エピローグ

せいちゃん、このお皿のセットって、さっきもう段ボールにしまわなかったっけ?」

「あ、ホントだ。別のやつに入れちゃう?」

 新聞紙の束を、奏多かなたがいる方へ滑らせた。

「ありがと。でも入居先でどこになにがあるかわからなくなるの嫌じゃない?」

 奏多の腕がのぞき見えると、シューッと音を立てて新聞紙が戻ってきた。

「もう封しちゃったんじゃないの?」

 食器類は箱に全部収めたはずだった。

「解けば良いだけだよ。で、また閉じれば良いだけ。対して面倒じゃない」

「そっか」

 星は新聞紙を大きくひろげてから、くしゃくしゃに丸め、箱の隙間に詰めた。

 山積みになった段ボールの影から、互いの声だけが聞こえる。ホコリっぽいから窓開けようよ、と奏多がいうので、窓はすべて開け放していた。そのせいか少し肌寒い。

 引越しの準備でずっと動き続けているというのに、ちっともからだは温まらなかった。風が吹くと、どこからか甘い香気がただよい、星の鼻先をかすめた。クシュンと大きくくしゃみをした。

「アハハ。大きなくしゃみ」

「ハハ、ごめん」


 ——そっか。もう春なんだ。



「そういう事情なら、どうしようもないですから。謝らないでください」

 辞職の意を伝えると、和明はいかにも杓子定規な反応をした。やっぱり伊藤さんは伊藤さんだ、と星は思った。いつも同じ顔。喜怒哀楽は明白に顔に表れているはずなのに、どの顔も、どこか無表情に近い。

 彼はなにが面白くて生きているのだろう、と思うのと同時に、自分はなにが面白くて生きているのだろう、と問う。同じだった。上手に取り繕うことだけを学んで、深いところは成長していない。表面をひたすら摩擦なく滑ることだけを目指して、気がつけば面の皮だけ分厚くなっていった気がする。中身はいつまでも空虚だ。きっと和明も同じだ、そう思った瞬間に、それを伝えておけばよかった。


 ——なんか、スケートみたい。


 スケートの授業の目標は、一部の運動神経のいい男子を除けば、転ばずに滑ることだった。和明も北の方の出身だろうか。そんな話をしたことがあった気がするものの、星は和明のことはほとんどなにも思い出せなかった。いつもそう。つかみようのない人で、つかもうとしてもさらさらと指先からこぼれ落ちてしまう。そのつかめなさが、かつては不快だった。それがいつしか、好意に変わった。友情。その感情にふさわしい言葉を探すのであれば、その一語だろう。

「そうですけど。そうじゃないんです。伊藤さんには大変お世話になりましたから。だから単純に、もう少し一緒に働きたかったって、そう思ったんです。ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」


 ——ただ、友達になれるかもなって、少し思ったんだよ。



「あれ、星ちゃん。さっきの段ボールってどこだっけ?」

 星は段ボールをひとつどかして、『お皿』と書かれた箱を奏多の前に押し出した。段ボールの影から、奏多が顔だけ出して笑った。ああ、いた。と星は思った。

「これでしょ。サイズがちょっと小さくなってるの。あと、もともとなんかスポンジみたいな緩衝材が入ってるから、ちょっと他の箱とは違うでしょ」

「さすが星ちゃん、引っ越し屋さんになれるね」

「えー、ならないよ」

 家具をどかすと、四年分のほこりがふわふわと揺れた。

 薄汚れたたんぽぽの綿毛みたい。

 そう思ってから、われながら良い例えではないなと星は思い直した。長いようで、短いようで、やっぱり長い。奏多との四年間。ずっとここで暮らすものだと思っていた。生活はなにもかも順調に進んでいた。仕事で悩むことは多かったし、奏多も同じように苦労しているのは知っていた。だけど、二人ともそれぞれの生活に馴染み始めていた。だから、この生活が、幸福な日々が、ずっと続くものと思っていたのだ。


 ——なのに。


 どうしてそういうものを信じてしまうのだろう、どうしてなにもかもがずっと変わらないものだと思ってしまうのだろう。

 空の天気も、星の移ろいも、花も草も鳥も、なにもかもが常に変わり続けているのに。どうして信じてしまうのだろう。漠とした不安が襲う。奏多がどこかへ消えてしまう。家がなくなってしまう。大切なものがひとつずつ失われていく。なにもかもが、いつかそのうち失われる。必然的な帰結を星は知っている。それよりも前に、自分が失われる可能性すらも知っている。知っている。それなのに、この今に、幸福な今という時間に、どれほどの意味があるのだ。

 星は惑う。夜空の星が誰かにとっての目印ならば、星にとっての目標はなにか別にあるのだろうか。ない。ない。ただ、誰かの足元を、微かに照らすことしかできない。でも、もしそれができるなら——。

 ブオーン。

 掃除機で四年間をあっさりと吸い込んだ。初めからほこりなどどこにもなかったかのように綺麗になった。最後に雑巾で乾拭きすれば、入居した時とまったく同じ状態。そんなところに変わらないものを見つけても、星の心が安らぎはしない。そうして忘れられていたものだけが変わらないなんて、さらに惨めな気持ちになる。星はすぐに奏多を探す。


 ——奏多君、どこにいるの?


 段ボールの山が、四年間の蓄積が、互いを隔てているなんて、皮肉だ。


 ——どこにいるの、ねえ、奏多君、奏多君?


「ねえ、星ちゃん。見てみてー」

 声に視線を向けると、段ボールの影からにょきっと手だけが伸びた。その手には、かすかに黄ばんだ封筒が握られていた。そして、遅れて奏多が顔を出した。

「なに、これ?」

 星はそれを受け取ると、中身を取り出した。


 ——写真?


 古い写真は、一枚いちまいがくっついていて、剥がすとペリペリと音を立てるものの、案外きれいに離れた。不思議なにおいがした。かいだことがあるのに、なんのにおいだったかどうしても思い出せないような、懐かしいにおい。休みの日に、遅い時間まで眠っていて、奏多が起こしてくれる時の優しい感触に、どこか似ているにおい。

「これ、大学時代のやつだよ。僕のかな? それとも星ちゃん?」

 封筒に見覚えはなかったが、写真は見たことがある。

 サークルの飲み会でのことだった。酔っぱらった星と奏多が夢中になってなにかを話し、写真を撮られていることにすら気づかない、奏多が星に見せた写真はそんな瞬間の一枚だった。まだ、ふたりは付き合ってすらいなかった。

「懐かしいね。よくこんな写真とってあったね」

「もうすぐあれから十年になるんだよ」

 星は奏多のことをなんとも思っていなかった。それがいつしか、奏多のいない生活など考えられなくなった。

「そっか」

 写真のなかの自分と今の自分には十年の隔たりがある。変わった。あらゆるものごとが変わった。世界が変わった。自分は変わったし、奏多だって変わった。そうしてなにもかもが変わっていく。仙台への引っ越しなど、ほんの些細な変化の一部に過ぎない。



 奏多の仕事ぶりが評価され、仙台支社でのエリアマネージャーに抜擢された。異例の昇進ということもあり、断る理由などなかった。

 とはいえ、二つ返事ではいと言えるわけがない。

 単身赴任にしろ、ふたりで引っ越すにしろ、相当な覚悟と準備が必要だった。だが、星は奏多からその話を聞くと、即座に首をたてに振った。

「行こうよ。奏多君、やりたいんでしょ」

「うん。でも、星ちゃんの仕事もまだ一年くらいでしょ?」

「私はまた新しい仕事を探せばいいから。それにね、これ偶然なんだけど、仙台にも支社があるんだよね、うちの会社」

「そうなの? じゃあそこに移れるかもしれないとか?」

「わからないけど、聞いてみることはできるでしょ? 駄目だったら新しく探せばいいだけなんだし。だから、奏多君は私のことは気にしなくって良いんだよ。自分の好きなこと、自分がこれだって思う道を進みなよ。私も一緒だから。私も奏多君と一緒にいながら、私の好きな道を探すから」

「うん。ありがとう」

 奏多が静かに目をつむる。星はその顔が好きだ。大切な時を、幸福な時間をかみしめるように、静かに目をつむる。その顔がたまらなく星は好きなのだ。


 ——こちらこそありがとう。


 十年後、自分はどこに立っているのだろう。その横に、奏多はいるのだろうか。変化、変化、変化。目まぐるしく動いていく世界から、置いてけぼりを食いそうで怖い。必死にその尻尾に縋り付くのに、いつか振り落とされそうで怖い。

 雨が降る。水たまりができる。長靴を履いていればそのまま飛び込んだだろうけど、長靴を履くこともいつのまにかなくなった。晴れる。風が吹く。さわやかな緑の葉が揺れる様子をオフィスから見下ろしている。木々の下で木漏れ日を浴びるのではなく、生の太陽の日差しを、ひろい空から直接に浴びた。


 ——なにをしているのだろう。なにをしてきたのだろう。


 山積みの段ボールも、星と奏多が過ごした四年間の証明になり得ても、未来の保証にはなり得ない。封をされ、解かれ、また新しく始まる。そんなことの繰り返しだった。

 雪が降る。吹雪になる。次の日に晴れて、二階の窓から世界を見渡すと、家も車もなくなっていた。人の気配も、動物の気配もなくなっていた。なにもかもがなくなっていた。ところどころ突き出した電柱と電線だけが、殺風景な白いキャンバスに垂直線と緩やかな曲線を描いていた。すべてを覆い隠した。


 ——ズレだ。ズレてるんだ。ずっとどこかズレたままなんだ。


「空知星さん。素敵な名前ですね」

 少しもからかうような様子はなく、丁寧に、そっと赤ん坊でも抱くかのような優しさの、落ち着いた印象の声だった。ノートから顔を上げると、穏やかな微笑をたたえた青年が立っていた。

「よかったら、一緒にこのサークル、入りませんか?」

「はい」

 あの時だってそうだ。星は即答していた。奏多は不思議と、有無を言わせぬ雰囲気を備えていた。だからこそ、苦しい時に苦しいと言えた。悲しい時に悲しいと言えた。奏多が気づいてくれた時だけは、星は素直に、好きなだけ、自分の気持ちを伝えられる。でも——。

「なんかさ、こうして写真見てると、ふたりとも全然変わってないなって思うよね」


 ——えっ?


 星は声が出なかった。リスのような潤んだ黒い瞳で、きょとんとした表情で、奏多を見つめた。

「ほら、その顔。どうして? って顔でしょ。えっ? って顔でしょ。やっぱり変わってない」

 涙が流れそうになるのを、星はこらえた。どうして今、こんなときに泣かなければならないのだ。

「僕はあの頃から星ちゃんのことが好きだったんだよ。初めて話しかけた、あの瞬間から。あの瞬間に、僕は星に恋をしたんだ」


 幸福は、平穏な日々のなかで静止した喜びだ。喜びは、ふたたび動きだした日々のなかの平穏だ。


 ——誰の言葉だっけ。


 星は奏多の隣に座った。奏多は段ボールに寄りかかると、星の肩を抱き寄せた。互いの熱が、喜びとともに混じり合った。

「知らないと思うけど、星ちゃんって大学生のころ、すごくモテたんだ」

「……え、私が?」

「そうだよ。自覚がないってのは知ってたけどさ。そこもまた男にとっては魅力的っていうか。僕は一瞬たりとも気が抜けない。そういう緊張を大学生のころから十年近くも保ってきたんだから、たまにはちょっとくらい褒めてくれてもいいんじゃない?」

「いっつも褒めてると思うけど」

「いいでしょ、それはそれ、これはこれ」

「そっか」

「うん、そう」

「奏多君、すごいね」

「うん」

「奏多君、本当にすごい」

「うん」

「本当に、本当にすごいよ。奏多君。奏多君。奏多君、本当にすごい」

「本当って繰り返されれば繰り返されるほど、なんか嘘くさくなるね。でも、星ちゃんもよく頑張りました。今までありがとう」

 奏多が微笑した。これもまた、星の好きな顔。奏多のすべてが好きだ。十年経っても、きっと百年経っても、この人を好きでいる。


 ——奏多君、すごいよ。奏多君、すごい、すごい。


 涙がこぼれた。訳もわからず、星の目からとめどなく涙があふれてきた。悲しいつもりはない。奏多がいるから寂しくもない。それなのに、どうしてもとめようのない涙があふれてくる。

「すごい、すごいよ。奏多君はすごい。奏多君はすごいよお」

「アハハハハ。うん。わかったから。わかったよ」

 奏多は写真を封筒にしまうと、そのままズボンのポケットに入れた。ポケットのなかになにか入っているのに気がつき、出した。鼻をかんだ、いつかのティッシュだった。

「これ、使う?」

 まだ泣き止まない星に、奏多は乾いたティッシュを差し出した。

「やだ。だってこれ、奏多君が鼻かんだティッシュでしょ」

「うん。いつのかわかんない」

「きたない。ひどいよ」

「フフ、でしょ」

「奏多君、ひどいよー」

 奏多が膨れた星を抱き寄せると、その胸に顔を埋めた。また涙が止まらなくなるが、こうして泣くのは、悪くない。変わる。変わらない。


 ——もう、どっちでも良いや。




 クシュン。

 気象庁の予測によると、今年の花粉の量は例年の八割増。昨晩、カーテンを閉じるのを忘れて眠ってしまった。部屋にさす日のひかりが、宙をただよう塵を照らしている。それが花粉に思えて、鼻がむずつく。昨晩のニュースが、花粉症が、柔らかな日のひかりが、きっといけない。

 ベッドに寝そべったまま、飲みかけのワイングラスのふちを、そっと撫でる。音は出なかった。指先をワインに浸してから、もう一度ふちにあててみた。すると、ニン、と微かにグラスが震えた。動画で見るグラスハープのように綺麗には響かなかった。

 八割増しの花粉が猛威をふるっていた。

 だるい。

 和明は重たいからだを転がし、ベッドから床へ足をおろした。からだだけはまだ寝そべったままだ。

 床に落ちているワイシャツは、蛇の抜け殻に似ているな、とどうでもいいことが頭に浮かんだ。内側からあらわれたのは、新しくも、大きくもない、そのままの自分。だとしたら、なんのために古い皮を脱いだのだろう。


 ——なにも変わっていない?


 鳥の声が聞こえた。昨晩は雨が降っただろうか、と和明は思う。おぼろな記憶をたどってみる。ほそい糸のような光が空から垂れていた。触れられると思い、手を伸ばした。届いた、と思った瞬間に、パチンと音をたてて切れた。雨。しのつく雨のように猛烈な勢いで、流れ星がふりそそいだ。瑠璃色に光る夜空には、雲一つなかった。


 ——また眠っているのだろうか。


 春のまどろみは体温に似ていて、泳いでいるのか溺れているのか、自らが流れの一部になっているのか、わからなくなる。よしっ、と一声出して、和明は上体を起こし、ベッドの縁に座った。朝が始まった。


 ——洗濯しなきゃ。


 一週間分の洗濯物を、選り分けもせずに洗濯機に突っ込んだ。朝はいつまでもそこにとどまってはいてくれない。眠り続ければ、あっというまに過ぎ去ってしまう。洗剤をいれて、「お急ぎ」で回した。

 八時半。今まで金曜の夜に飲み過ぎることもなければ、眠れない夜を過ごした、なんてこともなかった。ぼんやりしていると、朝が逃げてしまう。追いかけないと消えてしまう淡いひかりを、夢のなかでも必死に追いかけていた気がした。

 ポットで湯を沸かし、お茶の缶を開けたが、中身は空っぽだった。冬のあいだはコーヒーだった。お茶が花粉症に効くと聞いて、去年の春はお茶を飲み続けた。効いていると思い続けていたが、よくよく考えてみるとずっとお茶を飲んでいたので、効果があったのかがかえってわからなかった。


 ——今年はコーヒーにしてみるか。


 それだけのことなのに、あらたになにかを試みるような新鮮な心持ちになった。

 これもきっと、春だから。

 春のかすんだ空のような感覚にとらわれたのに、からめとられることもなく浮いて、そのとりとめのない考えは高い空の巻雲のように、やがてすーっとつよい風に消えていった。

 グラスハープの、高く、鋭い音も今日はない。外から聞こえる、ヒーヨ、ヒーヨ、というヒヨドリの声はかまびすしいのに、なぜかどこか、まるく、やわらかくさえ感じられた。

 まだ冷える。ひんやりとあしもとに触れる空気は、嫌な気はしない。その奥になにかがある。梅の香りか。枝にとまる目白のみどりの背中が太陽のひかりに映え、いっそうと甘い香気が高まっていく。

 そういう春が、冷たさの奥に隠されている。感じたことのない、春の味わいを知った。

 ピー、ピー、ピー。

 洗濯機がとまった。

 濡れた服をかごに入れて、ベランダの窓を開けた。クシュン、クシュン、クシュン。

 三回くしゃみをすると、通りを歩く見知らぬ人が立ち止まり、ベランダを見上げてクスッと笑った。


 和明が覚えているのは、ハグをして別れたこと、終電の電車に乗ったのはいいが途中の駅で気持ち悪くなって降車するともう電車がなくて帰れなくなったこと、トイレで吐くうちに眠ってしまい駅員に起こされて駅から追い出されたこと。それぐらい。と、それだけ覚えていれば十分すぎるほどの鮮烈な記憶だった。


 ——せいとの最後の夜。


 自分で思い浮かべた言葉に、和明はひとりで照れ臭さを感じた。星と夜、言葉だけならなんともロマンチックな空気を漂わせる。しずかで、つめたい、ここちよい夜。なにを考えているのだろう、なんてことはない、ただの会社の送別会だった。


 ——仙台か。もう会わないだろうな。


 ふたりで話していたのは覚えているのに、なにを話したのか、肝心なことはなにも覚えていなかった。肝心なことなど、ふたりの間にはなにかひとつでもあったのだろうか。

 星との会話は中心を欠いていて、縁ばかりをやさしく撫でるようだった。そうして高く音が鳴り響いても、おぼろな月明かりのように、雲に隠れて消えてしまう。そんな会話ばかりを繰り返した一年間。

 仕事のことを熱心に話すでもなく、私生活について語るでもなく、ただ漠然と季節のことや天気のことを話題にした。当たり障りない空っぽな会話、それが心地良かったし、その方がふたりの性に合っていた。星との時間の過ごし方としては、なんの不都合はなかったではないか。


 ——不都合はなかった?


 自分の思い浮かべた言葉がおかしくて、フッと思わず笑いが漏れた。

 始発電車に乗り、まだ日の出ないころにアパートにたどり着くと、無意識で集合ポストから広告を出し、三階まで持ち上がった。曖昧な記憶の断片だが、状況証拠からある程度は推測のできることだった。広告の束に混ざり、マンションの管理組合からの通知があった。


『規約違反の注意喚起』


 騒音。

 特に水の音に関する警告がずらりと並んでいた。夜間の洗濯。シャワー。シンクや洗面所などの水回りの使用。トイレ。和明には、はっきりと思い当たることがひとつある。というより、明白に和明の早朝の洗濯に対する警告だ。

 時計を見るとすでに九時を回っていた。期せずして規約時間内に洗濯をすることになった。早朝でなくとも、午前いっぱい干していれば、カラカラに乾く。風になびく洗濯物を部屋から見ているうち、なんとなく、得も言われぬ確信が湧いてきた。

「土曜日、桜でも見に行かないか?」

 悠志と律からの、久々の誘いのメッセージ。昨日の夜に既読にしたまま、返事をしていなかった。

 部屋に洗濯ものの影がさし、隠れるように観葉植物を移動させた。まだらな葉に影が落ち、あわいひかりをつかもうと、細い茎をゆらしていた。あるいは、ひかりから逃げるように、ゆれていた。

 長く生かすには光が欠かせないのに、多すぎれば葉焼けを起こしてしまう。よく気をつけていたのに、去年も同じ失敗をしたことを思い出した。

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春が終わり、 testtest @testtest

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