第20話
「ねえ、
福田薫は星の席の背もたれに手を置くと、立ったまま彼女を見下ろした。
「ごめんなさい。その件なんですけどちょっと予算的に難しいみたいで。新年会ならなんとかなると思うんですけど」
「ふーん。じゃあ来年か」
「はい。ごめんなさい」
薫は腰をかがめて星と同じ高さに視線を落とすと、横顔をまじまじと眺めた。星は画面から目を離さず、絶えずタイプを続けている。これといって美人ではない。髪は黒く艶やかだが、短すぎる。年齢のせいか、疲れのせいか、化粧のせいか、朝と夕で顔が違う。それなのに——。
「じゃあ日付だけ先に決めても良いかな。このままだと新年会も流れちゃいそうだし」
星が薫の方へと顔を向けた。じっと画面に見入っていたこともあり、黒い瞳はいつも以上に潤んでいる。それに加え、今にも泣き出しそうなへの字型の眉。憂いのある表情に、薫は不覚にもたじろいだ。至近距離に顔を近づけ、本来なら相手のほうが戸惑うはずだった。確かに薫はそれを狙っていたのだが。
「ありがとうございます。すごく助かります」
「あ、うん」
昨日と今日を違う一日にする。
薫にとって容易いことだ。
日常が変わらないなら、自分の力で変えればいい。行為が生み出す変化を余すことなく汲み尽くせばいい。それだけのことだ。
興味のある女がいれば、すぐにものにした。興味のある仕事があれば、すぐにものにした。興味のある技能があれば、すぐにものにした。努力ってなんのこと、と福田はしばしば自問する。得たいものがあり、得たいものへの道筋が定まっていて、ただ漫然とそこを歩くことを努力と呼ぶのならば、生きているだけで人は努力していることになるではないか。そんなのまるで馬鹿げている。ただ自らの欲に従い、自らの欲のために生きるだけだ。なのに——。
「ねえ、星ちゃん」
「はい、なんですか?」
きょとんとした表情で、リスのような黒々とした瞳を福田に向ける星は、どこからどう見ても三十二歳の、どこにでもいる、平凡な女だった。それなのに——。
「お昼一緒に食べようよ」
——クソが。クソがクソがクソが。どうして三人なんだよ。
「谷本君、遅いですねー」
薫はポケットに両手をしまい、足をカタカタと震わせていた。星は別フロアでミーティングがあり、二階のロビーで待ち合わせた。信也と一緒に降りる気になどなれない薫は先にひとりで降りてきたのに、肝心の信也がまだ来ていなかった。藤原梨絵と、こそこそと何か話していたのが、なんとなく気がかりだった。
——クソが。このまま来なけりゃいいのに。
「ああ。くそ遅えええ」
ふたりの横をたくさんの人が通り過ぎていく。そこに、薫の好みに合う女は無数にいた。
長い茶髪を揺らしながら歩く長身細身で丸顔の女。ちょっと軽そうで、関係までの工数はかからない。ブランドもののバッグを手に颯爽と過ぎゆく黒髪ロングの切れ目の女。この手のタイプはさっきのよりもさらに軽く、一晩で片付く。と、それは少し物足りないか。背が低く肉付きもいい、全体のバランスとして完璧な体型をした幼い顔立ちの女。これこそ抱くのにうってつけの女で、工数は他の二人と比較するとややかかるだろうが、それだけの甲斐があるってものだ。
どれも好みだった。どれも、一週間ないし一ヶ月もあれば関係に至れる、一瞬にしてそう確信した。
隣の星を見下ろした。すると、星も偶然、薫を見上げた。視線を逸らした。
「どうしたんですか」
「んや、どうもしない」
深く息をして、鳴り止まない鼓動がおさまるのを待つ。
良い女、良い仕事、金、時間、欲しいものは大抵、道筋が定まっているゲームに過ぎない。
人生はゲームだと思えと言っていたのは、誰だっただろう。思い出そうとするが、どうにも思い出せない。ゲーム。ゲーム。どこにでも決まった道筋が、常に解答が用意されているはずなのに、ここにだけその道がなかった。
カタカタと震える足は、いっそう音を高鳴らせるが、まだ信也は来ない。行き交う人が時々、ふたりにちらと視線を向ける、その大部分は福田に向けられたものだ。長身金髪。それだけで十分すぎるほど目立つのに、それに加えて眉目秀麗、文句のつけようのない容姿だった。
星は可愛い顔立ちをしているものの、美人の類ではない。特別整った鼻ではないし、ぱっちりとした大きな目でもない、まん丸と膨らんだ頬は可愛らしいが、ただそれだけ。年齢は三十二、もう若いとはいえない。薫の横に並んで立って、なんら遜色がないとは言えない。と、そんなことを考えているうちに、ついに福田の足は止まった。
「あ、福田さん、これ見てください」
星が差し出したスマホには映し出されていたのは、谷本からのメッセージだった。
『ごめんなさい! ちょっと行けなくなりました!』
苛立ちは一瞬にして消えたのに、再び足がカタカタと震え出した。
女とふたりで食事に行く。
過去に何度も経験したことだ。違う。初めてのときですら緊張などしなかった。だとしたら、これは何だ。と、自問したところで答えは明白だった。薫はとうに、自分自身で解答にたどり着いていた。さっき食事に誘ったあの瞬間に。
胸のつかえが溶けた。誰と寝ても、なにを得ても、今までずっとなにも変わらなかったもやもやが晴れた。自分を自分から、自由から遠ざけようと絡みついていた糸がほどけていった。糸と糸とがこすれる音が聞こえる。厚着している人たちの、ただの衣擦れの音だと知りながらも、次第に自分が自由になっていくのがわかる。
今まで一度だって感じたことのなかったもの。誰と一緒にいても、何をしても、見出すことのできなかったものが、いまここにある。それがまだ信じられなかった。息が詰まり、鼻頭をガンと打たれたかのように顔全体がジーンと熱くなり、自分の感情になにが生じているのか、ここでようやく薫は得心した。
——やばい。やばいやばいやばい。
人が行き交う。中には見知った顔もあるだろう。だが、もうそんなことは関係なかった。こみあげる感情を抑制する方法を知らなかった。感情をコントロールすることなど容易いと思っていた。違う。抑制できぬほどの感情を、いまだかつて経験したことがなかったというだけだ。
——やばいやばいやばい。クソが。クソッ。
「はあ。ふたりになっちゃったんで、やめておきましょうか、今日」
「えっ」
横を向こうと勢いよく首を回したからか、目尻からきらりと涙が弾けた。咄嗟に福田は天井を仰いだ。なにもない殺風景な天井だった。そんなところ、誰も見ない。無機質な鉄骨の梁から大きな電灯が垂れ下がっていた。
「上、なにかあるんですか?」
「いやあ、ハハ。違くてさ。なんか眩しいなって思って」
本当に眩しかった。LEDの強烈な白光は、太陽といっては大袈裟かもしれないが、たった一つのライトで煌々と玄関ホールを照らすのに十分すぎるほどだった。それがなければ、ここはきっと誰もが出入りするのを躊躇うほどに暗い。
「そうですか? 電気って普通、眩しいものじゃないですか?」
そこにそんなライトがあるなど、薫は今まで気がつかなかった。それだけのことだ。
「そうかもね。電気って普通眩しいもんかも」
「ハハハ、福田さんがそういうよくわからないこと言うのって、なんか珍しいですね」
薫は初めて、正面から星の笑顔を見た。
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