第15話 母の面影
「小鬼は視えるな?」
「はい、視えますわ」
ジークヴァルトの問いに、リーゼロッテは神妙な顔で頷いた。
ふたりは王太子用の応接室のソファに並んで腰かけていた。リーゼロッテは、ジークヴァルトの守り石をその手に握りしめている。
目の前のテーブルには、カイの淹れた紅茶が置かれ、その横、リーゼロッテの正面に一匹の小さな異形の者がうそうそと蠢いていた。
ジークヴァルトは大きな手を伸ばし、リーゼロッテが手にするペンダントを無言で取り上げた。リーゼロッテはその動きを黙って目で追う。
「どうだ、視えるか?」
ジークヴァルトは再び問いかけた。
リーゼロッテが視線を目の前のテーブルに戻すと、そこにいたはずの異形の姿が消えている。
「……視えないですわ」
リーゼロッテが絶望的な顔でそう言うと、それを後ろで見ていたカイが盛大にため息をついた。
「結局、振り出しに戻ったってだけ?」
あの日、王城に集まった異形たちは、リーゼロッテの力によってそのほとんどが浄化された。城内で起きていた体調不良や怪我の発生なども、あれ以来なりをひそめている。
それどころか、肩こり・腰痛・古傷の痛みなど、関係ないようなものまで改善したという者が続出していた。
城下町である王都ビエルサールでは、その日は犯罪の発生がほとんどなかったとの報告も上がっている。
異形はどこからか集まってくるので、ちらほらと再びその姿を現していたが、それはどこでも普段からいる程度の数であった。
「あれだけ強烈な力をぶちかましておいて、何この体たらく」
あきれたようなカイの言葉に、リーゼロッテは追い打ちをかけられた。リーゼロッテはジークヴァルトの守り石なしでは、やはり異形を視ることはできなかったのだ。
「カイ、それくらいにしておけ」
ハインリヒもカイの意見に概ね同感だったが、リーゼロッテを責めてもどうしようもなかった。
リーゼロッテは領地の屋敷で、日中は異形に取りつかれ、毎夜眠りと共に守護者の力を解放しては、それらの浄化を繰り返していたのだ。
毎晩のように見る夢は、浄化を夢で具現化したものだろうということに落ち着いた。
王城に来てから見る悪夢は、力が解放できずに、それであんなに消化不良の内容だったのだと、リーゼロッテは妙に納得した。
(あの日見た夢は、久しぶりにやりがいがあったもの)
翌日に目が覚めたときは、夢のせいか寝足りなくてしばらくぼんやりしていたが、心はいつになく晴れやかだった。起きがけにエラにクッキーを食べさせてもらうのも久しぶりで、王城に来てからは初めてのことだった。
ハインリヒ王子の説明では、浄化の力を使い果たすとお腹がすいて力が出なくなるらしい。領地でのこれまでの食生活は、エネルギー切れのせいだったのだと、リーゼロッテはこれまたおおいに納得した。
(あの日、夢の中でジークヴァルト様にクッキーを食べさせてもらっていたような気もするけれど……)
リーゼロッテは気づいたらいつもの客間のベッドの上だった。
このままリーゼロッテを領地に帰しても、リーゼロッテが自分の意思で異形を浄化できないことにはどうにもならなかった。
眠りについたリーゼロッテが放つ力はあまりにも強く、ハインリヒにはその身を削っているように感じられた。このままその状態を放置するのは、リーゼロッテにとってあまりにも危険だった。
かといって、ジークヴァルトの守り石を身につけて、ずっと力を放出しないでいるのもリーゼロッテの命に関わる状態だ。それに、力をためすぎると、また同じように異形たちが集まってくるだろう。
「でも、どうして眠りが力の解放になるって分かったんです?」
「ジークハルト様が教えてくださったのです」
カイの疑問にリーゼロッテが答えると、カイはその目を見開いた。
「ジークヴァルト様の守護者が?」
だったらもっと早く教えてくれればいいのに、とあきれたように言った。
「おもしろいから黙っていた、と言っている」
不機嫌そうにジークヴァルトは、宙を睨みつけた。
「奴が言うには、あれはダーミッシュ嬢の守護者の力らしい。ダーミッシュ嬢がもっと守護者と同調できれば、力を制御できるかもしれない」
ジークヴァルトの言葉に、ハインリヒは「そうか」とつぶやいた。
異形たちの暴走による事後処理や滞っている政務など、やらなくてはならないことが山ほどあった。あまりの忙しさに、最近はアンネマリーと話はおろか、その顔すら見ることもできていない。
ハインリヒはいつになく苛立つ日々を送っていた。
「リーゼロッテ嬢は、しばらくフーゲンベルクで保護したほうがいいのかもしれないな」
王城でまたあの騒ぎが起きないとも限らない。フーゲンベルク家なら、ジークヴァルト以外にも力あるものがいるので有事の際は対応がしやすいだろう。
ハインリヒは目頭を押さえ、疲れたように言った。今、ジークヴァルトが政務補佐を離れるのは戦力的に痛いが、リーゼロッテの件を後回しにもできなかった。
あの日、玉座の間や後宮、王妃の離宮にいた者たちは、王の計らいでみなその場にはいなかったようだ。王はこのことを予見していたのか。
ハインリヒは、父であるディートリヒ王にも苛立ちを感じざるを得なかった。
「……申し訳ございません、わたくしが至らないばかりに」
リーゼロッテの蚊の鳴くような声にハインリヒは、はっとして首を振った。
「いや、リーゼロッテ嬢の責任ではない。そうだろう? ジークヴァルト」
冷ややかに言われたジークヴァルトは「そうだな」とだけ返した。
「行くぞ、カイ」
ジークヴァルトの反応に苛立ったようにハインリヒは立ち上がった。
「最近、癒しが足りてないからねー」
カイは肩をすくめて、不機嫌なまま応接室を出ていったハインリヒの後を追った。
あの日、カイがリーゼロッテの客間を出て玉座の間に向かうと、王城内は仰々しいほどの神気に包まれていた。
途中の廊下には、あれほどいた異形の者たちは欠片ほどもいなかった。中には、浄化に抗うものもいたようだが、そのほとんどは有無を言わさず天に還っていったようだ。
(どんだけ暴力的な力なんだか)
静寂を取り戻した王城の廊下でカイはそんなことを思った。
玉座の間にたどり着くと、広間の真ん中で、眠るリーゼロッテを胸に抱きしめているジークヴァルトと、その後ろで片膝を立てて座ったまま、じっと上を見つめているハインリヒがいた。
「終わったんですか?」
カイの問いに、ジークヴァルトが「ああ」と短く答えた。
リーゼロッテはジークヴァルトの腕の中で、安らかな寝顔で眠っていた。
ここのところずっと優れない顔色をしていた彼女だったが、のぞき込んだその頬はバラ色に染まっており、色づいた唇は幸せそうに弧を描いていた。
(あの力がラウエンシュタインの秘密なのか……)
王太子用の応接室を出てカイはハインリヒの背を追いながら、あんな近くでふたりはよく耐えられたものだとあの日のことを思い返していた。もしあの場に自分がいたら、発狂していたかもしれない。
ふとアンネマリーの涙を思い出した。彼女がいなかったら、今頃自分はどうなっていただろう?
あれも無知なる者の力なのだろうか。
正直、彼らの存在など、今まで気にも留めていなかったのだが。
(調べてみる価値あり、か)
カイはそう思うと、行き詰っていた現状打破への糸口を捕まえたような気がして、その口元に知らず笑みを浮かべていた。
◇
リーゼロッテは同じソファの上、ジークヴァルトの膝と膝の間に座っていた。
ジークヴァルトの腕が後ろから囲うように降ろされ、その手はリーゼロッテの腹のあたりで組まれている。
「力を抜いて楽にしてろ」
守り石のペンダントを外した状態だったので、リーゼロッテは少し緊張していた。
ジークヴァルトはそっとリーゼロッテの力を探った。やはり、薄い膜のようなものがリーゼロッテを覆っているのが感じられる。
あの日、ジークヴァルトは、ゆっくりとその膜がほどけていくのをこの目で見た。あの感覚を思い出してみる。膜が解けた直後、眠ったリーゼロッテから力が解放されたのだ。
ジークヴァルトは自らの力を注意深くほんの少しだけリーゼロッテに注いでみる。その力は、瞬時に膜に吸い込まれて消えてなくなった。
(これが拒絶か)
自分の守護者が言っていたことを思い出す。
守り石の自分の力がリーゼロッテを覆っていたため、膜がそれから守るようにしてバリアを張り、眠ってもリーゼロッテの力が解放されなかったのだ。客間の結界がそれを助長する結果になった。
ジークヴァルトは次に、リーゼロッテの力を引き出せないか試みた。膜が解ける感覚をイメージして。
「ふ」
リーゼロッテの口から、小さな吐息がもれる。
ジークヴァルトの力に引っ張られるように、膜の隙間からリーゼロッテの力がほんの少しだけ漏れ出てきた。それは針穴のような小さなものであったが、確かにそれは外に導かれていた。
ジークヴァルトは一度力を注ぐのをやめた。それに合わせてリーゼロッテもくたりともたれかかってくる。
「大丈夫か?」
上からのぞき込むと、リーゼロッテは顔を上げこくりと頷いた。
「続けても大丈夫です」
そう言うと、リーゼロッテはその緑の瞳をそっと閉じた。
リーゼロッテの長い睫毛が、その頬に影をつくる。ジークヴァルトはそれを上からじっと見つめていた。
「ヴァルト様?」
不思議そうにリーゼロッテがジークヴァルトを見上げ、上目遣いの視線を送ってきた。
しばらくじっと見つめ合ったあと、ジークヴァルトは何も言わずにリーゼロッテの両手を自分のそれですっぽりと包み込んだ。
ジークヴァルトに手を取られ、リーゼロッテの鼓動がどきりと跳ねた。
「ここにオレの力を集める。……感じるか?」
そう言われ、リーゼロッテは握りこまれた自分の手のひらの中を意識する。そこには、いつも守り石に感じるあたたかいものが感じられた。
(ヴァルト様だ――)
青い光を感じてリーゼロッテはこくりと頷いた。
「ゆっくり凝縮してから解放する。お前はただ感じていろ」
リーゼロッテは力を抜いて手のひらのあたたかさに意識を集中した。
ジークヴァルトの言うように、あたたかなそれはその密度を増し、きゅうっと小さくなっていく。凝縮された青い塊は、今にも破裂しそうに張り詰めた。
それが一気に解放される。コルクの栓を開けるような感覚だと、リーゼロッテは思った。
「感じたか?」
ジークヴァルトの問いに、リーゼロッテは小さく「はい」と頷いた。
「今度はお前の力だ」
そう言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの小さな手を包む自分のそれを、リーゼロッテの胸の前まで運んだ。
リーゼロッテの力を慎重に引き出してみる。針穴のような隙間から、リーゼロッテの力が集まってくる。ジークヴァルトはそれをゆっくりと集めていった。
自分の力よりずっと時間がかかる。ちらりとリーゼロッテの様子を伺うが、苦しそうな様子は見られなかった。そのままゆっくりとリーゼロッテの手のひらの中にためていく。
「お前の力だ。わかるか?」
「はい、わかります」
リーゼロッテは目を瞑ったままひそやかに答えた。
ジークヴァルトは、そのまま力を凝縮していく。うんと少ない量だったが、凝縮された力は緑の綺麗な色を放っていた。
「いくぞ」
ジークヴァルトはそれを一気に解放した。ぽんとした感覚をリーゼロッテは覚えた。
(今度はマーブルチョコの筒を開けたときみたい)
そんなことを思ってリーゼロッテは心の中でくすりと笑った。
「感じたか?」
ふいに耳のもとで言われ、再び心臓が跳ねる。
「は、はい。感じました」
そう返事をすると、自分でもやってみるよう促される。
手のひらに意識を集中した。ジークヴァルトの導きの中、ほんの少しだけ力が集まったのを感じる。
「そのままそれを圧縮してみろ」
そう言われて手のひらに意識を傾けるが、うまくいかない。そうこうしているうちに、手のひらの中のそれはふわりと広がり、大気に溶けてなくなった。
「ああ」
リーゼロッテがそう声を上げると、ジークヴァルトは包んでいた手のひらを解放した。
「今日は終わりだ」
「でも」と斜め後ろを振り返ったリーゼロッテは、思いのほか近いジークヴァルトの顔に狼狽した。あやうく唇がふれそうな距離だった。
ボッとリーゼロッテの顔が赤くなり、なぜか組んだ手のひらからポンと力が飛び出した。
びっくりして両手を開いて見やるが、何も変わったところはない。意識を集中してみても、おもしろいくらい何事も起きなかった。
「無理はするな。倒れるぞ」
そう言ってジークヴァルトは、リーゼロッテの口にクッキーをひとかけら押し込んだ。
そんなふたりの様子を、ジークハルトはにこにこしながら見守っていた。あぐらをかいて宙に浮いたまま、楽しそうにゆらゆら体を揺らしている。
意味ありげなその視線に「なんだ?」とジークヴァルトが不機嫌そうに言った。
『いや、涙ぐましい努力だなと思って』
ジークハルトの小馬鹿にしたような言い方に、リーゼロッテがぐっと言葉を詰まらせた。
「では、ハルト様は、他によい手立てがあるとお思いですか?」
涙目で訴える。
『リーゼロッテはもうすぐ十五歳になるよね?』
いきなりそう問われ、リーゼロッテは戸惑い気味に頷いた。
「はい、来月には」
『十五を迎えればきっと大概のことは解決するよ。ヴァルトの力が拒絶されるのもなくなると思うし』
ジークハルトの言葉に、ジークヴァルトが怪訝そうに問うた。
「なぜそう思う?」
『だってリーゼロッテを守っているのはマルグリットの力だし』
ジークハルトは至極当たり前のことのように言った。
「マルグリット母様の? ……どういうことですか?」
『リーゼロッテとヴァルトの初顔合わせの時、ヴァルトのやらかしもあったし……。何よりマルグリットは自分の託宣の相手に苦労していたみたいだからね。十五歳になるまでは、リーゼロッテにジークヴァルトを近づけたくなかったんじゃないかなぁ』
「ヴァルト様のやらかし?」
ジークハルトの言葉にリーゼロッテはこてんと首をかしげた。
(黒いモヤのことかしら……? むしろやらかしたのは、ヴァルト様を見て泣き出したわたしの方なんじゃ……)
『あれ、リーゼロッテは覚えてないんだ? よかったね、なのかな? ね、ヴァルト』
意味ありげに笑うジークハルトに、眉間にしわを寄せてジークヴァルトは心から嫌そうな顔をした。
「それに、母様の託宣の相手って……イグナーツ父様のことですか?」
うん、そうだよ、というジークハルトの返事に、リーゼロッテは「母様が父様に苦労していた?」と再び首をかたむけた。
リーゼロッテの幼いころの記憶は朧気だったが、実の両親の仲が悪かったような気はしない。どちらかというと仲睦まじかったように思えた。ジークハルトの言うことは、全く要領を得なかった。
「どういうことだ?」
ジークヴァルトはジークハルトに向かって眉間にしわを寄せた。
『さあ? ジークフリートあたりに聞けば、教えてくれるんじゃない?』
そう言ってジークハルトは、あぐらをかいたままゆらゆらと体を揺らしている。
それ以上は教えないということか。ジークヴァルトは、いつになく饒舌な自分の守護者に苛立ちを憶えた。
託宣を終えた者たちは、次代の託宣を持つ者に一切の助言を与えない。それはディートリヒ王だけではなく、すべての託宣を受けた者たちに言えることだった。
知っているくせにはぐらかすジークハルトを、ジークヴァルトは睨みつけた。
「お前、何を企んでいる?」
自分の守護者が口をはさんでくることなど、今まで一度もなかったことだ。
『さあね』
そう言うとジークハルトは、天井高く浮き上がった。そのまま天井を抜けようとして、『そうそう、リーゼロッテ』と下に向き直った。
『鎧の大公がリーゼロッテにありがとうって言ってたよ』
そう言い残すと、天井からするりと抜けて部屋からいなくなってしまった。
(鎧の大公様が……? 異形たちを祓ったお礼かしら?)
「……それにしても、母様の力がわたくしを守っているなんて」
リーゼロッテは自分の内に母の力の片鱗を探してみるが、よくわからなかった。
「ヴァルト様はお分かりになりますか……?」
その問いにジークヴァルトは「ああ」と返した。
あの薄い膜がそうなのかもしれない。
(――守るというより、隠すという方がしっくりくるが)
なぜかジークヴァルトはそんな風に思った。
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