第9話 殿下の寵愛

 その日、午後の予定がすべてなくなった。

 また例のごとく義母上ははうえのきまぐれだ。たまにはゆっくりしろとの気遣いかもしれないが……。

 そう思ったハインリヒ王子は、護衛のカイを連れて、自身の執務室へと向かった。

 執務室の椅子に座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。気が緩んだのか、ここから動きたくない気分に駆られる。


 すると、隣の応接室から、悲鳴のような声が聞こえた。あの気の毒な令嬢を思い出し、ハインリヒは重い腰を上げた。あれから一週間は経つ。ジークヴァルトからは、特別報告は上がっていなかった。

「邪魔するなんてヤボですよ?」

 カイがおもしろそうに言ったが、自分もついてくる気満々の様子だ。

「邪魔ではない、経過の確認だ。だったらお前はついてくるな」

「ええー、のけ者にしないでくださいよー。あんなにおもしろいジークヴァルト様、めったに見られないんですからー」

 その意見には同感だったので、ハインリヒは、好きにしろ、とだけ言って応接室に向かった。


 応接室に入ると、小さくて害のなさそうな小鬼に、手をかざして目を閉じているリーゼロッテがいた。眉間にしわを寄せ、何事かつぶやいている。

(祓いたまえ清めたまえ、なむあみだぶつのなんみょうほうれんげきょーのきゅうきゅうにょりつりょー!)

 ぱっと目を開けると、リーゼロッテはまた小さく悲鳴を上げた。

「消えないっ」

 その後ろでジークヴァルトが、無表情のまま腕を組んでそんなリーゼロッテを眺めている。


「何をやってるの?」

「王子殿下! 気づかずに申し訳ございません」

 ハインリヒが声をかけると、リーゼロッテが驚いたようにあわてて礼を取った。

「ここではそういうのはいいから」

 彼女の反応の方が世間的には正しいのだろうが、ここにいる無礼な面々の前ではもはやそんなことはどうでもよくなる。ですが、と言いつのるリーゼロッテに、ハインリヒは気にしないよう言い含めた。

「いいよ。このふたりを見習えとは言わないけど、この部屋では不敬とかそういうのは問わないよ」

 肩をすくめて見せて、普段から一番不敬を働いているジークヴァルトに向き直った。


「で、これは何の特訓?」

「異形の浄化だそうだ。どうしてもやるときかなくてな。無駄だと言ったが」

「やってみなければ分からないこともございます!」

「で、やってみて、できなかったんだねー」

 カイの言葉に、ぐっと言葉をつまらせたリーゼロッテが涙目になる。

「……リーゼロッテ嬢ってなんだかすごくいじめたくなるよね」

「カイ様……ジークハルト様と同じようなことをおっしゃらないでくださいませ……」


 ジークヴァルトの守護者たるジークハルトに初めて会った日に、『君って好かれた男の子にいじめられるタイプだね』と笑顔で言われたのだ。それはもうにっこりと。

 しゅんとしたリーゼロッテの言葉に、今度はカイが目を見張った。

「え? ジークハルト様? ……って、もしかしてジークヴァルト様の守護者のこと?」

「はい、今もそこにいらっしゃいますでしょう?」

 きょとんとして、リーゼロッテが答える。リーゼロッテの目の前には、ジークハルトがあぐらをかいたまま上下逆様になって宙に浮いていた。あれから数日、そこら辺でふよふよ浮きまくっている守護者に、すっかり慣れたリーゼロッテだ。


「頭に血が上りませんか? ジークハルト様」

 リーゼロッテは宙に浮くジークハルトを見上げながら声をかけた。

「…………………………まあ! そうなのですね」

 ジークハルトは祖先と言うだけあってジークヴァルトにそっくりだったが、観劇に出てくるような王子様のような出で立ちをしている上、よく見ると髪形もジークヴァルトとは違っていた。

 ジークヴァルトはいつも整髪料か何かで髪を後ろになでつけているが、ジークハルトはさらりとした黒髪を自然のままにしている。同じ顔だが前髪があるだけで、ジークハルトの方が少し幼い印象だ。


 そして何よりジークハルトは、透けて見える上に常に空中で浮いている。どこぞの電撃鬼娘のようなあぐらのポーズが、ジークハルトの基本スタイルだった。

 リーゼロッテは始めこそ戸惑いを感じたが、慣れれば二人を見間違うこともない。人好きのする笑顔を浮かべるジークハルトと、無表情が標準装備のジークヴァルトを、なぜ見間違えたのか、今思うとリーゼロッテは不思議でならないくらいだ。


 しかし、カイの目にもハインリヒの目にも、ジークヴァルトの守護者の姿が映ることはなかった。どうがんばってもリーゼロッテが宙を見つめ、独り言を言っているようにしか見えない。

「リーゼロッテ嬢って、すごいんだかすごくないんだか、よくわかんないね」

 あきれたようにカイは言った。


 守護者とは、通常、目に見えるような存在ではなかった。

 力ある者には必ず守護者がついていると言われている。しかし、どんなに能力に長けたものであっても、守護者とは自分の内にいるのをかすかに感じられる程度の存在で、その姿を他人が認めたり、ましてや会話をするなど、とうてい考えられることではなかった。

 ジークヴァルトは幼少期から自分の守護者と会話をしていたようだが、極めて異例なことであった。よほど強い守護者なのだろうとハインリヒなどは思っていた。


 ハインリヒ自身は、一度だけ自分の守護者を視たことがある。

 ――あの日視た守護者は、とても、鮮烈で、苛烈な、うつくしい女の守護者だった。


「王子殿下?」

 リーゼロッテに声をかけられて、はっと意識を戻す。

「ああ、すまない。リーゼロッテ嬢は力がないのではなく、うまく扱えないでいる状態だ。まずはその原因を探ることから始めればいい」

 リーゼロッテは、もっとジークヴァルトに対して萎縮してしまうのではないかとハインリヒは心配していた。だが、彼女はきちんと自分の意見が言えているようだ。

 ジークヴァルトに対して、こんな態度を取れる女性は、身内以外ではめずらしい。騎士団に在籍するような大の男ですら、ジークヴァルトを前にすると竦んでしまうのだから。


 そんなことを思いながら、ハインリヒは懐から懐中時計を取り出して、その蓋を開け時間を確かめた。開かれた時計の蓋の裏に、紫色の綺麗な石がはめ込まれている。

「王子殿下。そちらの石も守り石なのですか?」

 リーゼロッテの問いかけに、ハインリヒは「ああ」と言って頷いた。

「これは亡き母の形見だが……そうだね。今ではほとんどわたしの力が込められている」

「王子殿下の守り石は紫色なのですね」

 ハインリヒの守り石は、まるでアメジストのような輝きを放っていた。リーゼロッテが不思議そうに懐中時計を見つめていると、「守り石はおおむねその者の瞳の色と同じになる」とジークヴァルトが説明した。

「石には質と相性がある。誰かれなく込められるものではない」

 ジークヴァルトの言葉にリーゼロッテは、「そうなのですね」と驚いたように返した。


「セレスティーヌ様もハインリヒ様と同じ紫の瞳だったんですよね?」

 セレスティーヌとは前王妃、ハインリヒの実母のことだ。この国では、紫の瞳は王族にのみ時々現れるめずらしい色だった。カイが問うと、ハインリヒは「ああ」と頷いた。

「その守り石にはもともと王妃様の力が込められていたのですか?」

 リーゼロッテの言葉にハインリヒは懐中時計を見つめながら答えた。

「子供の時はそうだったのだろうね。わたしもよく覚えていないが」

 ハインリヒは物心つく前にセレスティーヌを亡くしている。哀しいかと問われても、母親に関しては思い出の一つもなかった。


 なんとなくしんみりした空気になっていることに気づき、ハインリヒは努めて明るい声で言った。

「何にせよ、まだ一週間だ。リーゼロッテ嬢は焦ることはない」

 あまり無理はしなくていい、とつけ加えると、ハインリヒはリーゼロッテにふわりと笑った。

「頑張らねばならないのは、むしろヴァルトの方だがな」

 ジークヴァルトには冷ややかにそう言い残すと、王子は懐中時計の蓋をぱちりと閉めて、カイを連れて応接室を去っていった。


「と、いうわけだ。いい加減、諦めてそこへ座れ」

 一人がけのソファを親指でくいとさすと、ジークヴァルトは魔王の笑みをリーゼロッテに向けた。テーブルの上で、先ほどの小さい小鬼が、不思議そうに首をかしげてそれを見守っていた。


     ◇

「ピッパ様? どちらにいらっしゃいますか?」

 庭の茂みをかきわけながら、アンネマリーは声をかけた。


 アンネマリーはお茶会があった日の夜、第三王女殿下の話し相手になるよう、王妃から命がくだったことを突然告げられた。夜が明けて、王妃の離宮の客室で身支度を整えると、早速王女殿下と引き会わされたのだが、今年十歳になるピッパはかなりおてんばな王女だった。


 幼少期から父親と共に隣国で暮らしていたアンネマリーは、ブラオエルシュタインから隣国へと嫁いだ第ニ王女であるテレーズと懇意にしていた。隣国の言葉をそれなりに話すことができたアンネマリーは、まだ、言葉がうまく話せないテレーズ王女のために、王女が嫁いで約ニ年の間、いろいろと尽力してきた。国に帰るときは、後ろ髪を引かれる思いで帰国したのだ。


 そのためピッパは、姉姫であるテレーズの様子をあれこれ聞いてきた。異国の話も毎日のようにせがんでくるので、王女殿下にどこまで異国の話をしていいものか、アンネマリーは苦慮していた。

 ブラオエルシュタインは、封建的で閉ざされた国だ。あまり他国の文化や情報を入れるのは、良しとされない風潮だった。


 そんなピッパ王女を、アンネマリーが探しているのには理由があった。

 ディートリヒ王に似て、綺麗な赤毛に金色の瞳をした愛らしい姫は、その日、刺繍の時間に飽きたのか、部屋を抜け出してしまったのだ。そばにはたくさんの侍女や女官がいたが、その包囲網をかいくぐってこつぜんと姿を消してしまった。

 割とよくあることらしく、またかとばかりに捜索は淡々と進められていた。アンネマリーは来たばかりでお客様状態だったが、よくわからぬまま、王女殿下の捜索へと駆り出されていた。


 王城の内部に詳しくないアンネマリーは、なんとなく自分が子供の頃だったら隠れそうな場所を探してまわっていたのだが、思ったより奥の方まで入り込んでしまったことに気がついた。庭の茂みから出て、先に見えた小道に行先を変える。

(どうしよう……やみくもに歩いたから、どちらから来たのか分からなくなってしまったわ……)

 まわりを見渡すも、人影は見えない。衛兵の一人でも立っていそうだが、人っ子ひとり見当たらなかった。すると、奥の方から、がさがさと葉が揺れる音がした。


「ピッパ様……?」

 驚かせないようにそうっと近づくと、なんだか楽しそうな笑い声が聞こえてきた。しかし、それは少女のそれではなく、青年の、透き通った耳に心地いい笑い声だった。

「はは、殿下、くすぐったいぞ。ほら、顔をなめるのはやめろ」

 何やら不穏な台詞が聞こえてくる。

「ば、やめろってば。ようし、そんなやつは、こうしてやる」

 楽しそうなことこの上ない、それはそれは上機嫌な声だった。アンネマリーはいけないと思いつつも、音をたてないように近づき、茂みの陰からそうっと覗き見た。

「!?」


 そこには、狸のように大きな猫を膝に乗せ、満面の笑みで猫と戯れている、ハインリヒその人がいた。

「王子殿下……?」

 あぐらをかいたハインリヒの膝の上で、長毛の猫がだらしなくおなかを上に向けて寝そべっている。顔を上げた毛まみれのハインリヒが、笑顔のまま固まった。

 ぶな~と、およそ猫らしくない鳴き声が聞こえるまで、ふたりは長いこと、無言で見つめ合っていた。


 王子を見下ろしていることに気づいたアンネマリーは、我に返り、あわてて膝をついて頭を垂れた。

「申し訳ございません! ピッパ様をお探しておりましたところ路に迷ってしまって」

 言い訳にしかならないが、アンネマリーは必死に訴えた。いくら嫌っていても、一国の王子を目の前にして、不敬を働くわけにはいかなかった。

「ああ……あの子はまた抜け出したんだね……仕方のない子だ」

 やわらかい声が落ちる。

「いいよ。顔を上げて」

 自分に向けられたその声は思いのほかやさしく、自分の思っていた王子とは違ったことに、アンネマリーは驚きを隠せなかった。リーゼロッテが、王子殿下はよく笑う方だったと言っていたのを思い出す。


「君は確か、クラッセン侯爵令嬢だったね。義母上が無理を言ったようだ。すまない」

 ハインリヒは、彼女が茶会で自分に興味なさげにしていた令嬢の一人であることに気づいた。

 リーゼロッテを心配して王城にひとり残ったことも、王妃に妹姫の話し相手を命ぜられたことも、カイから報告を受けている。彼女なら、むげに追い払うようなことをしなくても大丈夫だろう。


「君はリーゼロッテ嬢の従姉いとこだそうだね。……彼女は少し難しい案件で悩んでいる。心配かもしれないが、今しばらくこちらにまかせてくれないか?」

「え? あ、はい……もちろんです」

 突然のことで、言葉がうまく出てこない。アンネマリーは、自分がハインリヒの紫の瞳をじっと見つめたままでいることにも気がつかなかった。


「あと、この姿を見たことは、秘密にしてくれると助かるのだが」

 肩をすくめておどけたようにハインリヒは言った。毛まみれで猫にデレデレしていたハインリヒに、王太子の威厳は皆無であった。

「ふ、ふふ……わかりましたわ。わたくし、何も見ていませんわ。王太子殿下が、大きな猫と楽しそうに戯れていただなんて」

 アンネマリーは、こらえきれず笑ってしまった。なんとなく、その猫に触れてみたくなる。お腹がぽよぽよしていて触ると気持ちがよさそうだ。


「あの、その猫に触れても?」

 そう言うと、王子は笑顔から一転、渋面を作った。

「いや……殿下は少し気難しいんだ。慣れていない人間が触ろうとすると、引っかかれるかもしれない」

「殿下が……引っかく……?」

 そう聞き返されて、ハインリヒはしまったというような顔をした。

「あ、いや、殿下、というのは……この猫の名だ」

「猫の名、でございますか?」

 きょとんとして、アンネマリーが首をかしげる。ハインリヒは一瞬黙って、観念したように続けた。


「ああ、子供の頃にこの猫がやってきたのだが……。いつも、周りのみなが自分のことを“殿下” “殿下”と呼ぶものだから、その、何というか、自分も誰かを“殿下”と呼んでみたかったのだ。だからこの猫の名を殿下にした」

 ちょっとやけくそのように言って、ハインリヒはそっぽを向いた。耳が赤くなっている。耐えきれなくなって、アンネマリーは庭にしゃがみこんだままお腹を抱えて笑ってしまった。

「王子殿下の殿下は、殿下以上に殿下らしいですわね」

 ふてぶてしい態度で仰向けたまま、猫の殿下は狸のような太いしっぽを、ゆらゆらと左右に揺らしている。


「殿下がいっぱいでややこしいな。ここに来た時は、わたしのことはハインリヒと。そう呼んでくれないか?」

 アメジストのような紫の瞳にまっすぐ見つめられ、アンネマリーの頬が朱に染まった。

「またここに来ることを……お許しいただけるのですか?」

 ハインリヒは、ゆっくりとうなずいた。

「ただし、約束してほしいことがニつだけある」

 殿下のお腹をなでながら、ハインリヒは一度視線を下に落とした。


「猫の殿下と、このわたしには、何があっても決して触れぬこと。……約束してくれるか?」

 真剣な目で見つめられ、アンネマリーは是の答えしか返せなくなる。

「はい。決して触れないとお約束いたします。でも……」

 今度は、アンネマリーが水色の瞳を伏せ、再びハインリヒを見つめた。

「お約束はふたつだけでよろしいのですか? あとひとつ……今日見たことを、わたくし、誰かにしゃべってしまうかもしれませんわ」


「ではこの秘密は、ふたりだけのものに」

 これも約束だ、とハインリヒが柔らかい表情で言った。

「はい、ハインリヒ様」


 どちらからともなくくすりと笑い、ふたりは猫の殿下が邪魔をするまで、しばらく見つめ合ったままでいた。

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