第2話

 執務室のドアを開けると、冷たい空気が這うように足もとからのぼってくる。せいはぶるっと震え、胸を抱くようにして両腕を重ねた。

「伊藤さん。おはようございますー」

「ああ、おはようございます」

 先週とは打って変わって快活なあいさつだった。

 窓の外には春の爽快な空が広がっている。わかりやすい人だ。こんな天気なら上機嫌にもなるかと、星は勝手に得心した。

 バッグを開くと、そこには小さな赤い箱がある。先週もらったチョコレート。開封していないのに鼻につく甘い香りが漂っている。ラップトップと一緒に取りだし、真横の伊藤和明を見る。

 子供の頃、ちゃんと人の目を見て話しなさいと言われた。大人になると、そうやって人のことをまじまじと見るものじゃないと言われた。後者が正解なのだと三十歳を過ぎて気がついた。

 一瞬だけ相手を見て、彼に箱を差し出した。

「これ、良かったらどうぞ。チョコレートです」

「え。ああ、ありがとうございます」

 彼は一瞬ためらってからリボンを解き、箱を開けた。甘い香りが立ちのぼった。

「これ、どうしたんですか?」

 星は箱の中身をあらためて確認した。

 チョコレートだとは聞いていたが、五百円玉くらいの直径の丸いチョコレートが四つ、寂しげに収められている。一つ一つ種類が違う。ココアパウダーでコーティングされたもの。表面に粒々のある、ナッツかアーモンドが入ったもの。ピンク色のチョコレートでコーティングされたもの。残る一つは、赤いハート型。

 中身以上に、箱の装飾の美しさに眼を奪われた。疲れていたせいか、貰った時にはよく確認しなかった。黒のレースや金のリボンは単なるプリントではない。細かく編み込まれた繊細な綾は、百円ショップで売っている安物とは違い、ほつれも乱れもなく緻密だった。

 たった四つのありふれたチョコレートのためにしてはあまりに豪華だった。中身がありふれているからこそ、奢侈を尽くした外装が必要だったのだろうと、これまた勝手に得心した。

 星が箱に見惚れるうちに、隣の男が箱から一粒つまみあげて口に放りこんだ。

「谷本君にもらったんですよ、先週」

「え」

 二つ目に手を伸ばしかけた彼は、その手を止めた。

「すっかり忘れてて、バッグに入れっぱなしでした。でも私、節制中なんで、遠慮しておこうかなと思って」

 彼の表情が張り詰めると同時に、星の肩にも力が入る。数秒の沈黙とともに相手の表情を窺う。

 星は自分が細身であることは自覚していた。対して、目の前の男はおせじにも細いとはいえない。

「ごめんなさい、節制中ってそういう意味じゃないんです。私、胃とか腸とか荒れやすくて。だから油分の多いチョコレートとかはちょっと。肌にも出るんで。甘いもの大好きなんですけど控えてるんです。ちゃんと体型も維持したいって思うし。年齢的にも、気にしないとすぐに体型が変わっちゃうし。だから」

「あ、うん。わかります。そうですよね、女性はやっぱり体型とか気にしますよね」

 彼は星から目を逸らすと、伸ばした手を引っ込めてパソコンに向かった。春らしからぬ分厚い雲が太陽を遮り、執務室はにわかに暗くなった。

「あの——」

 星は残された三粒のチョコレートをじっと見つめた。人のことをまじまじと見るものじゃない。でも、チョコレートなら平気だ。

「あの、なにかおかしかったですか?」

 視線はまだチョコレートの上にある。人のことをまじまじと見るものじゃない。執務室に足を踏み入れた時の寒さはやわらぎ、デスクの周辺にはぬるい空気が漂っていた。

 このくらいなら、すぐに溶けたりはしないだろう。星はチョコレートの箱の蓋を閉じた。

「人からもらったものを許可も得ずに他の人に渡すのって、よくないかなって。これ、谷本君が糸井さんのために買ったものってことですよね」

「ああ、なるほど。そういうことですね」

 再び窓から光がさした。春の速い上空の風が、あっという間に雲をさらった。

「それなら大丈夫です。谷本君も人から貰ったって言ってましたから」

 唐突に冷たい空気が二人の間に下りてくる。切ったはずの冷房を、誰かがまたつけたのだ。


 ——やっぱり、綺麗な箱。


 ふと視線をあげると、目の前には困惑した和明の顔があった。

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