第19話
「谷本さんが、梨絵さんに詰め寄ったって話じゃないの?」「あの人、星さんも迫ってたって聞いたけど」「他にも被害者いるのかな」「いるでしょ、そりゃ」「なに考えてんだろうね。狭い職場なんだからすぐに噂が広まっちゃうってのに」「まあその噂をひろげてるのって私たちだけどね」「アハハハハ、たしかにー」
——聞こえてるって。
信也はイヤホンを耳に深く挿し直すと、音楽のヴォリュームを上げた。目の前に表示された数字と文字の行列は、こうして自分が生きている世界とはなにも関係がない、別の世界での出来事だと思っていた。だが、ひとつひとつのデータはそこに人が生きているという証拠なのだ。
追い詰められた今となってなぜか、それがわかるようになった。
誰かがなにか消費に結びつく行動をしない限りはここに数字や文字は起こされない。商品を買い、使い、売り、遊ぶ。そこには生活があり、物語があり、人が生きている。消費が生の一端を担っているのではなく、生そのものが消費によって推進力を得て絶えず前進する。あるいは後退かもしれない。
とにかく動き続けている。一見すると無意味で無味乾燥とした連鎖こそが生の本質、人々の語られ続ける物語だ。コルビュジェの建築に似ている。冷淡で、乾いた白い箱。なのに、なかを覗いてみれば、やはり生活が顔を出す。人の生きた物語がそこにある。
物語の終わりは呼吸や鼓動が止まることと同義、特定の消費者と紐づいたIDがここに表示されなければ、それは、その人の終わりを意味する。建築もきっと、住む人がいなくなった瞬間から呼吸をやめてしまう。それでおしまい。
——だけど。
この無機質な数字と文字の行列こそが、人が生きた、生きている証明だとしたら、星や梨絵に対するこの思いはイチとゼロのバイナリーほどの価値もないということになる。数字にも文字にもならない思いは、自分の心の中にしか記述されずに、自分がいなくなればすべて消えてしまう。
今は、そうであって欲しいと願った。
容易く書き換えられるような値、それ以下の存在であって欲しかった。それくらい、軽くて、どうでもいい感情だと思わない限り、この時間を耐え切ることなど不可能だ。イチ、ゼロ、イチ、イチ、イチ、ゼロ、ゼロ、ゼロゼロゼロゼロゼロゼロゼロ。
ここにはなにもない。
信也は仕事に集中できないまま、いつのまにか昼が過ぎた。手は動いていないのに、目を見開き、表示されたCSVファイルの文字と数字を眺める姿は、蝋人形のように生気を欠いていた。
さっと、画面の前を手が横切った。音量を上げたせいで谷本は周囲の様子に気が向かなかった。デスク周りを見回してみると、自分以外は昼の休憩に出ていた。横に和明が立ち、相変わらずののっぺりとした無表情で谷本を見下ろしていた。
「谷本君、ちょっと良いかな。ふたりだけで」
——ああ、ついに来たか。
「はい」
谷本は立ち上がると、和明のあとに従った。
オープンスペースのテーブルが空いていた。デスク周りもどうせ人がいないのだから、わざわざ移動する必要などないではないかと、そんなどうでも良いことを不満に思った。
昼食時ということもあり、オフィスは閑散としていた。
「じゃあ、そこ座って」
「はい」
うながされて谷本が腰掛けると、和明はその斜め前に座った。
「新しい業務が始まるって話、もう聞いてるかな?」
「え?」
「聞いてない? あれ、糸井さんに伝えるように言っておいたんだけどな。来週からになるんだけど、そのマニュアルを谷本君に任せようかと思って」
「え、ああ、はい」
「嫌?」
「いえ、嫌じゃないです。やらせてもらえるなら、やってみたいです」
「そう、よかっった。じゃあ説明するね」
そういうと和明は画面に数枚のスライドを示していった。
内容は、新しいキャンペーンに伴うリスク管理に関するものだった。正確には、リスク管理に伴って派生する雑業務だ、というところまでは理解できたものの、詳細がまるで頭に入ってこない。昨日の出来事と今という時間の連続性が見出せなくなった。昨日があり、今日があるなら、和明が平然と話していることに説明がつかない。支離滅裂な夢でも見ている気分だった。
梨絵と飲んだあの日、なし崩し的にホテルへと流れた。信也は大部分を覚えていなかったが、朝起きると、枕元には梨絵の書き置きが残されていた。
『約束、守ってくださいね』
週が明けると、信也は星に二人で話せないかと申し出た。
「はい、良いですよ。仕事のことで、なにか困ったことでもありましたか?」
「えーっと。ちょっとここでは」
「あ、ごめんなさい。そうですよね。軽率でした。じゃあ、外にご飯でも食べに行きますか?」
「はい、ありがとうございます」
ランチを星とオフィス外で、しかもふたりで——。
「で、お話ししたいことってなんだったんですか?」
星は大きなステーキを口に放り込んだ。
ソースが垂れ、それをすかさずペーパーナプキンで拭き取るものの、所作はどこか拙い。そういう姿を目にするたびに、人への配慮が行き届いた人が、どうして自分に対してはこれほど無頓着なのだと思った。
人が人の欠落を見出した時に感じるのは、愛情か嫌悪のいずれかだ。胸が高鳴る。谷本が星に対して感じるのは、常に愛情だけだった。
「ああ、ええっと」
頬張った大きな肉を咀嚼するのに精一杯で、星はちっとも話を聞いていないように見えた。
——ああ、ダメだ。
「星さん、リスみたいで可愛いですね」
黒い瞳を見せびらかすかのようにまぶたを大きく上げて、口をすぼめて静止した。かと思うと、顔を真っ赤にして、怒ったように眉を寄せるが、まだステーキを飲み込めない。
なにか言おうと口をもごもごと動かしても、まだ肉が口のなかに居座ったままだ。可愛い人だ、と信也は心底そう思った。
「僕、最近ちょっと星さんのこと信じられなくなっていた時があって。仕事上の信頼関係って大切じゃないですか。だから、あらためて話したいなって思っただけです。特別、話があったとかってんじゃなくって」
——ダメだダメだダメだ。
「とまあ、ざっとこんな感じ。作れそう、マニュアル?」
「え?」
「はあ。谷本君、いかにも上の空って感じだったよ。聞いてないんだろうなって思ったけどさ。本当に任せても大丈夫?」
説明のスライドに釘付けになっていた視線をあげると、斜向かいの和明の顔を見た。半ば呆れたような、半ば心配するような表情は、なんとなく可笑しかった。
「アハハ、大丈夫ですよ。そのスライドだけ送ってもらってもいいですか。作ってみますんで」
「大丈夫っていうなら別に良いけど。じゃあ送っておくよ」
「はい! お願いします!」
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