第1話 王妃の茶会

 そのお茶会は、王妃のために建てられた、王城の離宮の中庭で催される予定だった。


 招待されたのは、十三歳から十五歳までの貴族令嬢たち。控えの間として用意された部屋には、十数人の令嬢とその母親、おつきの侍女たちが集められていた。

 それぞれに豪奢ごうしゃなソファとテーブル、触れるのも恐れ多い高級な茶器に、手の込んだ芸術的な菓子がサーブされている。


 中には侍女を数人連れている令嬢もいて、王城の女官や警護の騎士なども合わせると、控えの間にはかなりの人数がいた。しかし、圧迫感を感じることはなく、部屋はゆったりと過ごせる程度の広さがあった。立派な調度品といい、この控えの間で茶会を開いてもおかしくないほどである。


 ここブラオエルシュタインでは、貴族の令息・令嬢たちは、一般的に十五歳で社交界デビューを果たす。十三歳くらいから身内のパーティーなどに出席する者もいるが、本格的なデビューは、年に一度王城で開催される大規模な夜会でおこなわれていた。


 今日、王妃に招待されたのは、デビュー前の令嬢のみ。そんな年端もいかない令嬢たちが、いきなり王妃のお茶会に招待されるのは、近年では異例のことであった。


 王妃のお茶会と称したこの会は、その実、王位継承者である王太子殿下のお見合いパーティーである――

 そんな囁きが控えの間に流れ、招待された各家が適度な距離をとつりつつも、それとなく探りながら、お互いを牽制し合っていた。


(お義父様とうさまたちは、このことをご存知だったのかしら……?)


 部屋中で、ひそひそと繰り広げられる噂話を耳にすれば、社交界にうといリーゼロッテにも、自分に招待状が届いた理由が理解できた。


「お嬢様、お加減はいかがですか?」


 物思いにふけっていると、お茶会に同行した侍女のエラが、いつも以上に青白い顔の主人を、心配そうにのぞき込こんでいた。


「大丈夫よ、エラ」


 座っている椅子の背後に控えるエラを振り返り、安心させるようにリーゼロッテはそっと微笑んだ。その姿は何とも儚げである。


 ゆるくウェーブのかかった艶やかな蜂蜜色の金髪に、エメラルドを思わせるような緑色の瞳。伏せられたまつげは長く、その頬に濃い影をおとしている。すべらかな肌は白磁のように白く、血の通わない人形のようにも見えた。


 パステルグリーンのシンプルだが可愛らしいドレスは、華奢きゃしゃなリーゼロッテをさらに可憐にみせている。アクセサリーは、首に下げた一粒の青銅色のネックレスだけだったが、ごてごてと飾り立てるよりも、リーゼロッテの美しい肌をいっそうひき立たせていた。


 リーゼロッテは領地の館から、ほとんど外に出たことがなかった。直射日光に当たることもない不健康な生活だが、自分の体質を思うとそれもまた受け入れざるを得ない。


 リーゼロッテは伯爵家の令嬢として、このお茶会の招待を受けた。義母親ははおやのクリスタは、足に怪我を負っていたため、同行したのは侍女のエラだけだ。社交界デビュー前の令嬢を、母親のつき添いもなしに王妃のもとに送り出すのは、普通ならあり得ないことである。


 しかし、リーゼロッテのたっての願いで、クリスタにはこのお茶会を欠席してもらった。本当はけがを押してでも同行しようとしたのだが。


 このお茶会においてリーゼロッテの最大のミッションは、致命的な粗相そそうをしないこと。

 この一択である。

 つまずいて転ぶなり、お茶をこぼすなり、何かしらのことはやらかすだろう。なぜなら、それはリーゼロッテだから。


 リーゼロッテが生まれてこの方、大小差はあれ、粗相をしなかった日があったであろうか。何もないところで転ぶのは日常茶飯事、食事中に皿をひっくり返したり、屋敷の調度品を破壊したりなど、トラブルは枚挙にいとまがない。


 情けないことだが、自分のドジさ加減は、リーゼロッテ自身が一番よくわかっていた。母親がついていようがいまいが、粗相は避けられないのだ。それはもう宿命のように。


 だとするならば、ダーミッシュ家の家名を汚すような、大それた失敗だけは避けなければならない。自分より上位の令嬢を巻き込んで、キズのひとつでもつけようものなら、とんでもないことになりかねない。


 母親がそばについている状況では、伯爵夫人の恥になり、ひいてはダーミッシュ伯爵の立場が悪くなる。そんなことを気にするような両親ではなかったが、リーゼロッテひとりの参加ならば、デビュー前の子供のやらかすこととして、それほど大ごとにはならないと踏んだのだ。


 自分自身は笑いの種にされるだろうが、このお茶会と社交界デビューさえ乗り切れば、もうおおやけの場に出なくてもよくなるだろう。


 なにせ、リーゼロッテには王命によって決められた婚約者がいた。王命は、貴族にとって絶対である。そもそも、王子のお見合いパーティーに呼ばれたこと自体が謎である。

 不安だが、ここまできたらやりきるしかない。


(まあ、何かやらかして、王子殿下の目にとまったりすれば、それこそラノベ的な展開だけれど)


 そんなことを思っていると、庭園に続くテラスの扉が開かれ、令嬢たちを中庭へと促す声が聞こえてきた。気の早い令嬢と母親たちは、我先に王妃の庭園へと向かっていく。


 リーゼロッテはみじろぎもせず、椅子に浅く腰かけたまま、そんな令嬢たちを見送っていた。とうとう最後の令嬢となったリーゼロッテは、ゆっくりとした動作で立ち上がった。

 もったいぶっているのではない。転ばないように、最大の注意を払った結果、おのずとそうなるのだ。


(慎重に、慎重に……)


 見る人が見ればイラつくような緩慢な足取りで、リーゼロッテは一歩また一歩と、庭園の入口へと歩を進めた。


 控えの間の中をゆっくりと進むリーゼロッテを、他家の侍女のひとりが目で追っていた。そして、小さく悲鳴を上げる。それに気づかないふりをして、リーゼロッテはゆっくりとその侍女の横を通り過ぎた。


 なぜか、リーゼロッテは他人から、主に使用人であるが、このような反応をされることが時折あった。


「もしや、あれが……悪魔の令嬢……?」

 ぶるぶると震えながら、他家の侍女が真っ青な顔でつぶやいた。


 そんなつぶやきを察知したエラが、リーゼロッテと震える侍女の間に入り込む。キッとその侍女をひと睨みすると、エラは最愛の主人であるリーゼロッテの後を追った。

 侍女たちは庭園までついていくことはできないため、エラは控えの間で待機しなくてはならない。


「リーゼロッテお嬢様」


 今にも泣き出しそうな心配顔のエラをゆっくりと振り返り、リーゼロッテはこくりとうなずいて見せた。そして、先ほどと同じ儚げな笑みを残して、ようやく庭園へと足を踏み入れる。


(まぶしいわ……)

 何年かぶりの直射日光に、リーゼロッテは宝石のような緑の瞳をそっと細めた。



 王妃の庭園は、薔薇を中心に色鮮やかな花々が咲き誇る、それは美しい庭だった。


(これを見られただけで、ここに来たかいがあったわ)

 頬にあたる風が心地よい。風を直に感じるのも、久しぶりのことであった。


 庭園の奥にはパラソルのついた白い円卓がいくつか並べられていて、その先をみやると、令嬢たちが列を作って、ひとりひとり順番に王妃に挨拶をしているところが目に入った。

 そこを目指して庭園を進む。それにしても広い庭だ。


 通り過ぎざま、脇に飾られていた水瓶を持った女性のオブジェが、何の前触れもなくゴトンと倒れた。リーゼロッテが進むに合わせて、その先の小鹿のオブジェの足がぽきりと折れ、同じようにゴトンと倒れた。


 ゴトン、ガタン、バキンッ……

 進むにつれて両脇で何がしかが壊れたり傾いたりしている。リーゼロッテは、音のする方から顔をそむけた。


(見たら負けだわ)


 最後にパリンと何かが割れる音がしたが、リーゼロッテは、あれはわたしのせいじゃないと自分に言い聞かせて、何食わぬ顔で通りすぎていった。


 あわてた衛兵が駆けよってくる。何ごとかと問われたので、「大きな猫があちらに走っていきました」とごまかすと、衛兵はあっさりと納得してくれた。言ってみるものである。


 途中、何度かつまずきそうになったが、そのたびに足を止め、すり足でゆっくり進み、なんとか事なきを得た。ドレスのすそが長いせいで、その珍妙な足さばきは、誰の目にも止まることはなかった。


 この歩き方は、幼少期に教わったマナー教師の夫人の指導の賜物である。厳しい人だったが、おかげでリーゼロッテが転ぶ回数は大幅に減ったのだ。


(ありがとう、ロッテンマイヤーさん)


 夫人の名前が長ったらしくて覚えきれなかったリーゼロッテは、心の中で夫人をそんな名前で呼んでいた。ひっつめ髪に丸眼鏡の夫人はかなりの美人であったが、雰囲気がまんまアルプスの某少女の友人令嬢の教育係そのものだった。げに恐ろしい人だったが、今では感謝するばかりだ。


 リーゼロッテはようやく、令嬢の最後尾につく。先に着いた令嬢とその母親の王妃様への熱烈なアピールが続いているため、ゆっくり歩いてきたリーゼロッテでも余裕で並ぶことができた。


 挨拶し終わった令嬢は、その母親と共に円卓の席へといざなわれていたが、ひとりあたりのアピールタイムが長く、並んでからしばらくたっても、リーゼロッテの順番はまだまだ来そうにない。


(こんなことなら、焦らなくてもよかったかも)

 ふう、とまわりに気づかれない程度にリーゼロッテはため息をついた。


(ああ……からだが重くなってきたわ)


 日常でも感じる疲労感が、いつも以上に早くリーゼロッテの体をじわじわと襲ってきている。慣れない馬車での移動に加え、コルセットで締め上げた窮屈なドレスと、普段よりかかとの高い靴が、よりいっそう体力を奪う。

 自分の部屋から出ることがほとんどないリーゼロッテに、残された体力と時間はあまりなさそうだ。


 王妃様に挨拶を済ませたら、体調不良を理由に、早いところお暇することを決めていた。いざとなったら気絶でも何でもして、強制送還をねらうしかない。お茶会程度で気絶する令嬢など、未来の王たる王太子殿下にふさわしくないと、すぐに解放されることだろう。

 気絶はあくまで最終手段だが、周りを巻き込まないためにも、うまく立ち回らなくてはならない。


 子供のころからお守りにしている、初恋の人からもらった青銅色のペンダントを、知らず握りしめる。徐々に重くなっている体を奮い立たせて、リーゼロッテはぐっと背筋をのばした。


「あなた、お顔の色がよろしくないようだけれど、大丈夫かしら?」


 ふいに、リーゼロッテの前に並んでいた令嬢に声をかけられる。ふんわりとした亜麻色の髪に、ややたれ目の水色の瞳をした、可愛らしい令嬢だった。クリームイエローのドレスが彼女にとても似合っている。


 リーゼロッテより背は少し高く、彼女は出るところは出て、くびれるところはきちんとくびれていた。自分の発育不良な体に、少なからずコンプレックスを覚えていたリーゼロッテは、無意識だがちらりとその令嬢のやわらかそうな胸元に目をやってしまっていた。


「すこし、緊張してしまって……。お気遣いいただきありがとうございます」

 視線を戻し、大丈夫だと伝えるために、リーゼロッテは軽く礼を取って微笑んでみせた。


「そう? ならいいのだけれど。もしつらかったら遠慮なくおっしゃってね」

 そう言うと亜麻色の髪の令嬢は、リーゼロッテの肩にそっと手を添えた。


(あれ?)

 リーゼロッテは軽く首をかしげる。令嬢に触れられた肩が、少し軽くなった気がしたのだ。


(なんだろう、この感覚……。まるでルカに手をひかれている時のよう)


 ルカとは、リーゼロッテの四歳下の義弟おとうとである。何もないところで転ぶリーゼロッテを、屋敷の中では、いつもルカが手をひいてエスコートしてくれている。ルカがいるだけで、リーゼロッテは不思議と転ばなくなるのだ。


 令嬢の髪の色と目の色が、義弟に似ているからだろうか? 不思議な安心感が、令嬢の手から感じられた。


「ねえ、あなた……リーゼ……ダーミッシュ伯爵家のリーゼロッテ様ではない?」

 リーゼロッテの顔をまじまじと見て、令嬢が可愛らしく小首をかしげる。


「ええ、確かにわたくしは、リーゼロッテ・ダーミッシュですわ」

 ふいに聞かれて困惑しつつも、リーゼロッテは頷き答えた。


「やっぱり! リーゼ、わたくしよわたくし! アンネマリーよ!」

 急にくだけた口調になった令嬢は、水色の綺麗な瞳をうれしそうに輝かせた。


(わたしわたし詐欺?)

 脳内でつっこみつつ、リーゼロッテはその名を聞いて記憶の糸を探った。


「もしかして、クラッセン家の……アンネマリー様?」

「まあ、そんな他人行儀に! 従姉妹いとこ同士じゃない!」


 彼女は侯爵家令嬢で、国の外交を任されている父親のクラッセン侯爵と共に、隣国で暮らしていたはずである。アンネマリーの母とリーゼロッテの義母は姉妹で、小さい頃よく、アンネマリーたちがリーゼロッテの領地に遊びに来ていた。


 最後に会ったのはリーゼロッテが十歳の時だったろうか。一時帰国したクラッセン侯爵夫妻がアンネマリーと共に挨拶にやってきて、時間を忘れて二人でおしゃべりしたのを思い出した。あの時のアンネマリーは、リーゼロッテよりも背丈が小さく、体形だって同じような幼児体形だったはずだ。


(見違えるように綺麗になってて、アンネマリーだと気づかなかったわ)


 目の前にいるアンネマリーの曲線のある女性らしい肢体を見やり、リーゼロッテはこの世の不公平さにやるせなさを感じた。


「トビアス伯父様も、ジルケ伯母様も、国にお戻りになられたの?」

 気を取り直して、リーゼロッテはアンネマリーに話しかけた。


「お父様はまだあちらにいらっしゃるけれど、お母様とわたくしは社交界デビューにそなえて、先に国にもどってきたのよ。このお茶会にはわたくしだけで来たのだけれど」


 健康そうな顔をほころばせて、アンネマリーはリーゼロッテの手を両手で握りしめた。


「リーゼロッテこそ、クリスタ叔母様は一緒ではないの?」

「あいにく義母は、出席していないの」

「そう、それは残念だわ。ぜひまたお会いしてお話がしたいわ」


 アンネマリーは、子供のころの面影を残したほがらかな笑顔を見せた。アンネマリーの屈託のない笑顔が大好きだったことを、リーゼロッテは思い出していた。


 小さい頃のことは記憶があいまいだが、アンネマリーは屋敷から出られないリーゼロッテの、唯一の友達と呼べる存在であった。アンネマリーたちが隣国へ旅立つときは、ひどく落ち込んで家族を心配させたように思う。


「あら、もう順番だわ。あとでまたゆっくり話しましょう」


 小声でそう言ってアンネマリーは、優雅な足取りで王妃の元へ向かっていった。そつなく、しかも今までの令嬢に比べて最短で挨拶を終えたアンネマリーは、さっさと円卓に移動していった。


 その背を見送った後、リーゼロッテは覚悟を決めて王妃の前に足をすすめた。

(どうか、おかしなフラグが立ちませんように……!)


 リーゼロッテは腰を折ってスカートを軽くつまみあげ、王妃に最大の礼を取る。


「ダーミッシュ伯爵が長女、リーゼロッテ・メア・ダーミッシュにございます。本日はこのような素晴らしいお茶会にご招待いただきまして、まことにありがたく存じます」


 高貴なお方の前では目を伏せ、王妃の許しがもらえるまで顔を上げることはできない。王妃がはっと息を吸い込んだ後、奇妙な沈黙が訪れる。


(何……? もう、何かしでかしてしまったのかしら)

 先ほどよりも重く感じる体を気力で支えながら、リーゼロッテは背中にいやな汗を感じていた。


「顔をお上げなさい」


 しばらくして王妃に言われ、リーゼロッテは静かに顔を上げた。王妃の顔をまじまじと見ることは不敬に当たるので、視線は斜め下を向いたままである。しかし、ちらりと見えた王妃の表情は、何か珍獣を見るかのようなぶしつけなものであった。


「なぜ、託宣の令嬢がここにいるの? しかもメアと言えば、フーゲンベルクの……」


 王妃の斜め後ろに控えていた女官に、王妃様はひそひそと話しかけた。フーゲンベルクはリーゼロッテの婚約者の家名だ。


 扇で口元をおおっていたので、はっきりとは聞き取れなかったが、フーゲンベルクの名が出たということは、リーゼロッテには婚約者がいることを、王妃様にわかっていただけたのだろう。リーゼロッテはそう思ったのだが。


 しばらくじっとリーゼロッテを見つめて考え込んでいた王妃だったが、「そう……そうね、そういうこともあるわよね」と、ひとりで納得したようにそうつぶやくと、今度は満面の笑みで、リーゼロッテに声をかけた。


「今日はぞんぶんに楽しんでいってちょうだい。すぐに愚息がやってくるから、そちらも、どうかよろしくね?」


 いくつになっても美しいと評判の王妃は、にやり、という表現がいちばんぴったりくるような、そんな笑みを口元に浮かべた。



「ずいぶんと長く、王妃様にお声をかけていただいていたわね?」

 慎重な足取りで円卓に移動したリーゼロッテは、アンネマリーにそう話しかけられた。


「ええ、まあ。恐れ多いことですわ」


 同じ円卓に座りながら、リーゼロッテは曖昧に微笑んだ。王妃に自ら、息子とよろしくやってくれと言われたなどと、話せるはずもない。

 もとより、リーゼロッテは王子の婚活などに興味はないのだ。幸いなことに、アンネマリーもそれ以上のことはつっこんで聞いてこなかった。


「わたくし、本当は今日、親戚の赤ちゃんの泉浸式せんしんしきに同席する予定だったのよ」


 アンネマリーは残念そうに言った。

 泉浸式とは、生まれたばかりの赤ん坊に、国の守護神たる青龍の祝福を授ける儀式である。ブラオエルシュタインでは、貴族の子供は生まれてすぐに、この儀式を受けることが義務づけられていた。


「赤ちゃんに会えるのを楽しみにしていたのに……。でも今日ここに来たからリーゼに会えたのですものね」


 アンネマリーはこのお茶会が急だったことに不満を抱いているようだった。リーゼロッテも同感ではあったが、大きな声で王妃に対して不平を言うものではない。リーゼロッテは曖昧な笑顔を返しておいた。


「でも、さすが王妃様主催のお茶会ね。お茶もお菓子も、何かもが一級品だわ」

 アンネマリーはつぶやくように、手にした高級なティーカップをまじまじと見つめた。


「これでコルセットがなかったら、好きなだけおいしいお菓子を楽しめるのに」


 大仰にため息をついたアンネマリーと目が合って、思わずふふっと素で笑ってしまった。

(いけない、今のは淑女の笑い方じゃなかったわ)


 居住まいをただし、庭園をあらためて見まわしてみる。他の令嬢たちはそわそわした様子で、王子殿下の登場を今か今かと待っていた。


 王子が現れるであろう建物の方に熱視線をむけている令嬢たちをよそに、いちばん遠い端の円卓に座ったアンネマリーは、我関せずおしゃべりに熱が入る。


「そんなに王太子妃になりたいのかしら。……わたくしは絶対にごめんだわ」

 王城の一角で、不敬にあたる発言をアンネマリーは吐き捨てるように言った。


「ねえ、王子殿下のお噂をリーゼは知っている? なんでも殿下は大の女嫌いで、近づく令嬢たちをそれは冷たくあしらっているそうよ」


 控えの間で侍女たちの噂話を耳にしたが、こういったことは話半分に聞くものである。リーゼロッテは、「まあ」とだけ言って、自分の言及はあえてさけた。


「それどころか、王子殿下に大怪我を負わされたご令嬢もいたらしいわ。本来なら責任をとって妃に迎え入れなきゃならないところなのに、完全無視よ、無視」


 まるで見知った出来事のように、アンネマリーは憤慨している。


「結局そのご令嬢は、ふたまわりも年の離れた方の後妻に入ったらしいわ」


 リーゼロッテはやはり、「まあ」とだけ口にする。その適当な返しに気を悪くすることもなく、アンネマリーは小声で話を続けた。


「殿下は、実は、男色家だってお噂もあるわ。王太子殿下付きの騎士が、常におそばに張りついて、殿下を狙う令嬢たちから、身を挺して殿下をお守りしているのよ」


(黒王子の次はBLですか……)

 適当に相槌をうちつつ、そんなことよりのどが渇いたなと、リーゼロッテは全く関係のないことを思っていた。


 今日は北国の春先にしては少し暑いくらいの陽気になりそうだ。正午に近づき、陽が高くなるにつれて、じんわりと気温が上がってきていた。


 しかし、自分がカップを持つ → 紅茶をこぼす → もしくはカップが割れる → もしくはその両方がおきる → 誰かが確実に怪我をする → ダーミッシュの家名に傷が付く……というような想像したくもない未来が予想できてしまうため、のどが渇いてもお腹がすいても、絶対に何も手をつけてはならない。それこそクッキーひとつであったとしても。


 クッキーひとつで何が起きるのだと言われるかもしれない。確実に、お皿の一枚くらいは割れるだろう。

 なぜだ。

 それは、リーゼロッテが聞きたいくらいである。


(とにかく油断大敵、君子危うきに近寄らず、ね。今の今まで、何事もなく、もないかもしれないけど、無事に過ぎているのが本当に奇跡なのだから……)


 とりあえず、先ほど倒れていった庭のオブジェのことは、きれいさっぱり忘れることにした。あれは猫のせいなのだ。


 改めて気を引き締めつつ、王妃様にはご挨拶したし、王子が来る前にお暇してしまおうか。そんなことを考える。しかし、王妃に王子が来ると念を押されてしまった手前、それもはばかられた。


「王太子殿下付きの護衛騎士と言えば、最近、公爵位をお継ぎになった、ジークヴァルト・フーゲンベルク様ですわよね」


 ふいに、別の令嬢の声が割り込んだ。同じ円卓の少し離れたところで、ひとり静かに座っていた令嬢が、こちらに微笑みかけている。ブルネットの髪に榛色はしばみいろの瞳をした、おとなしそうなご令嬢である。


 ジークヴァルトの名に、リーゼロッテの体が一瞬こわばる。それに気づかず、ブルネットの令嬢は話を続けた。


「お話し中、割り込んでごめんなさいね。わたくし、ヤスミン・キュプカーと申します。王太子妃の地位にご興味がないお仲間とお見受けして、思わずお声をかけてしまったの」


 ヤスミンと名乗った令嬢は、リーゼロッテの隣の椅子に座りなおした。


「キュプカー様と言えば、侯爵家でいらっしゃいましたわよね。わたくしはアンネマリー。父はクラッセン侯爵ですわ。こちらはリーゼロッテ様。ダーミッシュ伯爵のご長女よ」

「まあ、あなたがダーミッシュ伯の! お会いできて光栄ですわ」


 ヘーゼルの瞳をキラリと光らせて、おとなしそうな見た目にそぐわない素早い動作で、ヤスミンはリーゼロッテの手を取った。


「わたくしこそ、ヤスミン様とお知り合いになれて、とても光栄ですわ」

 心の動揺をおさえつつ、リーゼロッテはその口元にやわらかな微笑みをのせた。


「まあぁ、なんて愛らしい! さすがは『深窓の妖精姫』と名高いご令嬢ですわ。ダーミッシュ伯爵様がお隠しになられるのもうなずけます」


(妖精姫? 何なんですか、その恥ずかしい呼び名は!?)

 リーゼロッテはその厨二病的珍妙なあだ名に、「まあ、そのような」と返すのが精いっぱいであった。そんなとき、令嬢たちから悲鳴のようなざわめきがおこった。


「王子殿下がいらっしゃったわ」


 座っていた一同が立ち上がる。リーゼロッテも、それにならって椅子を倒さないように慎重に立ち上がり、礼を取る姿勢を保った。


「みな、顔をお上げなさい」


 王妃の言葉に、令嬢とその母親たちが一斉に顔を上げた。

 王妃の横には、プラチナブロンドのすらりとした、まさに理想の王子様を体現したような、見目麗しい青年が立っていた。アメジストのような紫色の瞳が、ときおり太陽光に反射してきらきらと光る。ほう、とどこからともなくため息が漏れ、令嬢たちの熱い視線が、王太子殿下に注がれまくっている。


「申し訳ないのだけれど、わたくしはこれから公務があって、最後までみなをもてなすことができないのよ。そのかわり、息子を呼びましたの」


(いやいや、そっちが本当の目的でしょ)


 急な招待だった上に主催者が早急に退場するなど、どう見てもこのお茶会は、王子と令嬢たちを引きあわせるために計画的に開かれたとしか思えない。

 獲物を狙う猛獣のように、令嬢とその母親たちの目がらんらんと光っていて、なんだか怖すぎる。リーゼロッテは、絶対に王子には近づくまいと、改めて心に誓った。


「ハインリヒ、みなを丁重にもてなすのですよ」

 王子に向かってそう言うと、自分主催のお茶会であるのにかかわらず、王妃はあっさりと去っていった。


(あとは若い人たちで、ってやつですか)

 リーゼロッテはますます重くなってきた体に焦りを感じつつ、そんな突っ込みをひとりいれてみる。


(王妃様も退場されたし、ここは一刻もはやくおいとましましょう)


 そう思う間もなく、リーゼロッテはくらりと眩暈めまいを覚えた。体がなまりのように重い。足を一歩踏み出すのも、重労働に感じる。


(まずいな……ホントに気絶しそう。いつもより、重くなるのが早すぎるわ……)


『令嬢たるもの常に平常心を保たねばなりません。心の奥底でどう思っているのであれ、口元には涼しい笑みを浮かべなさい』

 教育係だったロッテンマイヤーさんの言葉がリーゼロッテの脳裏にこだまする。


(やれるだけ、やってみなきゃ。ダーミッシュ家への恩を、あだで返すわけにはいかないもの……!)

 惜しみなく愛情を注いでくれる家族を思って、リーゼロッテは気力を振り絞り両足に力を入れた。


「まあ、見て」


 アンネマリーの視線の先には、高い壇上にしつらえられた豪華な椅子に、深く腰かけながら優雅に足を組んでいる王子殿下がいた。不機嫌そうにひじ掛けに頬杖をついて、冷ややかな視線を令嬢たちに向けている。


 令嬢たちは我先に近づいて、何とか王子に話しかけようとしていた。しかし、王子は手の届かない壇上で座っているうえに、その周りを近衛の騎士が固めていて、令嬢たちが近づくのを阻んでいる。熱狂的なファンを抑える、ライブ会場のガードマンのようであった。


「本当に毛嫌いされているようね」

 令嬢たちをさげすむように眺めている王子に、さらにさげすむような視線をアンネマリーは送っていた。


「眼福だわ」

 そのすぐ横では、祈るようなポーズでヤスミンが榛色の瞳をキラキラと輝かせている。


「王子殿下のうしろにいらっしゃる騎士様が、きっとジークヴァルト様ね」


 ぎくりとしてリーゼロッテは思わずその方向に目をやってしまう。

 光り輝くような髪色のハインリヒ王子殿下の斜め後ろに、黒衣をまとった黒髪の護衛騎士がひとり立っていた。時折、ハインリヒ王子がその騎士に、何かをささやいている。


「金髪の不機嫌王子に、そばに仕える黒髪の騎士。王子の甘いため息。黒衣の騎士様は無表情、完・全・装・備! その鋭利な瞳の奥に秘めた熱い物は何……? 禁断! これぞ禁断の愛ですわぁ」


 ヤスミンはいったいどんな妄想を膨らませているのやら。内緒話をしているような王子と騎士の近い距離に、うっとりとしたため息をついた。


 あー、尊いってやつですかー、と普段のリーゼロッテならばそれくらいの脳内突っ込みを入れていたかもしれない。しかし、実際はそれどころではなかった。


 黒衣の騎士の正体は、ジークヴァルト・フーゲンベルク。ヤスミンの言うように、王子付きの護衛騎士であり、ニ年前にフーゲンベルク家を継いだ若き公爵でもある。

 そして、彼こそが、リーゼロッテの決められた婚約者であった。


(こんなところで会うなんて……)


 実際に彼に会うのは、今日でニ度目である。一度目は十年以上前のこと。リーゼロッテがいくつの時だったろうか。

 顔はもう憶えていない。というより、リーゼロッテは彼の顔を見たことがない。いや、正確に言うと、初めて会った時に、彼の顔を見ることができなかったのだ。


 そして今も、リーゼロッテは彼の、ジークヴァルトの顔を窺い知ることはできなかった。なぜなら、あの日と同じように、ジークヴァルトの顔から胸にかけて、が覆っているのだ。


 婚約者だと紹介され対面したあの時も、ジークヴァルトは、真っ黒いそれをその身に纏わせていた。あまりの怖さに、小さかったリーゼロッテは、泣き出してしまったほどだ。


 そして、今日、彼から感じる禍々しいまでの黒霧に、記憶の中のあの日以上の恐怖を感じた。リーゼロッテから血の気がすうっと失われていく。


(にげなくちゃ。みつかって、けされてしまうまえに)


 理由の分からない恐怖にさいなまれて、リーゼロッテは知らず一歩、後退った。


 ふいにハインリヒ王子の視線が、リーゼロッテたちのいる方に向いた。王子は少し戸惑うような表情をみせ、先ほどよりも真剣なまなざしで、斜め後ろに立っているジークヴァルトに何事か話しかけた。

 遠すぎて会話などは聞こえないが、王子がこちらの方向を指さしている。ジークヴァルトが王子の指さす方を見やると、彼は驚いたように息をのんだ。


「あら、王子殿下が騎士様に何かご命令をお出しになったのかしら」

 ヤスミンが緊張感のない声でつぶやいた。


「リーゼ……? あなた、どうしたの!?」


 今にも倒れそうなリーゼロッテに気がついたアンネマリーが、慌ててその体を支える。リーゼロッテは真っ青な顔で、小さな唇を震わせていた。


「いや、こないで」

 どこか焦点のあわない目をして、譫言うわごとのようにつぶやいた。


「リーゼ?」


 弱々しく頭をふっているリーゼロッテの様子を見て、アンネマリーはただ事ではないと感じた。

 その時、令嬢たちから歓喜交じりのざわめきが上がった。

 アンネマリーがそちらの方向を見やると、白い手袋をはめた手を行って来いとばかりにひらひらさせている王子と、それにはじかれたように壇上を降りて、大股でこちらへ向かってくるジークヴァルトが目に入った。


 ジークヴァルトの勢いに押されて、令嬢たちがひとりまたひとりと道を開いていく。ためらうことなくまっすぐ向かってくるジークヴァルトに、それ以外の人間は誰一人として動くことができないでいた。

 ひゅっとリーゼロッテが息をのむ音を聞いて、アンネマリーは彼女が何を恐れているのかをはじめて悟った。


 リーゼロッテは動けなかった。

 ヘビに睨まれたカエルもきっとこんな気分なのだろうか。黒い霧をまとい、猛然とした勢いでこちらに向かってくるジークヴァルトに為すすべもなく、どこか他人事のようにリーゼロッテはそんなことを思った。


(ああ、おとうさま。おかあさま。かわいいルカ。そしてエラ。おやしきのみんなも、ほんとうに、いままでたくさんありがとう)


 暗黒のモヤに包まれたジークヴァルトが目の前まで迫ったとき、リーゼロッテは覚悟を決めてぎゅっと目をつぶった。

 彼の手がリーゼロッテの二の腕を乱暴につかんだその瞬間、リーゼロッテの中で何か大きな塊が、バチンとはじけ飛んだ。


「お前が、なぜ、ここにいる!?」


 リーゼロッテの腕をつかみながら黒髪の騎士は、低い声で問う。なぜ、と言われても王妃に招待されたからなのだが。


 ぽかんと口を開けたまま、リーゼロッテはジークヴァルトの顔を見上げていた。


 リーゼロッテは、さっきまであれほど感じていた、おぞましいほどの恐怖をきれいさっぱりなくしていた。青の瞳に射抜かれて、その代わり、胸の真ん中あたりがじわりと熱くなる。

 いつの間にか、ジークヴァルトを覆っていた黒いモヤは霧散していた。その無表情の整った顔がリーゼロッテの緑の瞳に、はっきりと映った。


 ジークヴァルトと見つめ合ったまま、動けないでいたリーゼロッテは、吸い込まれそうな、その深く青い瞳が、この世のものとは思えないほど、美しく、綺麗だと、ただただ、そう思った。

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