第6話

 予期していなかったといえば嘘になる。

 和明は漠然とそうなることを知っていた。あるいは、そうなったことを知っていた。と、言ってしまえばそれもまた嘘になる。

 少なくともふたりの結びつきに、数学の証明のようなはっきりとした必然性を感じた。そうでなければならない。そうでしかない。そこにたどりつくための道はいくつあっても、そうなることだけは絶対的に否定し得ない宿命だった。


「結婚することになったから」

「そっか、そうなんだ。おめでとう」

 悠志は組んでいた腕を解き、サッカー選手がレフェリーにアピールするのと同じように、大袈裟に両手をひろげて見せた。

「それだけかよ。相手はどんな人だとか、どういう知り合いだとか、そういうのを訊くのが普通だろ」

「だって、相手って律ちゃんじゃないの?」

 悠志は唖然とした表情で反論しようとしたが、すぐに口をつぐんだ。二の句を継げない悠志をよそに、和明は泰然自若としていた。

 これではいつもと立場が真逆だ。

「やっぱり正解だ。お似合いだと思うよ」

 朝起きて、おはようと言い合って、律がコーヒーを淹れ、悠志がトーストを焼き、バターとコーヒーの香りが混ざり合って、向かい合って座って、いただきますと手を合わせる。そんなふたりの姿は想像に難くないどころか、誰が見たって理想的だ。

 悠志ははにかむように笑った。

「言ってなかったのに、よくわかったな」

「だって僕たち、どれだけ長い付合いさ? もう二十年以上になるんだよ。りっちゃんにしたって十年以上の付き合いだし。そういうの、聞かなくてもわかるもんだよ」

「そうか。そんな素振りは見せなかったと思うけどな。っていうか、一年以上も会ってなかっただろ。それで、いきなり——」

「それでも、わかる時はわかるもんだよ」

 水は重力に従い、山から海に向かって流れていく。雨は空から大地にふりそそぐ。風が吹く、花が香る、鳥が鳴く。季節が巡る。それくらい、快いくらいに、律と悠志が一緒にいるのは自然なことだった。

 吹きおろした風がふたりのあいだを抜けた。

 春で良かった、別の季節だったら、言葉にならな暗い感情が、しばらくくすぶっていただろう。風と日差しが清々しく、葉擦れの音を聞くうちに、かすかに砂のようなざらついた感情が、きれいにそそがれていく。

 朝に飲んだお茶がよく効いて、花粉症もつらくなかった。

「でも、まさか親友に女を奪われるとは思わなかったけどなあ」

 和明は朗らかな気持ちでそう言うと、からかうように笑った。冗談のつもりだったが、悠志は少しも笑わなかった。

「俺は奪ってなんかいない。ちゃんと順番を守ったじゃないか。お前たちが別れてから、俺たちの関係が始まったんだから。俺が律に惚れたときには、彼女はもうお前の女じゃなかったんだ。だから、奪ってなんかいない!」


 ——それは嘘だ。


 ふたりは大学入学後も二か月に一度は必ず会っては、近況報告し合うほどの仲だった。

 その二か月の時間のへだたりですら、ツーリングですぐに埋まった。互いに小さい頃から知っていて、一緒にいるのが当たり前だったのだ。当時、ふたりはそのことにすら気付いていなかった。

 だが、和明が律と付き合うようになってから事情が変わった。

「そっか、おめでとう!」

 悠志は今にもハグでもしそうな喜びようで、和明を抱き寄せるかのように肩を組んだ。子供のころからそうだ。人の不幸を全力で悲しみ、幸福を全力で祝う。太い幹が空に向かって真っ直ぐ伸び、ひろく枝分かれして日のひかりを集め、雨を受け止める。彼に会うたび、ザワザワとさざめく夏の森の、しっとりした匂いがした。

「やっとって感じだな。引きずりすぎたんじゃないか?」

 ふたりの横をカップルが通り抜けると、追いかけるように風が吹きあがった。

「引きずってたっていうか、実はあれ、関係だけが続いてたんだよ」

「うそ?」

 悠志の声は裏返った。

「腐れ縁っていうか。まあ、同じ上京組だったし」

 神社の階段を蟻が這うのを見ながら、以前見たドキュメンタリーを思い出した。

 地球上の蟻の総量と地球上の人間の総量に大きく差はないという。アマゾンの奥地に暮らすヤノマミ族は、母が子を産むと、精霊として天に返すか、人間として地上で育てるかを選択する。選択は母に委ねられ、返すと選択された赤子は蟻塚に放り込まれ、蟻ともども燃やされて精霊のまま天に昇るのだという。

「お前がそういうだらしない男だとは思わなかったよ」

 和明は一瞬、なにを言われたのかわからなかった。

 カランカラン、と階段のうえから鐘の音がおりてきた。さっき横を通ったカップルだ。

 大根のはみ出した買い物袋を手にさげて、いかにも幸福そうに笑い合っていたふたりが、これ以上なにを求めるのだろうか。違う。幸福を願いにきたのではなく、幸福であることを感謝しにきたのだ。そしてそれが終わらず、変わらず、長く続くようにと願うのだ。

 欲深いようにも慎み深いようにも思えるその行為自体には、なんの意味もなかった。願ったところで叶うものは叶い、叶わないものは叶わない。純粋に望みを叶えたいと願うならば、ほかにいくらでもできることがある。

 和明は不意に、自分がどこにいるのかわからなくなった。階段の途中で振り返ると、したにとめたままのバイクを見下ろした。

「僕だってよくないとは思ってたけど。決まった相手がいなかったし、彼女のことを嫌いになったわけでもないから。だから、互いにとって都合がよかったんだよ」

「そうかもしれないけど、人ってわかんねえよ。どこでなにが繋がってて、なにが無関係で、誰が誰を傷つけてとか。まったくわかんねえよ。だから、気をつけなきゃいけないんだと思う。そういうなんとなくが、どこかの誰かにとっては決定的なダメージになるかもしれないんだから」

「……そうかもね」

 反論するのも億劫になるほどの悠志の正義感には、微塵も嘘が含まれていない。それを知っているからこそ、和明は黙りこんでしまう。

「まあ、そういう半端なのも、これで終わるってんだから、結果的には良かったってことだよな」

 悠志の顔に笑みが戻った。

「とにかく、今は新しい彼女を大切にしろよ」

「うん」


 入り口の戸を開いたとたんにむっと油のにおいが鼻を突く。と同時に、けたたましい罵声の渦に飲みこまれた。『まり』は学生時代にふたりが通った安居酒屋で、いつ赴いても店内は学生でいっぱいだった。

 しっとり会話を楽しむには最悪な場所とは知りつつ、ふたりは毎回この店を選んだ。習慣とは妙なもので、飲み終えるころにはこんな店二度と来ないと固く誓うのに、ふたりで会うと自然と足がこの店に向いた。

 安い、まずい、うるさいの三拍子が揃う店には、快不快を問わずあらゆる記憶が、壁といい天井といい便所といい座敷といい、いたるところに染み込んでいる。

「いらっしゃいませー。何名様で?」

 店員の肩越しに店内を見回すと、悠志の姿をすぐにみとめた。

「待ち合わせです」

 奥の角の席にどっかと座り、ビールの大ジョッキをあおっていた。たとえ背を向けていても、和明が見誤るわけがない。

「窓の外が見えるのが良いんだよな」

 小さな窓からは隣の建物の換気扇が見えるだけで、外などまともに見えなかった。

「あれさ、カズ君のこと気遣ってるんだと思うよ」

 律に言われるまで和明はそのことに気がつかなかった。

 他の客に荷物を蹴られ、背中を蹴られ、時には酔った学生が酒をまき散らしてからんでくる。そんな場所に和明を座らせまいと、悠志は必ず窓の見える席を選んでいた。

 奥の席なら安心してうしろの壁にもたれかかれるし、人が通ることもない。前もって電話を入れておけば、店主は常連のふたりのために、いつもその席を空けてくれた。

「お待たせ。悠志が先に来てるなんて珍しいね」

「おお。ちょっとこっちに用事が——」

 振り向きざまに、悠志の動きは止まった。

 漫画の一コマのようだった。あるいは映画のワンシーンだろうか。手にしていた枝豆から、つややかな緑の粒がぴょんと飛び出すと、ビールに落ちて微かに泡立った。

「紹介するよ。こちら律さん。僕は律ちゃんって呼んでる。僕の彼女です」

「はじめまして。律です」

「……はじめまして」

 機械的に発せられた声は、すぐさま店内の喧騒に掻き消された。

 最初に発した一言が、悠志がその日発した言葉のほとんどだった。うん、とか、はい、とか簡単な返事しかせず、次々とジョッキをあおいでいくのに、少しも酔えないようだった。

「ねえ、カズ君」

 二時間で十杯ほど飲んだところで、律が心配そうに、和明の袖を引いた。悠志のことを案じてのことだ。

「平気だよ、ざるだから。悠志がつぶれるところなんて一度だって見たことないからね」

 まるで自分のことでも語るように和明は言った。

 実際、悠志が遅くまで飲むときにはいつも和明がいたし、和明が遅くまで飲むときにはいつだって悠志がいた。要するにふたりは、ふたりで飲む以外で、深酒をしなかった。

「カズ君がそう言うなら、大丈夫なんだろうけど……」

 だがその日、悠志は結局ひたすらビールを飲み続けた挙句に、酔いつぶれて眠ってしまった。和明は律をタクシーに乗せて先に帰すと、悠志を無理やり店から引きずり出した。

「ほら、帰るよ。頼むからちゃんと歩いてって」

 ずっしりと悠志の体重がのしかかり、和明のからだがぐらりと揺れた。拍子に、渡りかけていた端の欄干に寄り掛かった。

 悠志は暗い川の淀みに向かって吐いた。街灯に照らされた黄色い吐瀉物が、ぷかぷかと川を流れていった。

「お前、どうして今まで隠してたんだよ。どうして今まで隠してたんだよ。馬鹿野郎」

「ホント、珍しく酔ってるなあ」

 ほうって帰れば、明朝に小さな新聞記事になっていてもおかしくない季節だった。和明は悠志の腕を肩に回し、大通りまで歩いたところで、律が待っていた。

「律ちゃん。帰ってなかったの?」

 律は視線を一度落とし、なにかを振り払うように長い髪をバサっと掻き上げた。

「タクシーとめておいたから。先にふたりで乗りなよ。私は別のタクシーで、一人で帰るから。ちゃんと家のなかまで入れてあげてね。ドアの前までじゃ、外でそのまま眠っちゃうかもしれないし」

「……うん。律ちゃん、ありがとう」

 タクシーに乗ってすぐ、悠志は寝息を立てて眠りこけた。

 もう、起きそうになかった。和明は嫌な顔をした運転手に、少し大きな声で、行き先を告げた。



「冗談だよ。ちょっとからかいたかっただけ。まあ、少しやっかみもあるかも。悠志なら律ちゃんを幸せにできるって、ずっとそう思ってたから」

「お前、本気で言ってんのか?」

 風が吹いた。

 さっき吹いた風よりも冷たいのに、どこか春めいた甘い香りがして、不意に和明の脳裏に浮かんだのは糸井星いといせいのこまったような笑顔だった。

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