第5話 悪魔の令嬢

 ジークヴァルトは、目の前の光景が信じられなかった。いや、信じたくなかっただけかもしれない。

 小さな体にを山ほど背負って、そこに立っていたのは、いつか会った自身の婚約者だった。

 初めて会ったあの日も、小鬼がいくつか彼女にまとわりついていたが、父であるジークフリートが、それとなく追い払っていたのを覚えている。


 令嬢たちの間を縫って、ジークヴァルトは彼女の、リーゼロッテのもとにたどり着く。リーゼロッテの二の腕をいささか乱暴につかんだことにさえ、ジークヴァルトは気がつかなかった。

 無意識に、リーゼロッテにしがみついている異形の者を弾き飛ばすと、彼女は驚いたようにジークヴァルトの顔を見上げた。


「お前が、なぜ、ここにいる!?」

 自分でも間抜けな質問だと思ったが、それくらいしか言葉が出てこなかった。おおかた王妃の手違いで招待されたのだろう。

 いや、既婚者にも粉をかけていたくらいだ。確信犯かもしれないと、ジーグヴァルトはいまいましく思った。


 黙ったまま自分を見あげているリーゼロッテは、どこか呆けているようだった。無理もない。あれだけのものを、この細い身に背負っていたのだから。

 ジークヴァルトは、無言でリーゼロッテの膝裏をすくいあげ、軽々と抱き上げた。

 遠くから令嬢たちの歓喜の悲鳴と、すぐそばから非難じみた悲鳴があがった。当のリーゼロッテは、目は開いているが今だ放心状態で、大きな反応はない。


「リーゼロッテをどうなさるおつもりですか?」

 亜麻色の髪と水色の瞳をした令嬢が、タレ気味の目を精いっぱいつりあげて、ジークヴァルトをにらんでいた。


(ハインリヒのドストライクだな)

 たれ目の令嬢を見てそんなことを思ったなどとおくびにも出さず、「問題ない。ダーミッシュ嬢はわたしの婚約者だ」とジークヴァルトは告げると、リーゼロッテを抱えたまま、王太子のいる方向へ戻っていこうとする。


 令嬢たちがさっと道を開けるが、みな興味津々の視線を向けている。ジークヴァルトはこの状況を利用しない手はないと、内心ほくそ笑んだ。


「王太子殿下。わたしの婚約者であるダーミッシュ嬢の気分が優れないようです。退出の許可をいただきたいのですが」

 一瞬、目を見開いて、ハインリヒはゆっくりとうなずいた。

「わかった、許可する。わたしの応接室の使用を認めよう。そこで休ませてやれ」

 近くの近衛兵に医者の手配を命ずると、ハインリヒはその場を立ち上がった。


「みなの者、今日は庭で茶を楽しむには、いささか天気がよすぎるようだ。ここで茶会をお開きにすることを許してくれ」


 正午を過ぎ、だいぶ汗ばむ気温になっていた。それだけ言い残すと、ハインリヒは振り返りもしないで、来た道を足早に戻っていった。


 残されたジークヴァルトは、リーゼロッテを抱えたまま一同を振り返った。


「本日はわたしの婚約者が失礼した。少しばかり体が弱いゆえ、楽しい時間を終わらせたことを許してやってほしい」


 やけに、わたしの婚約者、という部分を強調したことに、ヤスミン以外の者は気がつかなかったのだが。

(あれは男どもへの牽制というより、女よけね?)

 ヤスミンの榛色はしばみいろの瞳がキラリと光る。もしかしたら、王子殿下と恋仲であるという噂を、払拭ふっしょくしたかったのかもしれない。


 フーゲンベルク公爵と言えばその地位のため、ハインリヒ王太子殿下に次いで、未婚の令嬢に人気が高い。怖くて近寄れない令嬢も多いが、公爵家と縁を持ちたい貴族は少なくないため、親の差し金で近づいてくる令嬢も多いときく。

 遠巻きに鑑賞する分にはジークヴァルトは見目麗しい風貌をしているので、密かにファンクラブがあるくらいだ。一部の熱狂的ファンに言わせると、あのストイックさがたまらないらしい。


(ストイックというより、腹黒ね)

 ふたりが婚約関係にあったとは知らなかったが、深窓の妖精姫はこれから大いに苦労しそうだと、同情を禁じえないヤスミンであった。


 踵を返してハインリヒの後を追おうとしたジークヴァルトを、アンネマリーが追いすがった。

「恐れながら公爵閣下、リーゼロッテはわたくしの大事な従妹にございます。どうかわたくしの同行をお許しください」


 一瞬、逡巡したあと、ジークヴァルトは「王子殿下の許可が取れ次第、控えの間に迎えをよこす」と言い残して、今度こそリーゼロッテを連れて行ってしまった。


 騒然とした雰囲気で、令嬢たちは控えの間に戻ってきた。思いのほか早く終わったお茶会に、待っていたお付きの侍女たちも慌てた様子で己の主人を迎え入れている。

 アンネマリーは、ここにいるはずの人物を探していた。


「アンネマリー様?」

 見知った声に振り向くと、そこにはやはりリーゼロッテの侍女であるエラ・エデラーが立っていた。茶色がかった赤毛に鳶色の瞳は昔のままだ。


「エラ、やっぱり同行はあなただったのね。クリスタ叔母さまはいらしてないと聞いたから」

「お久しぶりでございます。国にお戻りになられていたのですね。アンネマリー様、とてもお美しくなられて……」


 言いながら、若干目がさまよっているのは、リーゼロッテが見つからない不安からだろう。

 エラがリーゼロッテを、心から大事に思っていることは、子供心に感じていた。今もそれは変わらないのだろうと、アンネマリーはうれしくなる。


「エラ、落ち着いて聞いて? リーゼロッテは気分が悪くなって、公爵閣下が奥へお連れになったわ」

 エラの顔色がみるみる悪くなっていくのがわかる。あわててアンネマリーは言葉をつけ加えた。

「王子殿下が医師の手配を命じていたから、きっと大事はないわ。こちらに迎えが来るはずだから、エラもわたしと一緒に来てちょうだい」

 青ざめた顔でこくこくとうなずくエラは、今にも泣きだしそうだった。


 一瞬、リーゼロッテが公爵に抱き上げられたなどと言わなくてよかったと思ったが、噂話が広がるのはあっという間だ。ここでも、先ほどの出来事を、声高に話している令嬢がいる。

 アンネマリーは事の次第を、正直にエラに話すことにした。

 アンネマリーもいろいろと聞きたいことがあったが、今はリーゼロッテの無事を確かめることが先だ。ダーミッシュ一家の溺愛ぶりもきっと健在だろう。そう思うと、こんな時であったがアンネマリーは、知らず、口元を小さくほころばせた。


     ◇

 王妃の離宮を出て、迷うことなく王城内を進む。

 王太子用の執務室横の応接室にたどり着くと、ジークヴァルトは、リーゼロッテを抱き上げたまま、器用にその扉を開けた。

 一人がけのソファに、抱えていたリーゼロッテをそっと下す。ぽすん、とソファに収まったリーゼロッテだったが、まだぼんやりとしている様子だった。


 ふいに、リーゼロッテのおなかが、くぅ~きゅるると可愛らしい音をたてた。


(力を使うと確かに腹が減る)


 子供のころに覚えのある感覚に思い当たると、ジークヴァルトは、テーブルの上に置いてあった菓子の中から、クッキーを一枚、手に取った。それをいまだ放心状態のリーゼロッテの口元にもっていこうとして、ジークヴァルトはその手を一度止めた。

 ぽきりとクッキーを半分に割って小さくする。割ったクッキーをリーゼロッテの口元に差し入れると、小さな口の中にするするとクッキーが入っていった。


 しばらくもくもくと口を動かしていたリーゼロッテは、クッキーが口の中になくなったのか、動きをぴたりと止めた。再びクッキーを差し入れる。


 もくもくもくもく


 けんめいにクッキーを食むリーゼロッテを、リスか何か小動物のようだとジークヴァルトはじっとながめていた。


 リーゼロッテからの手紙には食べ物の事ばかり書いてあったので、ジークヴァルトは何となく、食べることが好きな、どちらかというと、ふくよかな令嬢になっていると勝手に想像していた自分に気づく。

 最近では、形式ばった手紙しかよこさないので、彼女も大人になったのだろうと思っていたのだが。今、目の前にいるのは、痩せっぽちの小さな令嬢だった。


 先ほど背負っていた異形の数を見ると、常に力を消費していたということか。だとしたら、さっさと浄化してしまえばいい。

 彼女なら、そのくらいの力を持っているはずだ。それなのに、なぜあんなになるまで、放置していたのだろうか?


 ジークヴァルトは自分の婚約者にまつわる噂話を、それほど気には留めていなかった。

 だが、あの『悪魔の令嬢』という不可解なふたつ名は、おそらく異形の姿が見える者が言い出したのだろう。確かに、あの姿を目撃したなら、そう呼ばれても無理からぬことであった。


(――不手際だ)

 言い訳のしようもない。


 リーゼロッテが十五歳になるまで、不測の事態以外は一切接触しないよう、ラウエンシュタイン家から条件が出されていた。だが、それでも調べようはあったはずだ。ジークヴァルトは無意識に舌打ちをした。


 皿の上のクッキーが半分ほどなくなったころ、呆けていたリーゼロッテがふいに視線を上げた。

 うすぼんやりした意識のリーゼロッテの目の前には、自分の唇にクッキーを押し付けている、無表情の黒髪の騎士がいた。青い瞳と視線が合う。


「じーくヴぁると、さま……?」

 緑の瞳を見開いて、リーゼロッテは不思議そうに、こてん、と首をかしげた。

 手に持っていたクッキーを皿に戻すと、ジークヴァルトは小さな顎を片手ですくい、リーゼロッテを上向かせた。


「それでお前は、どうしてそんなことになったのだ?」


 覆いかぶさるようにリーゼロッテを一人がけのソファに閉じ込めて、ジークヴァルトは背筋が凍りそうな魔王の笑みを、その口元に浮かべた。


「どう、して、そんなこと、に、なったの、だ……?」

 状況が把握できないリーゼロッテは、ジークヴァルトの言葉をそのままオウム返しにした。


「それに、あれはどうした? 身に着けるように言ったはずだ」

「あれ……でございますか……?」

「先日、首飾りを贈っただろう」


 そう言われて、いつか送られてきた、首飾りと耳飾りのことだと思い当たる。


「申し訳ございません……高価なものに、その、とても気後れをしてしまって……」

 理由は違ったが、気後れしたのは確かである。意識がずいぶんとはっきりしてきたリーゼロッテは、今なぜ、こんな状況になっているのか、皆目見当がつかなかった。


(ここはどこなの? どうしてジークヴァルト様が? それにお茶会はどうなったの……?)

 先ほどまで、王妃の庭園にいたはずだった。黒いモヤを纏ったジークヴァルトに腕をつかまれたところまでは覚えている。


(この方が、ジークヴァルト様……なのよね。お顔も、ジークフリート様に似ているし……)


 記憶の中のジークヴァルトは、まだ子供で、黒いモヤのかかった得体のしれないものだった。想像が膨らんで、リーゼロッテにとっては恐怖の大魔王のような存在となっていたのだが。

 今、目の前にいるジークヴァルトは、黒い笑みを浮かべているものの、整った顔の普通の青年に見えた。


「しかも、随分と懐かしいものをつけている」

 不意にジークヴァルトがリーゼロッテの胸元のペンダントを掴んで引きよせた。


「ぁふっ」


 胸元にジークヴァルトの指がわずかに触れて、リーゼロッテの口から変な声がとびだした。


 ジークヴァルトはそのままの流れで、ペンダントの石に唇を寄せていく。ペンダントの鎖はそれほど長くはないため、ジークヴァルトの黒髪が、リーゼロッテの頬や首筋、鎖骨のあたりをくすぐった。

 整髪料か何かだろうか? ジークヴァルトのなでつけられた髪からふわりと香りが立つ。義父とも義弟とも違う男性的な匂いにリーゼロッテの心臓がどきりとはねた。


 逃れようと身をよじったリーゼロッテは、バランスを崩してジークヴァルトのつむじにキスをおとしそうになる。とっさにジークヴァルトの肩をつかみ、つっぱるようにして距離を取った。ペンダントを掴まれているので、わずかな距離しか開かなかったが。

 石に唇をよせているジークヴァルトの吐息が、リーゼロッテの鎖骨の真ん中あたりにあたる。


(近いです! 近いです! 近すぎます! 魔王様!!!)


 心の叫びは絶叫に近かったが、実際には、はくはくと浅い呼吸をくりかえすので精一杯だった。


 胸の真ん中が熱を帯びて熱くなる。ジークヴァルトに腕をつかまれたときに感じた、あの熱だ。

 ジークヴァルトが顔を上げペンダントから手を離すと、ころんと石が、リーゼロッテのデコルテに転がった。見やると、そこには、青色の石がさん然と輝いていた。

 たゆとうように、石の中の青がゆらめく。


「綺麗……」


 青銅色だったペンダントの石は、幼い頃ジークフリートにもらったときのように澄みきった青色に輝き、くすんでいた濁りが消えていた。


 無意識に、リーゼロッテがその石に手を伸ばそうとした瞬間――ジークヴァルトの人差し指が、つい、とリーゼロッテのデコルテをさまよい、それからパステルグリーンのドレスの襟元をぐいと下に押し下げた。


 年頃の娘がちょっと頑張ってみた、という程度に胸があいたエラ力作のリメイクドレスであったが、ジークヴァルトの指によって、リーゼロッテのささやかな胸の谷間の部分があらわになる。

 リーゼロッテのその場所には、生まれついたときからある、文様のようなあざがあった。ジークヴァルトは、そのあざをなぞるようにその人差し指を滑らせた。


 驚きのあまり、リーゼロッテは声を出すことすらできずに固まっている。ジークヴァルトは胸元に頭をうずめ、そのあざに唇をよせていった。

 スローモーションのように感じて、リーゼロッテはその動きを目で追った。ジークヴァルトの唇が、直接肌に触れる。温かい吐息を一瞬感じたかと思うと、あざを中心におびた熱が強くなる。


「ふ、ぁ」


 声にならない声がリーゼロッテの口から漏れる。リーゼロッテは知らぬ間に、ジークヴァルトの頭を抱え込むようにしがみついていた。


 一瞬とも永遠とも思えるような時間が過ぎて、ジークヴァルトはゆっくりと顔を上げた。

 紅潮した頬で息を弾ませているリーゼロッテは、脱力して椅子の背もたれにもたれかかったままだ。押し下げた襟足をそっと戻すと、ジークヴァルトはその身を起こして立ち上がった。


「だいたいのことは把握した」

 そう言うと、ジークヴァルトはリーゼロッテを見下ろした。

「お前、しばらくオレのそばを離れるな」

 無表情でそう告げたジークヴァルトに、リーゼロッテは力なくその視線だけを返した。


「……このまま家には帰さない」

 そう言うとジークヴァルトは、クッキーをひとかけら手に取り、再びリーゼロッテの口に押し込んだ。


「覚悟はいいな?」


(ちょ、それ、悪役のセリフですよ、魔王様!!!)


 クッキーを詰め込まれた口の中で、リーゼロッテは声にならない悲鳴を上げたのだった。

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