひどいことをする)

 ――王子がどんな選択をするかなんて、王には分かっていただろうに。


(それにしても……ハインリヒ様も、もう少しうまくやればいいものを……)


 王子の愚直なまでの真面目さは、一周回って尊敬に値する。自分では逆立ちしても真似できそうになかった。

 嗚咽をこらえるアンネマリーを前に、カイはどうしたものかと思案した。


「カイ様」

 震える声で名を呼ぶと、アンネマリーはハインリヒの懐中時計を差し出した。こんなときでも気丈に振るまおうとする姿が彼女らしいとカイは目を細めた。


「こちらを……王子殿下にお返しして頂けませんか?」


 傷ついて弱くなっている令嬢につけこむなど、カイにとってはお手の物だったが、今はどうしてかそんな気分になれなかった。

 なんだかんだいっても自分は、あの不器用でクソ真面目な心優しい王子のことを気に入っているのだ。イジドーラのことを抜きにしても、そう認めざるを得ないと、カイは自嘲気味に笑った。


「アンネマリー嬢……オレが言うべきことではないと思うけど……ハインリヒ様のこと、信じてやってもらえないかな?」


 そう言ってカイは、差し出された手を時計ごと自身の両手で包み込み、懐中時計をアンネマリーに握らせた。


「大丈夫だから……これはこのまま君が持っていて」

「ですが、わたくしは……」


 カイの言葉に、アンネマリーの瞳が動揺に揺れる。あの時の凍るようなハインリヒの瞳を思い出し、水色の瞳から、再び涙がこぼれ落ちた。


(ああ……なんて綺麗なんだ)


 その涙が自分のためでないことを、カイは少し残念に思った。もしも彼女の全てが自分のものだったなら。

 もっと滅茶苦茶にできるのに――


 カイはその目じりに口づけたいのを我慢して、人目につかないよう、アンネマリーを王妃の離宮へと送っていった。


     ◇

 翌日、リーゼロッテは王城の入口で、迎えの馬車に向かっていた。義父が迎えをよこすといったが、ジークヴァルトが公爵家の馬車を用意してくれたようだ。

 ジークヴァルトに手を引かれ、その後ろをエラがついて来る。


 目に留まった馬車は、ダーミッシュ家のものよりも豪華なものだった。さすが公爵家といった繊細な作りで、フーゲンベルク家の馬の家紋がさりげなくあしらわれている。

 馬車の後ろに、馬を引いた騎士が三人待っていた。道中の護衛にと、こちらもジークヴァルトが公爵家から用意してくれたらしい。ただ、そのうちのひとりは、王命でしばらくリーゼロッテの警護につく王城の騎士とのことだった。


 ジークヴァルトに礼を取る護衛たちの中で、真っ直ぐこちらを見ている細身の騎士に目が留まる。

 体の大きい若い男と壮年の男の間に挟まれたその騎士だけが、王城騎士の制服を纏っていた。他の二人は公爵家の護衛のようだ。


 近づいていくと王城の騎士は、長い真っ直ぐな髪をポニーテールにした女性騎士だということに、リーゼロッテは気がついた。その女性騎士の片目には眼帯がつけられている。


「姉上」

 

 ジークヴァルトのその言葉に、横にいたリーゼロッテの目が丸くなる。

(姉上……、ってヴァルト様のお姉様!?)


 リーゼロッテは、あわてて彼女に礼を取った。ジークヴァルトの姉なら、それはすなわち公爵令嬢である。伯爵家の令嬢であるリーゼロッテが、ぶしつけな態度をとっていいはずもなかった。


「あら、その娘がヴァルトの婚約者なの?」


 すいとリーゼロッテの顔をすくい、女性騎士はリーゼロッテを上向かせる。

 黒髪のジークヴァルトとは違って彼女はダークブラウンの髪だったが、青い瞳がジークヴァルトそっくりだった。眼帯が目に入るが、その美しい顔に見つめられて、リーゼロッテはその頬を赤く染めた。


「まあ、なんて可愛らしいの。ジークヴァルトにはもったいないわ」


 そう言ってリーゼロッテをその胸に抱きしめる。騎士服に身を包んでいたが、その胸は柔らかくリーゼロッテの頬を包んだ。


(お姉さま……!)

 何かいけない世界に足を踏み入れそうで、リーゼロッテは宝塚の男役のような方だと、そんなことを思った。


 ふいに手を引かれ、彼女から引き離される。

 気づくとリーゼロッテは、今度はジークヴァルトの腕の中にいた。こちらはごつごつしていて、あまり居心地はよくない。リーゼロッテは、ちょっぴり残念に思った。


「もう、男が焼きもちを焼くなんてみっともない」

「ダーミッシュ嬢が困っている」

「あきれた、ホントに甲斐性がない男ね! ごめんなさいね、不肖の弟で」


 女性騎士に顔を覗き込まれ、リーゼロッテは挨拶もしていないことに気がついた。

 上位貴族の許しなしに、こちらから名乗るのはルール違反だったが、これだけ気安く話かけられているなら大丈夫だろう。そう思ったリーゼロッテは、ジークヴァルトの腕をやんわりと解くと、優雅なしぐさで淑女の礼を取った。


「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。リーゼロッテと申します、お義姉さま」


 礼を取った姿勢のまま、しばしの沈黙が訪れた。なかなか返答がないことにリーゼロッテは戸惑いつつも、そのままじっと待ってみる。


(もしかして姉呼ばわりは早まったかしら……)

 内心冷や汗をかきながら、無理な姿勢に体がプルプルし始めたとき、女性騎士は青い片目を見開いて、「かっ」と大きな声を上げた。


 怒らせてしまったのかと体を震わせたリーゼロッテは、次の瞬間には、再び女性騎士の腕の中にかき抱かれていた。すりすりと頬ずりまでされている。


「かわいー! 何この、可愛すぎるわ。持って帰りたい、いいかしら?」

「いいわけあるか」


 ジークヴァルトがあきれたように言い、再びリーゼロッテを奪い返した。


「ああん、もう、心の狭い男ね! そんなんじゃリーゼロッテに嫌われるわよ!」


 姉弟のやり取りにリーゼロッテは呆然としていたが、後ろで控える他の騎士たちはその様子を黙って見守っている。とりたてて珍しい光景ではないということだろうか。


「ああ、ごめんなさいね。わたしはアデライーデ。ジークヴァルトの姉よ。一応は公爵令嬢だけど、今は騎士として働いているわ」

「アデライーデ様」


 ようやく名前が知れてリーゼロッテは、アデライーデに淑女の微笑みを向けた。


「食べちゃいたいわ」

 アデライーデが目をらんらんとさせて言うと、顔をしかめたジークヴァルトがリーゼロッテをその背に隠すように腕を引いて移動させた。


「もう、ジークヴァルトは職務に戻りなさい。ここからはわたしの管轄よ」


 そう言うとアデライーデは、リーゼロッテの前に跪いて、恭しく騎士の礼を取った。


「王の勅命により、リーゼロッテ様の護衛を任されましたアデライーデ・フーゲンベルクにございます。あなたをお守りいたします……この命に代えても」


 アデライーデはリーゼロッテの白い手を取り、その指先に口づけを落とした。


 リーゼロッテの頬がぽっと染まる。

 同時に、ジークヴァルトの口から小さく舌打ちがもれた。

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