第1話

 散歩がてら、近所のスーパーで買い物をして部屋に戻ると、既に正午を過ぎていた。

 窓を開け、朝干した洗濯物を取り込み、白いバスタオルをベッドに三つ折りにして並べてそこにうつ伏せになって、洗濯物の匂いを嗅いだ。

 緑萌え立つ山の麓に初夏の風が吹き抜け、白い衣がひるがえり、鼻先に甘い香りが触れる。

 その度に思い出されるのは、小学生の頃の記憶だ。


 担任はそれを、洗濯物の歌だと言った。

 六年生の三学期、カルタ大会は全員参加のトーナメント制、一回戦で対戦したのが彼女だった。おかっぱ頭に丸い輪郭、一重に黒い瞳、かすかに赤い頬、華奢な肩、つんと耳を刺すような高い声。そして、学校一の秀才。彼女の優勝を誰ひとりとして疑わなかった。前の年もその前の年も、彼女は対戦相手に一枚も取らせることなく大会を終えた。

 あの日、一枚だけ取ったのがその札だった。


 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の

 衣ほすてふ 天の香久山


 持統天皇のこの歌は、万葉集では「衣ほしたり」となっている。ほすてふは「干すと言う」の意、ほしたりは「干している」の意で、万葉の時代にあった風習も、小倉百人一首が編纂された頃にはとうに廃れたのか、ほすてふという伝聞調になっている。

 天の香具山は奈良県橿原市にある山で、大和三山の一つだ。標高が百五十メートル程で、当時は山腹に干される白い衣が遠くからでも確認できたのだろう。

 一説によると、早乙女の資格を得るため、村娘たちが山で御籠りする際の斎服だという。田植えの季節の到来を喜び、歌われたものかもしれない。あるいは豊穣を願ったのか。

 和明は小学生の時分に知らなかったことを、大学生になってはじめて調べた。

 彼女から取った唯一の札。鮮明に記憶に焼き付き、大学生になってもなお、その札に執着していた。大学を卒業してからも、春になるたびに思い出した。当時付き合っていた彼女には、「それ、夏の歌でしょ」と言われた。

 社会人になって何年目だろうか。洗濯物の匂いを嗅ぐことで、毎年のように春の訪れを確認する。和明にとって、一種の儀式のようなものとなっていた。それなのに、どうしても彼女の顔と名前が思い出せなかった。



「でも、そんなんでバイクなんて乗れるの?」

 三年ぶりに連絡が来たかと思えばこれだ。

 結婚するから、と淡白な報告だった。和明は「おめでとう」という言葉を躊躇いなく口にし、少し考える。躊躇いがあって然るべきではないか。

 そう言うと思った、と律はいくらか嫌味っぽく言った。

「乗れないこともないと思う。風邪引いてるのと似た感じ」

「危ないじゃん。やめときなよ」

 和明には彼女の声がどこか遠く感じられた。

「でも、もらったお茶はすごく効くんだ。薬みたいにぼんやりしないし」

「その同僚ってさあ——」

「えっ、なに?」

 最後がよく聞き取れず、訊き返した。

「だから、その人って女の人でしょ」

「そうだけど」

 電話の向こうで、彼女はすぐに返事をしなかった。駅前のマンションからの吹き下ろしが窓を叩いて、カタン、カタンと硬い音を立てた。

「ねえ、やっぱりやめときなよ。危ないよ」



 一方、彼からの連絡は去年の春以来だった。


 最後に彼に会った頃、和明は初めて春を疎ましく思った。

 青い匂いを孕んだ、若葉のような風が吹く。物事があらたまり、冬に口を閉ざしていた動植物がばらばらの音を拾い集めて、平仄合わせに興じている。

 華やいだ季節に自分だけが置き去りにされた。

 もし何かを春と共にあらためられるのなら、この眼と鼻を新調したいと切に願った。

 それがもう一年前のことになる。


 風に濁った空と同じく、春の意識はどこか鈍い。

 薬を飲むと、鼻水がとまる代償として、渇きと倦怠が一日中つきまとう。和明が花粉症になって、二度目の春、もらったお茶のおかげか、いくらか意識も晴れているような気がした。

 バイクを路肩にとめ、神社への坂道を駆けた。

 黄砂か花粉か、うっすら霞がかったように濁る空にヒーヨと鳴く声が響く。肝心の鳥の姿はどこにも見えない。

 声を合図に、階段に腰掛けていた男が立ち上がり、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。

「ごめん、遅くなった。久しぶりだね、悠志」

「ああ、久しぶりだな」

 何度もこの神社で待ち合わせた。

 大学は違ったが、上京組として頻繁に連絡を交わした。バイクがなければ、二人は一緒にいなかったかもしれない。

 また、どこからかヒーヨと声が聞こえた。春の風が鳥の姿まで隠して、新しい鳥と入れ替えてしまうのではないか。取り止めのない妄想に耽るのは、お茶を少し飲みすぎたせいだろうか。あるいは、暖かくなりはじめた陽気に、ひとり浮き足立っているのだろうか。

「今日、初めてここで拝んだよ」

 空には薄黄色の靄がかかり、遠くの建物はぼんやり霞んでいる。一ヶ月前までは、遠くの山々がその頂に雪を冠しているのがよく見えた。

「なにをお願いしたの?」

 和明は悠志に訊いた。


 二人は階段を下りた。

 キーを回すと、ブルンブルンと世界が揺れ始めた。ヘルメットをかぶると、世界はぐっと縮まる。

「変わらないこと、かな」

 悠志が声を張り上げると同時に、旋風が吹き荒れた。風が止むのを待ってから、二台のバイクはゆるゆると走りだした。

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