第21話
「福田君、今月末で退職になりました。残りの日数も有給消化にしてもらいました。書類や社員証は送付してくれるそうです。なので、もう出社することはありません。福田君もそれで了承してくれました」
「……はい。私の不手際で。申し訳ございませんでした」
「いえ、糸井さんが謝ることではありませんから。むしろ、僕が色々と至らずに、本当に申し訳なかったです」
和明は深く頭を下げた。謝ってすまされるような問題ではなかったものの、和明にできることと言えば、誠心誠意、真心をこめて謝意を示すことぐらいだった。
「とんでもないです。伊藤さんこそ、何も悪くないですから」
顔をあげると、今にも泣き出しそうな
「……私はあの場の責任者でしたから」
「でも、助けてくれたのも伊藤さんですから」
笑顔を見せるつもりで笑った星の表情は、やはりどこか歪んでいた。
あの日のことを思い出すと、和明はいたたまれなくなる。
自分だって福田薫と大差はない、ひょっとしたら和明こそ、薫のような行動を取っていたかもしれない。
——そもそも、どうして自分は星を探しに出たのだ?
思い返してみると、胸のあたりがムカムカとする。飲み過ぎたことを思い出す。自己嫌悪という一言で終わらせるのは安直に過ぎる。福田がなにかをする予感などなく、ただ星と話そうとしただけで他意はなかった。
——ただ、話そうとしただけ?
「福田君も正式に謝罪したいと言っていました。それは僕のほうから断っておきましたが、反省はしているようです」
頭をさげるでもなく、和明は顔を伏せた。
「もう、そのことはどうでもいいんです。というより、ごめんなさい。私、そのことはもう話したくないんです」
「失礼しました。そうですね、やめておきましょう」
「いえ、伊藤さんはなにも悪くないんです。本当に、伊藤さんはなにも」
星は和明に向けていたからだを正面に戻した。
落ち着かないまま、和明も業務を始めた。朝礼が始まると、星のタイピング音だけが、執務室に鳴り響いた。
——春過ぎて。
年が明けたばかりだというのに、すでに夏が待ち遠しい。
冬至を過ぎれば、あとは日が長くなる一方だ。朝早く起きて太陽を見るたび、冬が終わり、夏が過ぎ、そして白い衣が風にたなびく光景を思い浮かべる。夏のにおい。草のにおい。太陽のにおい。そこにはなぜか、星がいた。
クローゼットの段ボールから高校の頃の国語便覧を取り出し、夏を詠んだ短歌を探した。
和明は、同じ百人一首からひとつ見つけた。
風そよぐ ならの小川の夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりけり
春過ぎて、が夏の始まりなら、風そよぐ、は夏の終わりだ。どちらも涼しげで、さわやかな風が吹いている。いずれの季節もきっと、洗濯物がよく乾く。
「カズさんなら理解してもらえるかと思います。そんなつもりはなかったんです。ただ、彼女のことが好きだった、その思いを純粋に抱いていたいだけだった、傷つけるつもりなどなかったんです。
まあ言い訳はみっともないですよね。でも、あの人を見ているとどうにも我慢ができなくなるんです。好きという気持ちを伝えずにはいられなかったんです。だって、あの潤んだ瞳を見てると、この人を守ってやれるのは自分だけなんだって、なんか勘違いしてしまうっていうか。って、やっぱりみっともない言い訳になってますね。すみません。
とにかく、俺が言ってること、カズさんなら理解できるはずですよ。この会社で、一番近くであの人のことを見てたんだから。一応伝えておくと、カズさんの気持ちに気付いてるのって、きっと俺だけじゃないですよ。谷本だって、藤原さんだって、とっくに知ってますから。だから、和さんも気をつけてくださいね」
——気をつけろって、なにを?
午前中に洗濯物を干し、バイクを走らせ江ノ島まで行った。そして折り返して十分ほど海沿いを走ってから家に引き返した。目的地も持たないまま走って、ただ風になりたかった。あらゆる憂さを吹き飛ばしたかった。星は、そんな時にも容赦無く顔を出す。
「空気に溶けていくみたいじゃないですか。違うか。風に溶けていくって感じ。バイクも、人も、なにもかも。みんながひとつになっていくっていうか、ひとつがみんなになっていくっていうか。って、よくわかんないですよね。酔っ払ったかな」
洗濯物を取り込みながら、新年会で星が言っていたことを思い出した。
どれだけ速くバイクを走らせても、星の言うような境界の失われていく感覚は味わえなかった。風を切る音が大きくなり、むしろそれが壁となって、世界から自分だけが遮断されていくような気さえした。
風の内側と外側とでは、空気と水ほどに、空と海ほどに違う、そこで自分だけがひとりぼっちになっていった。
小さい頃に海で溺れた。遠浅の波の低い穏やかな海なのに、浮き輪をしたまま潮に流され、周りを見渡すと誰もいなかった。助けてと声を出そうにも跳ねる水が塩辛くて、口がうまく開かない。耳元でぶつかる水音に混じり、シューッと空気の抜ける音が聞こえる。他にはなにもない。まったくなにも。浮き輪の空気が抜け、沈んでいく。まぶしい光で満ちている。時々、波間から空がのぞいた。青い孤独。
この世界には、自分しかいないのだ。誰も助けてはくれないのだ。声を出そうとすると、海水が口に入る。やはり、塩辛い。
洗濯物はまだ濡れていた。
「できれば星ちゃんには自分の口から明確な謝罪を伝えたいと思っています。まあ、無理でしょうけど。機会が与えられるのであれば、の話です。というか、与えられたとしても、結局あの人に会ったら、また同じことになってしまうんだろうと思います。知ってます。もう会わないほうが良いんですよね。
カズさんはすごいです。あんな人を目の前にして、何も行動を起こさないでいられるなんて。あの谷本ですら、動いたんですから。
こういう言い方されるとムカつくかもしんないですけど、カズさんの無行動主義みたいなのって、俺には信じらんないです、良い意味で。俺もカズさんみたいに、どっしりと構えていたいんですけどねえ。それができたら、こうなってはいなかったのに。ま、ただの馬鹿ですね」
和明は、福田の言葉を素直には受け取れなかった。動かない、ではなく、動けない、だった。確固たる意思をもって動かなかったのではなく、ただ勇気がなくて身動き取れなかっただけだ。
人の築き上げたものを壊す可能性、誰かを激しく不快にさせるかもしれない可能性、多くの人に迷惑をかけるかもしれない可能性が見えている限り、踏み出せなかった。
——違う。言い訳だ。
星への思いを確信していた。ただ、拒絶されるのが怖かった、自分が傷つくのが怖かった。このまま一緒に仕事をして、長い時間を過ごせるのであればそれで良いと自分に言い聞かせていた。動かず、変わらず、そのままでいられたらそれで良い、なにも変えず、変わらない、それが一番だと。
——そんなの、ありえないってわかってたのに。
「余談ですけど、藤原さんが辞めるのは、俺のせいじゃないですからね。確かに俺は、彼女のことを嫌っていました。それはカズさんが一番よく知ってるんじゃないかと思います。
あの日も、カズさんと星ちゃんと別れたあと、会ったんですよ。藤原梨絵に。あいつ、なにしたと思います。まさかの星ちゃんにフラれたばかりの俺を、ホテルに誘いやがったんですよ。あんなくそ女、まじで死ねば良いのに。
あ、ちなみに、谷本が辞めるのはあの女のせいだと思いますけどね。それに関しては、俺は悪くないです。具体的な話は谷本に聞いてみると良いですよ。そしたらもしかしたら谷本だけは残ってくれるかもしれないし。って、あいつが残ったところでどれほど仕事の役に立つんだって感じですけど」
暖房の前の竿に取り込んだばかりの洗濯物をかけた。そうしておけば、一時間から二時間ぐらいで完全に乾く。
洗濯物は、冬でもかすかに夏に似たにおいがする。そこにはやはり太陽が隠れている。生乾きの洗濯物に顔をすり寄せたくなる気持ちを必死に抑え、風とともに漂うにおいだけを感じた。
「そういえばそんなのあったっけ。百人一首大会」
電話で話さないか、という悠志には特に用事があったわけでもなく、だらだらと無目的な会話をふたりで続けた。
久しぶりだった。時々メッセージを送ることはあっても、会う機会がないまま、気がつけば数ヶ月が過ぎていた。
「忘れたのかよ。小学六年の、最後の行事だっただろ」
「そうか?」
数秒間、ふたりして黙った。そして、悠志がアッと声をあげた。
「思い出した! お前が衛藤(えとう)から一枚取ったんだよな!」
「衛藤?」
——そうか、衛藤海(うみ)。
「アハハハハ、なんだよ、和明こそ忘れてるじゃんか」
電話越しの和明の声は明るかった。
「いや、忘れてないよ。衛藤だろ、衛藤海。はっきりと覚えてる」
不意に力が入り、受話器越しに聞こえた自分の声に和明は驚いた。
——なにをムキになってるんだ?
「ハハハ、だよな。わかってるって。和明、やっぱりあいつに思い入れがあったんだな」
「やっぱり?」
ずっと思いを隠していた。誰とも衛藤海の話をすることもなかった。好きだったとはいえ、彼女の名前を口にする機会があまりに少なかったからこそ、とっさには思い出せなかったのだ。
衛藤海。
その名の由来だって今なら思い出せる。彼女の両親が出会ったのが夏の海岸で、ふたりとも海が好きだったから、衛藤海。
海の見える病院で生まれた。同じ病院で、彼女の父親が死んだ。人生で初めての葬儀だった。皆が黒い服を着ているのが異様で、悠志とその友達は、緊張感に耐えきれずにケラケラと笑っていた。僕もつられて笑った。そして、衛藤海もなぜか、笑みを浮かべていた。
血液型はO型だ。星座は射手座、駅の近くに住んでいて、中学は私立に行ったから小学校を卒業して以来、彼女とは合っていない。彼女のことはよく覚えていた。
「だってさ、お前、小学校の卒業式であいつに告白されたっていうじゃん。当時、そういう噂があっただろ」
「ああ」
思い出した。和明が百人一首で一枚だけ取ったことを、衛藤海はずっと覚えていた。といっても、卒業するまでの二ヶ月間ちょっとの期間だけのことだが、和明がうんざりするほどに、彼女はその一枚に執着していた。
——春過ぎて。
「あれ、私が一番好きな短歌なの。あれだけは、絶対に取られたくなかった札、取られるだなんて思ってもみなかった札なの」
「どうして?」
和明は、疑問に思ったことをそのまま聞いてしまうほどに幼かった。海を目の前にして、そんな無邪気でいられる自分がなんだか妙だった。
「どうしてって、だからあれが一番好きな短歌だったからだって言ったでしょ」
「いや、違くてさ。どうしてあの短歌が一番好きなの?」
海はしずかになった。
優等生だった彼女は物怖じせずにはきはきと受け答えをし、積極的にクラス行事にも参加するような活発な女子だった。
クラスの男子の憧れというより、女子からの人気のあるタイプだった。彼女のことを好きでも、それをはっきりと伝えられる男子など、おそらくいなかっただろう。
——その彼女が自分に告白を?
「俺さ、実はあいつのこと好きだったんだよな。」
「え、本当に?」
「ああ。なんか、俺とお前ってそんなんばっかだよ」
「そんなこと一度も言ってくれなかったじゃないかよ」
「だって俺、お前があいつのこと好きだってのも、きっとお前よりも早く気がついてたからな」
電話の向こうで、悠志が朗らかに笑うのがわかった。
——ハハハ、なんだよそれ。
「なんか、懐かしい匂いがする気がするんだよね。朝起きてさ、コーヒーの匂いを嗅ぐみたいな気持ちになるの」
「僕、小さい頃コーヒー飲めなかったよ」
「じゃあさ、朝起きて顔を洗って、タオルで拭く瞬間の柔軟剤の匂いだったら、どう?」
「あ、それ。ちょっとわかる」
安心感。春が終わり、山のふもとにぬくもりのこもった甘い風が吹き抜け、白い衣がひるがえる。その光景がまぶたの裏に浮かぶ。洗濯物をとりこんで最初に感じるにおいと同じで、そこには太陽のひかりがある。太陽の匂いがある。
大丈夫、明日も朝早く起きて、顔を洗って、準備して、学校に行く、仕事に行く、友達に会える、勉強できる、ご飯を食べられる。そこには昨日と明日をつなぐ、そういう一日がある。
「……彼女、今頃どうしてるかな?」
「ああ、どうしてるんだろうな。私立に行っちまったからなあ」
ハーッと悠志は長いため息をついてから言った。
「きっとさ、良い大学出て、良い大学出身の旦那をもらって、良い家に住んで、良い子供を産んで、良い仕事して、充実した人生を送ってるんだろうよ」
「だったら良いね」
「そりゃ、そうに決まってるだろ」
悠志が優しく微笑む。和明には、見えなくともそれがわかった。
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