第16話 星読みの王女

「……聖女の力が目醒めたそうね」


 王女は高い塔の一室の窓から、遠くに見える王都ビエルサールを見つめていた。霧にけぶる街並みのその向こうに、王城の影がおぼろげに浮かんでいる。


「クリスティーナ様……」


 後ろに控えていた侍女が、青ざめた顔でその名を呼ぶ。部屋の扉の前にたたずむ従者の男は、表情を変えず無言のままだ。


 第一王女が住まう離宮の一つである東宮は、静寂に包まれていた。まるで世界と隔離されているかのように。


「ピッパが帰ったら随分と寂しくなったわ」


 可愛い妹姫を思い出しながら務めて明るく言うと、クリスティーナは右手につけられたハンドチェーンの飾りの宝石をちゃりといじった。


 白く細い手首にはめられたブレスレットから幾重にもチェーンが伸び、王女の中指の指輪につながっている。

 チェーンは繊細に編み込まれており、まるで緻密で豪華なレースのようにもみえた。

 手の甲はそれに飾られた数々の宝石で隠されている。


 うつむいた王女の頬に、プラチナブロンドの髪がさらりとかかった。その表情は穏やかだったが、はらんだ緊張を隠しきることはできていない。


 託宣が果たされるときは近い。

 ――そのために、自分は生かされてきたのだから。


 王女はその菫色の瞳で、静かに王都の街並みを、遠く、みやっていた。


     ◇

 リーゼロッテは王妃の離宮に滞在しているアンネマリーを訪ねていた。

 アンネマリーにあてがわれた部屋は豪華な広い客間で、気後れしてしまうほどきらびやかな雰囲気だった。自分が滞在する客間も、十分立派な部屋だったが、こちらは女性が好むような趣向の内装が施されている。


「アンネマリーの部屋はとても華やかなのね」


 豪華絢爛な調度品の数々に、リーゼロッテはいつも以上に緊張していた。異形は近くにいなかったが、不意を突かれて粗相を働かされてはたまったものではない。無意識に胸の守り石を握りしめた。


「この部屋は豪華すぎて落ち着かないわよね」

 アンネマリーはもう慣れたというように、肩をすくめて見せた。


 『星読みの間』と呼ばれるこの部屋は、実は、王太子妃が王妃教育のために代々使ってきた部屋だった。しかし、アンネマリーにはその事実を知らされてはいない。


「この居間と寝室の他に、サロンと衣裳部屋と書斎までついているのよ? まるでお姫様になった気分だわ」


 実際、アンネマリーには専属の王城の侍女がついて、衣装から何からすべて揃えられていた。


 王女の話し相手と言っても、始終客人のように扱われたため、アンネマリーは自分の王城滞在に何か裏があるのではないかと危惧していた。

 他国との外交を担う父が、権力を握り過ぎないようにするための人質だろうか? しかし、自分の父がそんな野心を抱いているとも思えない。クラッセン侯爵家は代々王家派だ。長い歴史において王家との軋轢なども皆無だった。


 王妃に休暇をもらって久しぶりに領地に帰ったときも、母のジルケはそんなそぶりは見せなかった。むしろ、「そうそうない体験なのだから存分に楽しめばいいじゃない」とあっけらかんと言われ、アンネマリーは苦笑したくらいだ。


 そしてその時、初めからこの滞在は期限付きのものと王家から申し入れがあったことを知らされた。


「リーゼは先にダーミッシュ領に戻るのね?」


 リーゼロッテは、十五歳の誕生日を前に一度領地に帰ることになったため、その挨拶でアンネマリーを訪ねていた。


 リーゼロッテが異形を祓ったあの日のことを、アンネマリーは深く尋ねなかった。何か事情がありそうだったが、表向きは賊の侵入ということで片付けられていた。

 何も知らされないということは、自分が知るべきことではないのだろう。


 あの日以来、アンネマリーは王子と一度も会っていない。預かっている懐中時計も、アンネマリーが持ったままだ。


(時計がなくて不便を感じていらっしゃらないかしら……)


 幾度となく殿下の庭へ行ったが、そこに猫と戯れるハインリヒの姿を見つけることはできなかった。


「……最近、王城内はたいへんなようね」


 アンネマリーは遠回しに聞いてみる。リーゼロッテはその言葉のまま受け止めたようで、少し心配そうな顔で言った。


「先日の騒ぎの後処理で、皆様お忙しいようだわ」


 リーゼロッテは毎日のように王太子の応接室に通っていたが、最近ではジークヴァルトが席を外すことも多い。

 王子とカイに至っては、その後ろ姿を遠くから幾度か見かけた程度で、遠目に見てもハインリヒは殺伐とした様子だった。まあ、カイの方は相変わらずに見えはしたが。


「特に王子殿下はお疲れのご様子で……」


 リーゼロッテのその言葉に、アンネマリーは胸が締めつけられた。

 自分も近いうちに王城を去らねばならない。そうすれば、ハインリヒと話すことはおろか、その顔を見ることすら叶わなくなるだろう。

 アンネマリーはうつむいてその形のいい唇をかみしめた。


「アンネマリー?」

 リーゼロッテが心配そうにのぞき込むと、部屋の扉が突然ガチャリと開いた。


 開いた扉の前に、見事な赤毛の可愛らしい女の子が立っていた。金色の瞳が好奇心でキラキラと光っている。


「ピッパ様」


 そう言ってアンネマリーが椅子から立ち上がって礼を取ったので、リーゼロッテもあわててそれにならった。やってきたのは第三王女のピッパだった。


「礼などいいわ。顔を上げて」

 ピッパ王女はアンネマリーを一度見てから、リーゼロッテに視線を移した。


「あなた、名は?」


小首をかしげた王女の問いに、「はい、リーゼロッテ・ダーミッシュにございます」と淑女の礼でそれに返した。


「あなた……星読みの王女にそっくりね」


 しばらく自分の顔を見つめていた王女にそう言われ、リーゼロッテは困惑した表情をのせる。星読みの王女は、この国に昔からある童話の主人公だ。


「星読みの王女……? ピッパ様、リーゼロッテが本の挿絵の王女に似ているのですか?」

 アンネマリーも戸惑ったように王女に問いかけた。


「違うわ。本物の星読みの王女よ。そんなことも知らないの?」


 王女は言うなり、自分の赤い髪に結ばれていた幅の広い緑のリボンをしゅるりと解いた。それを跪いているリーゼロッテの顔に巻き付けていく。

 目隠しをされるようにリボンを巻き付けられたリーゼロッテは、そのまま王女のなすがままにされていた。


 いびつな縦結びで目隠しを結び終えると、ピッパ王女は一歩後ろに下がってから、満足そうに頷いた。


「ほら、こうするとそっくりではない?」


 自信満々な王女の問いかけに、アンネマリーはどう答えてよいのかわからなかった。


 ふいに居間の扉がノックされた。そばに控えていた侍女が扉を開けると、城の女官らしき年配の女性が部屋に入ってくる。


「アンネマリー様、ご来客中に申し訳ございません」


 女官はすまなさそうにそう言った後、ピッパに向き直ってその目をつり上げた。


「王女殿下、また刺繍の時間を抜け出して、一体何をなさっているのですか?」


 そして、王女の前にいた目隠しされた令嬢が目に入ると、女官は慌てふためいた。令嬢の顔に巻き付けられているのは、どうみても王女の髪に結ばれていたリボンだ。


「お嬢様、申し訳ございません。いまお外しいたします」

 そう言って、女官はするするとリーゼロッテからリボンを解いていく。


 しゅるりとリボンが外れた後、リーゼロッテは伏せていた瞳を上げて「ありがとうございます」と女官に静かに微笑んだ。


「マルグリット様……!」

「……母をご存じなのですか?」


 息をのんだ女官の声に、リーゼロッテは小首をかしげる。女官はそれ以上は言葉にならないと言った風に、その顔に刻まれたしわを深めて郷愁を思わせる表情で目を潤ませた。


 ふいに部屋の入口の方で、あわただしげなざわめきが起こる。一同がそちらに目をやると、開かれた扉から王妃が入ってくるのが目に入った。


「顔をお上げなさい」


 礼を取っている一同にそう声をかけると、イジドーラ王妃はぐるりと部屋を見渡した。そこにリーゼロッテの姿を認めると、王妃はお茶会の時以上にぶしつけな視線を向けた。


(王妃様にめっちゃ見られてる!)


 内心冷や汗をかきながら、リーゼロッテはずっと瞳を伏せていた。一同が王妃の言葉を待っていると、ピッパ王女が場の雰囲気などお構いなしに王妃に話しかけた。


「お母様、アンネマリーが家に帰るというのは本当ですの?」


 王妃の視線を外れ、リーゼロッテは安堵のため息を小さく落とした。


「アンネマリー様は、社交界デビューの準備のためにご実家にお帰りになられるのですよ」

 たしなめるようにピッパに言ったのは、先ほどの女官だっだ。


「ここで準備すればいいじゃない。わたくし、アンネマリーにまだまだ聞きたいことがいっぱいあるわ」

「そのようなわけには参りません。アンネマリー様のご滞在は初めからそう決められております」


 王女のわがままには慣れている様子で、女官はぴしゃりと言った。


「ピッパ様、わたくしがおいとまするまでまだ時間はありますわ。それまでにいっぱいお話しいたしましょう?」


 アンネマリーがやさしく言うと、ピッパ王女は大輪の花がほころぶような笑顔をみせた。


「ええ! テレーズ姉様や異国の話をいっぱいしてちょうだい! アンネマリーの話はどんな物語よりも面白いもの!」


 そのまま王女は女官に連れられて部屋を後にする。


 名残惜しそうに王女は振り返ると、「アンネマリーはまた城にきてくれるわよね?」と懇願するように言った。


「お許しをいただけるのであれば、よろこんで参上いたしますわ」


 アンネマリーはぶしつけにならない程度に王妃に目線を向けた。ピッパも期待に満ちた目を王妃に向ける。


「ピッパはアンネマリーがお気に入りね。王におねだりするといいわ」


 王妃のその言葉に、ピッパ王女は顔をほころばせ、意気揚々と去っていった。


(太陽みたいな方ね、王女殿下は)


 リーゼロッテがそんなことを思っていると、王妃の視線がまた自分に向けられていることに身をこわばらせた。


「リーゼロッテと言ったわね」


 王妃の問いにリーゼロッテは瞳を伏せたまま、「はい、王妃殿下」と硬い声で答えた。


「顔を上げてこちらを見なさい」


 命令とあらばそうするしかない。リーゼロッテは伏せていた目を上げ、イジドーラ王妃の顔を真っ直ぐに見上げた。


 イジドーラ王妃は、切れ長の瞳に蠱惑的な唇をした美女だった。薄い水色の瞳に大人の色香がただよい、アッシュブロンドの髪が彼女の謎めいた雰囲気をよりいっそう強くしていた。口もとにあるほくろがなんとも艶めかしい。

 そんな美女に真正面から見つめられ、同性であるリーゼロッテも思わず顔を赤らめてしまった。


「……あまり似てないのね」

 そう言うと、王妃は興味をなくしたようにリーゼロッテから視線を外した。


「戻るわ」


 お付きの女官にそう言うと、イジドーラ王妃は来た時と同じようにあっという間に去っていった。


 ピッパ王女が太陽ならば、イジドーラ王妃は月のようだ。冷たく冴えわたる刺さりそうな三日月は、そんな彼女のイメージにぴったりだと、リーゼロッテはそんなことを考えていた。


「王妃様のお考えになることはよくわからないわ」

 アンネマリーが肩をすくませながら言った。


「……アンネマリーはすごいわね。あの王妃様のお側で過ごしていたなんて」

「あら、わたくしに言わせれば、フーゲンベルク公爵様と平然と一緒にいるリーゼの方がすごいと思うわ」


 リーゼロッテの言葉にアンネマリーは笑ってみせた。

 ジークヴァルトの一睨みは落雷に匹敵するのではないかなどと、一部の令嬢の間で囁かれているのだ。


 アンネマリーはこの離宮に滞在中、王妃とは会話らしい会話はほとんどしていない。アンネマリーがピッパ王女に話をしているのを、王妃は黙って聞いているだけだった。

 王妃は何も聞いてこなかったが、隣国に嫁いだ王女のことは知りたいだろうと思い、アンネマリーはそれとなくテレーズのことを幾度も話題に乗せた。

 もちろんピッパ王女の刺激にならない範囲のことであったが。


 テレーズ王女を取り巻く環境は、子供にありのままに話せるような内容ではなかった。それだけ、隣国の王室は悪意と邪念が渦巻く世界だった。

 王には父から報告がいっているはずだが、アンネマリーはテレーズのそばにいたからこそ、王妃に伝えなければいけないとそう思った。


 アンネマリーは王妃の反応をみながら言葉を紡いでいたが、どうも王妃は、話の内容よりもアンネマリー自身を観察しているように感じられた。


 試されている。


 その言葉がしっくりいくような空気をアンネマリーは否応なしに感じとっていた。王妃が何を試しているのかは、アンネマリーにはさっぱりわからなかったのだが。


(合格ならば、また王城に呼ばれることもあるかしら?)

 不合格なら、ハインリヒとふたりきりで会うことも二度とはないだろう。


 アンネマリーがふいに苦しそうな表情になる。リーゼロッテは気遣うようにアンネマリーの肩に手を添えた。


「何かあったの? アンネマリー」

「わたくし、ハインリヒ様が……」


 そこまで言ったアンネマリーは、小さく首を振ってから言い直した。


「いいえ。わたくし、ハインリヒ様にお預かり物をしているの。最近なかなかお会いできなくて、どうやってお返ししようかと思っていて」


 そう言って、アンネマリーは懐中時計を大事そうに取り出した。


「まあ、そうなのね。わたくしも最近は王子殿下にはお目見えできていないわ」


 その時計はリーゼロッテにも見覚えがあった。王子の実母であるセレスティーヌの形見の懐中時計だったはずだ。


「アンネマリーは王子殿下とよくお会いしていたの?」


 リーゼロッテの問いにアンネマリーは、「幾度かお話をさせていただいたわ」と顔を赤らめた。


「王子殿下はそれを、アンネマリーに持っていてほしいのではないかしら?」


 最近の王子の反応をみて、リーゼロッテは思ったことをそのまま口にした。

 王太子の応接室で、話の流れでアンネマリーが話題になると、王子殿下の顔がわかりやすいくらいほころんでいた。

 それに、アンネマリーが手にしているのは、王子が肌身離さず持っていた形見の懐中時計だ。そんな大事なものを、どうでもいい人間に預けるとは到底思えない。


「でも……」

 アンネマリーは不安そうに言った。


 手渡されたのは王子自身ではなく、カイの手からだった。

 ハインリヒの本意が分からないまま期待するのはおろかなことだと、アンネマリーは自分に何度も言い聞かせた。


「わたくしがジークヴァルト様にお願いすることもできるけれど……。お返しするにしても、やっぱりアンネマリーが直接お渡ししたほうがよいのではないかしら?」


 リーゼロッテの言葉に、アンネマリーは力なく小さく頷いた。


 アンネマリーの客間から帰る途中、リーゼロッテはずっと考えていた。

 ハインリヒ王子は、自身の託宣のことで重大な悩みを抱えているようだった。どういった事情かはわからないが、龍の託宣がある以上、個人的な感情で王太子妃を選ぶことなどできないだろう。


 ――アンネマリーの恋は、哀しい結果になるのかもしれない。

 ふたりが惹かれ合ってるのをこんなにも真近で感じてるのに。


 リーゼロッテにはどうすることもできない自分に歯がゆさを感じていた。


     ◇

 王妃の離宮を出ると、入口でキュプカー隊長が待っていた。


「ダーミッシュ嬢、今日はわたしが護衛の任を仰せつかった。部屋までお送りしよう」

「まあ、お手数をおかけして申し訳ありませんわ」


 リーゼロッテがそう返すと、「婚約者殿でなくて申し訳ないが」と、キュプカーははしばみ色の瞳をきらりと光らせて人懐っこい笑みを浮かべた。


「とんでもありませんわ。ジークヴァルト様はいじわるでいらっしゃるから、わたくしちっとも歩けませんの」


 キュプカーにはあの抱っこ輸送を何度も見られている。開き直ってリーゼロッテは拗ねたように言った。


「ご安心を、ダーミッシュ嬢。フーゲンベルク公爵閣下には、抱き上げての移動は絶対にしないよう仰せつかっております」


 礼を取りながら言うキュプカーに、リーゼロッテは思わず吹き出してしまった。キュプカーは職務上はジークヴァルトの上官だったが、爵位的にはジークヴァルトの方が上位の貴族だ。


「いやだわ、わたくしったら。こんな風にはしたなく笑ってしまうなんて」


 キュプカーと話していると、領地の義父を思い出してとても安心する。リーゼロッテは心からの笑顔を見せた。


 王城の廊下を進むうちに、向かう方向から緊張をはらんだざわめきを感じた。


「おや? 王のおなりのようだ。ダーミッシュ嬢もこちらへ」


 キュプカーに促されてリーゼロッテは廊下の端に寄り、膝をついて礼を取った。


 廊下の向こうから、赤毛の美丈夫が大勢の人間を従えて歩いてくる。デビュー前のリーゼロッテは王に謁見したことはない。緊張でのどが渇いてくる。


(すごいオーラだわ)

 カリスマとはかくやといった感じだった。


 王の一行はやがて近づき、リーゼロッテの目の前を通り過ぎようとした。礼をとって目線を下げていたが、リーゼロッテは王のすぐ斜め後ろを王子が歩いていることに気がついた。

 王が通り過ぎた後、注意深くリーゼロッテは目線を上げた。ハインリヒ王子の様子が気になったからだ。


 しかし、リーゼロッテは上げた視線のその先で、ディートリヒ王のそれとぶつかった。金色の瞳は雄々しく、獅子のようだ。囚われたかのようにリーゼロッテは、からんだ視線を外すことができなかった。


 通り過ぎざま、ディートリヒ王は横目でリーゼロッテを見やっていた。

 王と視線を合わすなど、不敬罪に問われても仕方がない。リーゼロッテが青ざめた表情をすると、ディートリヒ王はその口元にうっすらと笑みを浮かべた。

 それはほんの一瞬のことで、王の一行は何事もなかったかのように廊下を通り過ぎていく。


 王子殿下はこちらに一瞥もくれず行ってしまった。

 列の後方にカイの姿があったが、カイはリーゼロッテに気づくと、こちらが心配になるほど大げさにウィンクをよこしてきた。どんな状況でも平常運転のカイであった。


 リーゼロッテは呆然として、王が去った後も跪いたまま立ち上がれないでいた。


「ダーミッシュ嬢? 王の気にでも充てられたか?」


 キュプカーは手をとってリーゼロッテを立ち上がらせる。

 リーゼロッテは涙目になって、「キュプカー様、わたくし、どうしいたしましょう」と震える声で言った。

 キュプカーは怪訝な顔をして、リーゼロッテにどうしたのかと問うてみた。


「わたくし、先ほど、ディートリヒ王と目を合わせてしまいました。王は口元に笑みを浮かべられて……」


 ようやくそれだけ言うと、リーゼロッテは今にも泣きだしそうな顔になった。不敬罪に問われたら、養父母に迷惑をかけるかもしれない。そう思うと生きた心地がしなかった。


「なんと。あの王の笑顔を見られたのか」

 だが、キュプカー反応はリーゼロッテの予想に反するものだった。


「ダーミッシュ嬢は運がいい。王の笑みを見た者は、しあわせになると言われている。それほど貴重なものなのだ」


(何、そのケサランパサランみたいな扱いは)


 リーゼロッテが言葉を失っていると、キュプカーは安心させるように言葉を続けた。


「なに、王はうら若き令嬢と目が合ったくらいではお怒りにはなるまいよ。そもそもあの王がお怒りになった姿など、誰ひとりとして見たことがない」


 ディートリヒ王は賢王であると、平民から慕われている。それを疎ましく思う利権主義の貴族はいたが、キュプカーはそんな王を心から好ましく思っていた。


 気を取りなおしてキュプカーに手を引かれて王城の廊下を進むと、途中でジークヴァルトに遭遇した。

 キュプカーからジークヴァルトに引き渡されたリーゼロッテは、警戒するようにジークヴァルトから、じりと距離を取った。


「ヴァルト様、わたくし今日は、自分の足で部屋まで戻りますわよ」


 上目づかいでそう言うと、ジークヴァルトは無表情のまま手を差し伸べてくる。

 リーゼロッテが黙ったまま動かないでいると、ジークヴァルトは感情のこもらない声で言った。


「ではお嬢様、お手をどうぞ」


 予想外の言葉に、リーゼロッテは呆然とした。呆然としながらも差し出された手を取ると、ジークヴァルトはリーゼロッテを紳士のようにエスコートして、ゆっくりと廊下を歩きだした。


(これがケサランパサラン効果なの!?)


 ディートリヒ王おそるべし、などと不敬極まりないことを考えながら、リーゼロッテは客間の部屋までゆっくりと自分の足で歩いて帰った。


 客間の扉の前でリーゼロッテが手を放そうとすると、ジークヴァルトは何か言いたげにその手に力を入れた。


「ジークヴァルト様?」


 一向に手を離そうとしないジークヴァルトをいぶかしんで、リーゼロッテはこてんと首をかしげる。


「あれを返してくれないか?」


 突然そう言われ、「あれ、でございますか?」とリーゼロッテは聞き返した。


「この前、貸したあれだ」


 客間の入口の前でそんな問答をしていると、いつの間にか扉を開けてリーゼロッテを迎え出ていたエラが、おずおずと会話に入ってきた。


「恐れながら、公爵様がおっしゃっているのは、こちらのハンカチの事でしょうか?」


 エラの手には、きれいに折りたたまれた白いハンカチが乗せられていた。先日、リーゼロッテが泣いたときにジークヴァルトが差し出してくれたハンカチだった。


「ああ、それだ」

 ジークヴァルトはそのままエラからハンカチをうけとると、大事そうにそれを懐にしまった。


「明日、朝また迎えに来る」

 そう言って、ジークヴァルトはリーゼロッテを部屋の中へと促した。


「はい、お待ちしております」とリーゼロッテが言うと、ジークヴァルトはそのまま扉を閉めようとした。


「あの、ジークヴァルト様」


 王子のことが気になって、思わず呼び止めてしまう。振り返ったジークヴァルトは、無言でリーゼロッテの言葉を待っていた。


「いえ、おやすみなさいませ、ヴァルト様」

 リーゼロッテが逡巡したのちにそう言うと、ジークヴァルトは「ああ」と言ってリーゼロッテの頭にポンと手を置いた。


 手を引く時に、ジークヴァルトの小指が一房の髪をさらっていく。リーゼロッテの髪がさらりとその指の間をこぼれていった。

 ジークヴァルトはそれ以上何も言わずに、そのままぱたりと扉を閉めた。


「はあぁ」


 リーゼロッテの後ろで控えていたエラが、緊張を解いたように大げさに息をついた。


「どうしたの、エラ?」


 リーゼロッテのその問いに、エラは少し困ったように「公爵閣下の御前ではどうも緊張してしまって」と答えた。


「最近のリーゼロッテお嬢様は、公爵様と平然と話されていて、このエラは驚きでいっぱいです」

 エラは言葉とは裏腹にうれしそうな口調で言った。


 領地でのジークヴァルトへの塩対応を思えば、今のリーゼロッテの様子に驚いても仕方がないだろう。


「実際にお会いしてお話をしたら、とてもやさしい方だとわかったのよ」


 異形のせいでジークヴァルトが恐ろしかったとは、さすがにエラにも打ち明けられず、リーゼロッテはあたりさわりのないことでごまかしておいた。


「ええ、ええ、そうでございましょうとも。公爵様はリーゼロッテ様が贈られた刺繍の入りのハンカチを、あんなに大事そうに使ってくださっていますもの」


 リーゼロッテはその言葉に、信じられないものを見るようにエラを見つめた。


「刺繍入りのハンカチですって?」

「ええ、先ほど公爵様にお返ししたハンカチです。お嬢様はお気づきになられなかったのですか?あれは確かに、お嬢様が一年かけて刺繍を施されたものでした」


 エラの言葉にリーゼロッテは混乱した。


「え? でも、だって、あれはジークフリート様にさしあげたのよ」

「そんなはずはございませんよ。旦那様は確かにジークヴァルト様宛に贈られたとおっしゃっていましたし」


 リーゼロッテは顔色を白くした。義父が気を利かせてジークフリートではなく、婚約者であるジークヴァルトに贈ったのだろうか。


 領地に帰って、確かめなくてはならない。リーゼロッテはそう心に決めた。決めたのだが、翌日、リーゼロッテは、その心をさらに折られることになるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る